3.239.236.140 クリスチャンをご隠居にするキリスト教は終わった

 

クリスチャンをご隠居にするキリスト教の時代は終わった

 

 終末論について、これまでキリスト教はそれほど注目してこなかった。

 終末論がこれだけ話題に上るようになったのは、ごく最近のことである。

 私たちの前の世代の教職者たちは、それゆえ、終末論についてそれほど深く考えてこなかった。戦後のキリスト教においては、むしろ、信仰によって人間は救われる、という信仰義認の教理で終始していたように思われる。

 このこと自体は悪いことではない。

 信仰義認はキリスト教の基本中の基本である。

 

 しかし、1990年頃から、300年間も世界の主導原理として機能してきたヒューマニズムが完全に崩壊することが明らかになり、世界が混迷の中に入るにつれて、キリスト教は単に天国のキップを与えるだけのメッセージでは足りない、世の光、世に正しい道を示す者としての役割を果たすにはそれ以上のメッセージが必要ではないか、ということが言われるようになってきた。

 

 ここ170年の間、ディスペンセーショナリズムの逃避的終末論によって、クリスチャンは、世を導くのではなく、世から逃げ出すことしか考えられなくなってしまった。それゆえ、彼らは、今日の世界を混迷から救い出すことを諦めるだけではなく、正しい道を示そうと努力する者の足を引っ張ることさえしている。

 

 「終末論に関わらないほうがよいですよ。前・無・後千年王国説のどれが正しいかなんて誰も分からないのですから。」と言うことは、「聖書を読んでも神の御心は分からないのですよ。」と言っているのと同じである。

 

 どうして、聖書に記されたことを学ぶことをしないのか。

 神は、無駄なことを聖書に書き記されたのだろうか。

 

 「明らかにされたこと(啓示されたこと)は、あなたがたに属する」と神ははっきりと主張されたのに、「分からないです」ということは、責任放棄である。

 

 前・無・後のいずれであるかは、単なる神学の論争に留まらない。これは、人間の生き方を決定する重大な問題である。

 

 クリスチャンは、歴史内において何をなすべきかは、前を取るか、無を取るか、後を取るかによって決定的に異なってくる。

 

 歴史内において、クリスチャンはただ世の堕落や混迷を放置し、傍観するだけでよいのか、それとも、クリスチャンは世を治め、世を神の御心を実現させるフィールドとしなければならないのか…。

 

 天と地ほどの違いがあるではないか。

 

 今日のキリスト教は、人間中心なのだ。それゆえ、人間にとって益のあることにしか注目していない。

 

 キリスト教の目的は、人間を救うことにあるとしている。その上に、さらに高い目的があることを無視してきた。

 

 聖書は、「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(第2コリント5・15)と述べている。すなわち、救いの目的とは、「自分のためにではなく、キリストのために生きる」ことにあるとはっきりと述べている。

 

 さて、それでは、人間の魂の救いだけで終わることは正しいことであろうか。教会は、個人的な救いを得た人々の、隠居生活のためにあるのだろうか。「あとは、キリストのお迎えが来るのを待つだけじゃ。」と悠悠自適の生活を送るための「救い」なのだろうか。

 

 そうではない。個人的な救いを得た人々は、キリストのために生きるという新しい人生に踏み出した。

 

 キリストのために生きるとは、具体的に「諸国民を弟子とする」(マタイ28・19−20)ことである。全世界のすべての国民を神の弟子とするために働くことである。

 

混迷に陥っている現代に光を点し、歩むべき道を示すことなのだ。