地を従えよ


デカルトからカントまでの世界観革命はどのような実を結んだのか?

この革命は平たく言えば、「創造者でも何でもない人間が、自分中心に世界を回そうとしたムチャクチャな革命」だった。

社会で、自分中心に世界を回そうとする人間は、異常者である。

正常な人間は、社会の環境に自分を合わせて、他者と調和しようとする。

礼儀とか協調性とかは、社会人になるための最低の資質である。こういった資質を持たない人間は社会からはじかれる可能性が高い。

犯罪者とは、自分を中心に世界を回すという人間の堕落性が極端に発現した人間である。

近代とは、「人間中心」が厳密に理論化され、それが一つの権威にすらなった時代といえる。

カントの仕事とは、「自分しか確実に存在すると言えるものはない」というところから、「自分が確実に認識できないものは、重要ではない」というところへのジャンプを成し遂げたところにある。

デカルトが「(厳密に言えば)神はいるかどうか不明だ」と述べるに留まったのに対して、カントは「いるかどうか不明なものは、重要ではなく、無視できる」と述べた。

彼が「神の首をちょんぎった」と言われるのはこの理由からである。

カントが行ったこの思想革命は、驚くべき発展を遂げた。

カント以前とカント以後の思想の違いとは、開き直り前と開き直り後の違いである。

開き直る前では、神に対する恐れがわずかでもあった。しかし、開き直った後では、「神を亡き者としよう」というサタンの野望が濃厚に現われた。

人類は、「神は重要ではない」から「神はいない」と断言するまでになったのである。

この無神論に基づいて社会理論を作ったのがマルクスであり、それを実行したのがソ連であり、東欧であり、北朝鮮である。

神の首を切り落として、人間だけで理想郷を作ろうとした結果、どのようなことが起こったか?

1億人の粛清である。

日本の拉致被害者も含めて、無数の悲劇が起こった。

「神などいらない。人間だけでやっていける!」という叫びは、結局、自分自身にとって地獄を作り出したのである。

19世紀に起き、20世紀と21世紀の世界を作ってきた主要な教えであるマルクシズムとダーウィニズムはどちらも、18世紀のカントによる思想革命の申し子である。

その根底に流れているのは、世界から神を追い出そうとするサタンの野心である。

この野心の対抗勢力であるはずの教会は、サタンの巧みな攻撃によって骨を抜かれてきた。

その一つはリベラリズムである。リベラリズムは、デカルトの「自分が以外の一切を疑え」との教えを信じて、「人間は聖書すらも疑わねばならない」という考えに従った立場である。

御言葉という神聖不可侵のものに手をつけた不届き者である。

もし神が絶対主であり、人間が従者であるならば、従者が絶対主の言葉を裁けるわけがない。ちょっと考えればすぐにわかることだ。

しかし、思い上がった愚かな人間どもは、聖書に手をつけて、それを普通の人間の文書のように解剖し、「これはオリジナル」「これは後世のつけたし」と切り分けたのである。

切り分ける基準は一体何か?もちろん、切り分けた人間の主観である。

ということは、結局、このようなことをしても、最終的に見つかるのは、「神の純粋な言葉」ではなく、「選者の純粋な言葉」でしかなくなるのだ。

だから、リベラルな人々が作り出した聖書とは、各人によって厚さがバラバラ、内容はヒューマニズムの二番煎じでしかない。

リベラリズムとは、啓示宗教ではなく、自然宗教である。キリスト教が啓示宗教の立場をとりつづけたいならば、聖書を神聖不可侵なものとして一切手をつけないことだ。

聖書に対する疑いを徹底して捨てる以外に、啓示宗教としてのキリスト教が生き残る可能性はないのだ。

リベラリズムによって、教会の人々の信仰は大きく損なわれた。聖書に対する純粋で単純な信仰が否定されたので、信仰に大きな穴が開いた。信仰がなければ力が働くはずもないので、教会の勢力はどんどん縮小していった。

ヨーロッパの教会の衰退の大きな原因はリベラリズムの聖書批判にある。

サタンが教会に加えたもう一つの攻撃は、ディスペンセーショナリズムである。

19世紀の始めに、サタンは聖書信仰(聖書を神の無謬の御言葉と信じる信仰)の福音的な教会に対しても攻撃を加えた。

ディスペンセーショナリズムは、ヘーゲル主義の影響を濃厚に受けた擬似キリスト教である。

聖書の各時代を、試行錯誤の連続と見る。ある時代において神はある試みを行ったが、人間は失敗した。そこで神は新しい試みを行ったが、やはり人間は失敗した。・・・

こういう試行錯誤がえんえんと続いてきたというのが、ディスペンセーショナリズムの歴史観である。

お気づきだろうが、これはダーウィニズムと似ている。自然界は、試行錯誤の連続によって今日の姿にまでなったと考えるのである。

ディスペンセーショナリズムもダーウィニズムも、ヘーゲルの「歴史とは、相反するもの同士の対立と合一という試行錯誤を繰り返して進化する過程である」という考えを、一方は神学に、他方は生物学に取り入れた思想なのである。

ディスペンセーショナリズムの影響は全世界の聖書信仰の教会をなめつくした。

教会の人々は、「時代において人間が何をやっても失敗に終わる。キリストの再臨によってしか解決はない。」と信じるようになった。

教会は「世の光」「地の塩」であることをやめた。

16-17世紀の教会がヨーロッパをひっくり返し、聖書に基づいて政治・経済・文化全般を改革したことを忘れて、「我々にとってこの世界はあきらめの対象でしかない。我々は、一人でも多くの人を救いに導いて、この滅び行く世界から救出する以外にない」と考えるのである。

この思想を受け入れた教会は、オウムの出家信者と同じように、世捨て人となった。もちろん、世捨て人にまともな人間がいるわけがない。

世界とは、どんなに汚れていても、神が創造した世界なのである。神は世界を我々の目の前に示して、「これを受け入れよ。」と命令しておられるのである。

世捨て人とは、神の現実を拒否し、空想を喜ぶ逃避者である。

だから、今の教会は、アニメオタクとどこか似ている雰囲気をかもし出しているのである。

神が「なんとかしなさい」と言って提示しておられる世界を拒否して、「私はそんな汚い世界に関わりたくありません」と逃げを打っているのが今の大多数の聖書信仰の教会なのだ。

サタンは、徹底した闘いを我々に宣言し、これまで実行してきた。

その結果、どうなったか?

1次2次大戦を通じて無数の人々が傷つき滅びたのを見て、これでいいじゃないか、と言えるだろうか。

共産革命によって1億人の粛清者がでて、これでいい、と言えるだろうか。

マルクス主義の影響から脱することができずに、700兆円の借金を作り出したわが国を見て、「これでいいじゃないか。」と言えるだろうか?

神が我々に与えた使命は歴史のはじめから一貫している。

「地を従えよ」(創世記1・28)

 

 

2004年12月27日

 

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