54.166.141.69 旧約と新約の違いをしっかりと理解しよう

 

旧約と新約の違いをしっかりと理解しよう


(1)
「安息日は土曜日か、日曜日か」という問題は、今日ナンセンスである。

なぜならば、キリストご自身が安息となられたからである。

「疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。」

安息日の制度は、旧約における「キリストの予型」であって、それは、キリストという実体の登場とともに廃棄された。

「それゆえ、…聖日、…安息日について誰からも裁かれてはなりません。これらは、来るべきものの影であり、本体はキリストにあるからです。」(コロサイ2・16、17)。

現代において、我々はどの曜日でも礼拝できる。キリストにあって、すべての日が安息日である。

もし特定の日を安息日とし、それ以外を非安息日とするならば、そのような人は、

安・息・年・を・な・ぜ・守・ら・な・い・の・か?

7年に1年、50年に2年まるまるなぜ休まないのか???

一つの戒めを文字通り解釈して、後は、「予型」として扱う根拠はどこにあるのか???

(2)
パレスチナの地を聖地として扱い、他の土地を汚れた土地として扱う人々は、旧約と新約の経綸を区別していないので、間違っている。

全地は十字架によって清められているのである。

「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・19−20)

神が清められたものをなぜ「汚れている」と言うのか?

(3)
アシュケナージのユダヤ人を偽ユダヤ人と呼ぶ人がいる。

アシュケナージのユダヤ人の先祖は、中央アジアに住んでいたユダヤ人の血を引かない民族であり、ユダヤ教に改宗してユダヤ教徒になっただけだから、と。

もしこの理屈が通用するならば、異邦人は「偽神民」ということになる。

異邦人クリスチャンは、血筋によって神の民になったのではなく、信仰によって神の民に加えられたからである。

それだけではない。ユダヤ人自身、「偽息子」ということになる。

なぜならば、聖書において本来の神の子はイエス・キリストだけである。

ユダヤ人は、割礼を受け、信仰によって息子の地位を得たのである。

アダムはもともと神の子であったが、罪を犯したために勘当された。

だから、人間はみな、「勘当された子」として生まれてくる。

ユダヤ人も同じである。

つまり、ユダヤ人も異邦人も「生まれながらの神の子」ではないのである。

生まれながらの神の子とは、イエス・キリストだけである。

だから、我々はみな「養子」なのだ。

本来その家の子供でないのに、養子として迎えられたのである。

そこには、ユダヤ人も異邦人もない。聖書において、養子は、実の子供とまったく区別がない。どちらも同じ子供として平等に扱われる。だから、養子縁組の制度を敬遠するのはクリスチャンとしてふさわしくない。

今日、メシアニック・ジューのユダヤ人がまるでユダヤ教のように「選民思想」になってしまったのは、このような理解をしていないからである。

血筋にこだわって、クリスチャンやユダヤ人の間に1級市民と2級市民の区別をつけるのは聖書的ではない。

(4)
では、なぜイエスは異邦人を一段下に見られたのか、と問われるかもしれない。

「するとイエスは言われた。『まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』」(マルコ7・27)

これは、旧約の時代の経綸のもとにあったからである。

つまり、旧約において、契約の民とはユダヤ人であった。

キリストは、第1義的に、契約の民としてのユダヤ人を救うために来られた。

なぜならば、アブラハム契約とは、「契約に属する限り、メシアの救いにあずかれる」というものだったからである。

つまり、順番があるということだ。

イエスは、まずアブラハム契約を成就しなければならなかった。

契約の中にいる人々を救うことなく、契約外の人々を救うならば、「いったい契約とは何だったのか?」という問題になる。

保険会社が、保険加入者に支払わずに、保険非加入者に支払うのがおかしいのと同じである。

救いは「まずイスラエルに」届けられなければならなかった。

そして、紀元70年にイスラエルへの審判が下り、イエスを信じた人々は救われ、信じなかった人々は滅んだ。

ここで大団円を迎えた。救済劇の幕はここで閉じた。

さて、旧い世界が滅んだので、新しい世界が到来した。

それは、民族に関係なく、救いが全世界のすべての人に届けられる世界である。

もはや「民族は関係ない」のである。

この新しい世界において、ユダヤ人が上で、非ユダヤ人は下というような区別は存在しない。

「異邦人は野生種で、我々は栽培種だ。だから我々のほうが上だ」というようなメシアニック・ジューのユダヤ人がいるが、まったく勘違いしている。

パウロが野生種と栽培種について触れたのは、「ユダヤ人は御言葉の訓練を受けているので、御言葉の真理になじみやすい。だから、救いの時が来れば、御言葉に慣れ親しんでいなかった異邦人よりもはるかに救いを受け入れる力があるだろう」という趣旨においてである。

何もユダヤ人と異邦人の間には格の違いがあるということを示そうとしたわけではない。

新約時代においてユダヤ人と異邦人に差別をつける考えは、ユダヤ人の中に傲慢な魂を育て、その救いをかえって妨害することになるだろう。

 

 

2005年12月13日

 





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