54.80.188.87 欧州連合とロックフェラー

 

欧州連合とロックフェラー


欧州連合は、ヨーロッパをアメリカに対抗できる一つの強国にするためにヨーロッパ人によって設立されたと一般に考えられている。

しかし、欧州連合の成立課程を見ると、それがアメリカの創作であることは明らかである。

ゲイリー・ノースのエッセイ「EUthanasia」を以下にまとめる。


1913年、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアは、ニューヨーク市の小役人であったレイモンド・フォスディックを年俸1万ドルで雇った。

フォスディックは、ベルサイユ平和委員会/国際連盟のアメリカ事務次官となり、欧州経済共同体の設立の陰の立役者であるフランス事務次官のジャン・モネといっしょに働いた。1919年にフォスディックは、彼の妻に当てた手紙の中で「私とモネは『世界政府の枠組み』の土台を作るために働いている」と述べた。(July 31, 1919; in Fosdick, ed., Letters on the League of Nations (Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1966), p. 18.)

1920年、上院が国際連盟条約の批准を拒むと、アメリカに戻り、すぐにロックフェラー財団の総裁になり、1958年には、ロックフェラーの唯一の公認伝記の著者となった。彼の兄弟ハリー・エマソン・フォスディックは、1925年ロックフェラーが建てた『リバーサイド教会』の牧師になった。

ジャン・モネが、アメリカの支配者層のバックアップのもとで活動したことは資料から明らかだ。(Francois Duchene, Jean Monnet: The First Statesman of Interdependence (New York: Norton, 1994), p. 63; Richard J. Barnet, The Alliance: America-Europe-Japan, Makers of the Postwar World (New York: Simon & Schuster, 1983), ch. 3.)

モネが取った戦略は、計画者の長期的政治目標を大衆の目から隠すことである。その目標とは、「構成員国家に対して主権をふるうヨーロッパの統一政府の樹立」である。

彼は、西欧諸国政府に対して「自由貿易組織」に加盟するよう説得した。その最初のステップは、1951年のパリ条約に基づく『欧州石炭鉄鋼共同体』の設立であった。

次のステップは、1957年のローマ条約に基づく『欧州経済共同体』であった。段階を踏んで徐々に、この組織は取締機関を増やし、「競技場の地ならし」をしていった。その結果、構成員国家の生産者は価格だけで競争するということができなくなってしまった。

この組織が自由貿易の組織であったことは1度もなかった。その貿易は常に、超国家機関によって管理された。この管理に反対する国には、経済的な制裁が加えられた。

「最初は自由経済を唱道し、後で統制経済に移行する」――これが、フォスディックとモネの長期戦略であった。

フォスディックは、1940年に、自由市場経済の最高の学者と考えた人々に資金を提供した。ルードヴィッヒ・フォン・ミーゼズと彼の弟子ウィルヘルム・ループケは、ロックフェラー財団の資金援助によって本を出版した。

彼らは世界政府の樹立などまったく信じていなかったが、フォスディックにとって、そんなことはどうでもよかった。ミーゼズとループケの名前を借りられればよかったからだ。

自由貿易を装って支持者を集め、地域経済連合を作り、徐々にその中央組織に司法権を与える。この計画は、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの息子デイビッドが1973年に設立した三極委員会によって組織的に進められている。

しかし、これは西半球においてはまだ根付いていない。NAFTA(北米自由貿易協定)の中央組織が持つ権限は限定的であり、主権を持つまでには至っていない。

欧州連合(EU)にはかなり大きな権限が与えられている。最終的な主権が欧州憲法によって与えられるはずだったが、フランス、つづいてオランダの国民投票で批准が否決されたため、事実上失敗した。


フォスディックとモネの戦略の予型は、1912年にテキサスの政治的大物E・M・ハウス「大佐」が書いた『行政官フィリップ・ドゥルー(Philip Dru: Administrator)』に記されている。

本の中において、ドゥルーは、関税を撤廃し、社会保障法を制定し、北米の地域政府を設立し、国際協力体制を築き上げた。アメリカ・メキシコ関係に関して、次のように述べた。

「歳入を目的とする統一関税を除き、すべての関税を廃止すべきだ。統一関税は、世界の諸民族が同意してきた税金であり、けっして自由貿易を妨害するものではない。 もっとも愛国心に富み、賢明な人々の指導と助言のもとで準備された憲法を持つことはさらなる目的である。この憲法は、徹底して今日的でありながら、人々の習慣や慣習と調和したものであるはずだ。」

E・M・ハウスは1913年にウィルソン大統領の首席顧問になり、1919年にベルサイユへのアメリカ代表団『The Inquiry』のリーダーとなった。

The Inquiryは、1921年「外交問題評議会(Council on Foreign Relations)」となった。

E・M・ハウスの政治経済的戦略を発展させたのは、ジョン・フォスタ・ダレスである。ニューヨークの大金持ちの法律家であったダレスは、レイモンド・フォスディックの数年後に同じプリンストン大学を卒業した。両者とも、ウッドロー・ウィルソンが学長だった時にプリンストンで学んだ。

ダレスの叔父はウィルソン政権で、ウィリアム・ジェニングズ・ブライアンの後釜として国務長官になった。ブライアンは、ウィルソンがアメリカをドイツに参戦させる腹づもりであることを知り、抗議のために辞任した(1915年)。

ダレスは、ハウスが率いるベルサイユ平和会議(1919年)の代表団の一員となり、後にアイゼンハワー政権で国務長官になった。彼の兄弟アレン・ダレスは、アイゼンハワー大統領のもとでCIA長官を務め、ピッグズ湾事件の失敗でケネディによって解任された。ケネディ暗殺後、ウォーレン調査委員会の委員長を最後に政治の舞台から降りた。

ジョン・ダレスは、1930年代に、国際連盟によって設立された諸法人が無関税の恩恵を享受できる国際自由貿易地域を設置すべきだと説いた。これらの法人は国際連盟にその特権のための税を払う。この考えは、米外交関係の有力者たちと多国籍企業の経営者の間に広まった。

[ハリー・エマソン・フォスディックが長老教会から異端として訴えられた際に、ダレスは彼の法律顧問になった。フォスディックは、ニューヨーク市長老教会の説教者の座を降りることによって問題を収めた。これは彼にとって打撃とはならなかった。なぜならば、彼は一貫してバプテストであったということと、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアが彼を自分のバプテスト教会の牧師として迎えたからである。ジュニアがロックフェラー財団を引き継いでからずっとハリーは財団の理事だった。]


フォスディック、モネ、ダレス、そして、彼らの背後にいるロックフェラー。

彼らが周到な計画のもとに実行してきた世界政府設立への道は、2005年5月29日フランスによって、2005年6月1日オランダによって欧州憲法批准が拒否されたことによって、最後の最後において頓挫した。

見よ。バベルの塔以来、サタンの策略「世界統一」は結局成功しない。

人間が神抜きでまとまろうとしても、神は人間の言葉を乱して散らされるのだ!

真の統一とは、「聖霊による世界統一」である。それはペンテコステの日に始まり、福音の進展にしたがって拡大している。

(EUthanasia by Gary North; http://www.lewrockwell.com/...)

 

 

2005年7月8日

 





前ソ連反体制活動家が欧州連合の独裁制移行を警告

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