ビザンチン本文からの翻訳を復活させよう


以下の、ビザンチン本文に関する論文を訳していて、改めて事の重大さに気づかされております。

これまで学者たちは、聖書のオリジナルの文書が、ずたずたに分散されてしまったので、どれがもとの文書を忠実に再現しているなんていうことは不明であり、そんな写本は今日存在するはずがない、と最初から決めてかかってきました。そして、そこを前提として研究を開始してきました。

みなさん、これってどう思われますか?聖書が最初から四散していた?ばらばらにされて、まともなものがなくなった。そのため、人間がよいと思う断片を寄せ集めてもとの聖書を再構築しなければならない?

何様?

神は、聖書が四散して、ばらばらになることを許されたのでしょうか?ちぎられて、5つとか6つの断片に切り離されることを神はよしとされたのでしょうか?

私は、現在の聖書学が、聖書に対する冒涜的な態度に基づいて成立していると感じています。

普通のどこかの文書、古文書のように扱っている。信仰がないから、そういう「ばらばらになってしまった」という考えが生まれる。

神は、人間に対して救いに必要な情報を正しく届けるために、ご自身の全能の力によって聖書を毀損されることなく保つ力があります。そして、契約的誠実ゆえに、神は必ずそのように正典を維持されたことでしょう。

今の本文批評は、ノンクリスチャン的前提つまり「非契約的認識論」に基づいていますが、クリスチャンは、そのような前提にはたちません。

クリスチャンの前提とは、「契約的前提」です。神は御言葉を毀損されることなく保持され、それを今のクリスチャンに対して十分に信頼できる形で提供することがおできであり、また、してこられたと信じることです。つまり、神の誠実を前提として持つことです。

だから、ノンクリスチャンとは一緒に学問はできない。

ビザンチン本文を翻訳する必要があります。これは、クリスチャンが少なくとも1000年間使っていた聖書です。我々が手にしているのは、ここ100年あまりの新しい写本(写本自体は古いのだが、プロテスタントのクリスチャンがかつて使用してこなかった写本という意味で「新しい」写本)に基づくものです。

しかも、この新しい写本を採用した人々がオカルティストであり、世界統一政府論者、イルミナティの仲間であったとなればどうでしょうか。

ここ150年の間、クリスチャンはまったく騙されていた!!!

そういうことです!!!

こういうきわめて重大な情報が次々と手に入るということはどういうことでしょうか?

神様が私たちを信頼してくださっているということ以外の何があるでしょうか。我々は情報を与えられた。だから、責任がある。そういうことでしょう。

以下、“THE NEW TESTAMENT IN THE ORIGINAL GREEK BYZANTINE TEXTFORM 2005” の序文から引用する。

http://koti.24.fi/jusalak/GreekNT/PREFACE.PDF


ビザンチン本文は、ギリシャ語圏でもっとも多く使用されていたテキストである。

この優位性は、遅くとも4世紀から16世紀の印刷術の発明まで続いた。

マジョリティ・テキスト学説(ビザンチン本文学説)の支持者は、このテキストが、さらに4世紀以前の数百年間においても、ローマ帝国の主要なギリシャ語圏(南イタリア、ギリシア、小アジア)を支配していたと考える。これは、広範囲かつ多様な地域であり、ここにおいて4世紀以前に写本や視覚的及び教父的な証拠は見つかっていないのだが、しかし、その後数世紀にわたってビザンチン本文が主に使用されていたという事実がある。

伝達という点から考えると、写本の伝達において記録にはっきりと残っている大変動がない場合、多くの写本の中でひとつの本文だけが優勢になると期待される。

このような通常の伝達が起こった場合、次のことが仮定できる。すなわち、「現存する写本の基礎が一致して証言する内容は、その原型となる起源を反映している可能性が高い」と。それは、「単一の写本や写本の小さなグループよりも高い、または、広範囲に及んだ多様性や伝達的継続性を達成することに失敗した孤立した視覚的もしくは教父的文書よりも高い」と。

「たとえそれが非優勢的伝達経路を代表する写本から作成された場合であっても、合意された本文は、より優勢な伝承から乖離するよりも、むしろ、そちらに近づくことのほうが多い」という事実はこの仮定を支持している。

このように、ビザンチン優位説は、正典伝達に関してもっとも可能性の高いシナリオを提示しているようだ。

この仮説は、折衷的パッチワークこそオリジナルであるとする思索的な現代の学説よりもはるかに現実性が高い。このパッチワークは、方々に散っている断片を継ぎ合わせてできており、常に、現存する写本からの支持レベルが変化するのである。

概して通常の伝達方法を前提とする歴史的理論のほうが、原著を忠実に再現しているとみなすことができる単一の本文(a single Textform)の伝播と優勢を容易に説明する。

ビザンチン優位説には、現代の折衷的学説が提示する代替案よりも、はるかに難問題が少ない。

初期の伝達史の説明が理論の問題に留まっている限り、ビザンチン本文内に見受けられるほとんどすべての異文は、ウェスタン本文もしくはアレキサンドリア本文のいずれかにも含まれる構成要素である。

しかし、ウェスタン本文型及びアレキサンドリア本文型は、ビザンチン本文よりも、はるかに相違点が多い。このことは、「これらの地域的本文のそれぞれが独自に、もっと優勢な伝承を忠実に再現していたと思われる共通の源から派生した」ということを強く示唆している。

さらに、個々のビザンチン本文の異文は、合理的な内部・筆写的・伝達的根拠に基づいてはっきりと弁証できるものであり、非ビザンチン本文型によく見られる異文に存在する弱点がはるかに少ない。

ビザンチン優位説は簡明であり、その簡明さは、現代の折衷的モデル・・・が要求する伝達史と比較して顕著な違いがある。

これらのモデルは、「非常に初期の時代に、オリジナルの本文は、四散したため、その後、異なる本文型が発展し、そのいずれも失われた原著を再現しているとは言えない」との考えに基づいている。

このシステムのもとで、ビザンチン本文は、正式に発表された公的校訂版(formal recension)から派生したと考えられている。もしくは、(おそらく初期の)様々なウェスタン本文型及びアレキサンドリア本文型に由来する異文の比較的非体系的な選択と合成を含む導きなき加工から派生したと考えられている。

いずれの場合でも、この異文の非批評的選択は、様々な文体的及び調和的発展と組み合わさり、後代の写本記者の考え方の原型となったことだろう。

問題は、「広範囲に普及したにもかかわらず、比較的統一が取れているビザンチン本文がはたして、そのような無計画な手順を通じて生まれることがはたしてあるだろうか」という疑問にどう答えるかである。

ひとたび、ビザンチン優位説の完全に理論的かつ実際的な概要が、既存の証拠に照らして検討を受けた場合、(歴史的な確認を欠く)これらの仮定は、保証なきものとみなされるのである。



THE BYZANTINE-PRIORITY THEORY
・・・ビザンチン優位説は、新約聖書本文批評の他の理論や方法と異なっている。目的は、現存の写本基礎の間で証明可能な連続性もしくは広範囲に及ぶ存在を欠くオリジナルのテキストを再建することではなく、長い間失われていたと考えられているオリジナルのテキストを回復または復活させることでもない。原型的自筆文書の概念を希望なしとして捨てるべきだというわけでもない。

むしろ、ビザンチン優位説は、ギリシャ語新約聖書の本文を正典として提示する。すなわち、それがかつて何世紀にもわたって写本記者によって証明され、保存され、維持されてきたのと同じように提示する。

この伝達的基礎は、ビザンチン優位説の特徴である。ビザンチン優位説は、公認された本文批評のガイドラインに沿って機能し、異文を評価する場合には、すべての適切な伝達的・筆写的・外部的・内部的考慮を利用する。内部的及び外部的基準は、健全な方法論にしたがってバランスよく機能する。

本文型の関係と傾向を認識し、本文評価の合理的な方法を実行する。新約聖書のもっとも可能性の高いオリジナルの形を決定する場合、外来の神学的要素を呼び出したり、押し付けたりしない。


ビザンチン優位説は、折衷的な異文ごとの作業を行わない。むしろ、すべての異文単位の位置を伝達史の中で絶えず調べる。記者の既知の癖だけではなく、現存する写本と歴史的データにも照らして確率を評価する。

ビザンチン優位説は、合理的な伝達主義を強調する。とくに、テキストの中で現れるとおりの、及び、写本自身が提供する外部サポートと関係するとおりの異文単位の連続に関して。

現代の折衷的理論は、この点で正確ではない。それは、一連の望ましい異文を作り出す。ときには、テキストの短い部分にわたって、いかなる既知の写本や版、原型においても存在が証明されたことのない異文を作り出すのだ。

ビザンチン優位説は、そのような方法、そして、そこから生じる結果を非合法とみなす。なぜならば、写本伝達に関する妥当な歴史的要素を無視するからである。

現代の折衷的習慣は、写本どうしの合意の中で保存が決定されるというテキストの受容の方法に代わる物ではない。本文批評の実現可能な習慣には、現存の証言の間に存在する一般的な調和を乱さない伝達史が必要である。

現代の折衷主義が作り出した本文には、実現可能な伝達の理論が欠けている。ビザンチン優位説が提示する本文は、首尾一貫した結論を提示する伝達理論に基づいている。このこと自体、ビザンチン優位説の有効性を示唆している。

ビザンチン優位説は、新約聖書の最適な形態の本文を決定する際に、それ自体で説得力のある論理的な展望を提供し、様々な折衷的な代替物が示すことのできない方法論的な首尾一貫性を有する。

現代の折衷的な学説は、擬似権威的な新約聖書本文の形を確立したと主張するが、この主張には欠陥がある。というのも、土台となる理論に、伝達志向の基礎が欠けているからである。ビザンチン優位説は単純に見えるかもしれないが、過度に簡略化されているものではけっしてない。千年間以上もの間伝達的継続性と優位性を示してきた本文を、神聖なオリジナルの自筆文書をもっとも忠実に再現していると認定することには説得力のある理由がある。・・・

ビザンチン本文は、新約聖書のほとんどを通じて維持されている異文の優勢な一致パターンを反映している。ほとんどすべての例において、様々な批評的道具、特殊な研究、照合記録において発表されたデータによって、一致した異文が容易に確立・確認される。

ビザンチン本文の異文を決定するための主要な源は依然として、ヘルマン・フライハー・フォン・ゾーデンの大道具である。・・・これらのデータは、初期に発表された源から以前決定されたビザンチンの異文の状態に関して主要な確認を提供している。とくに、これらの完全な照合結果は、フォン・スーダンの20世紀初期の道具において提示されたビザンチン群証拠(Byzantine group evidence)を確証する傾向がある。・・・

 

 

2010年4月5日

 

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