54.234.65.78再建主義批判者はまずこちらの主張を誠実に知るべきだ

 

再建主義批判者はまずこちらの主張を誠実に知るべきだ



以下のような誤解があるので、我々の立場を明確に示すのでよく読んでもらいたい。

誤解その1.再建主義は、石打刑を含む旧約聖書の司法律法を現在にもそのまま適用させようとする立場である

再建主義は、旧約の司法律法をそのまま適用させようとする立場ではあ・り・ま・せ・ん

旧約聖書の律法は、新約聖書においてバージョンアップしたと述べているだけです。

私は、このHPにおいて、パウロが行った論法を利用します。


私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。
モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。
もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。
もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。 (1コリント9・8-12)

旧約聖書の律法をそのまま適用するならば、この律法は「牛」に関する規定だということになります。

しかし、パウロは、明らかにこれは「働き人(とくに教職者)が御言葉の奉仕から報酬を受けるのは当然だ」と述べている文脈です。

つまり、旧約聖書の律法は、新約聖書の時代にある我々にとって適用できるようにバージョンアップされなければならない、ということです。

石打刑について私が述べたのも、石打刑をそのまま実行せよということではなく、石打刑を新約時代に住む我々にとって適用できるものにバージョンアップしたらどのようなものになるのか、という問いかけをしたのです。

石打刑の規定が廃棄されていないことは明らかです。なぜならば、イエスは「律法を廃棄するために来たのではない」と明言されているからです。

石打刑に含まれる様々な要素、例えば「契約構成員による直接の刑の執行」を無効にする教えでは、石打刑は廃棄されたということになってしまう。石打刑の中のいかなる本質も落としてはならない。落とすことは、「律法を廃棄した」ということになる。

律法は廃棄されません。もし廃棄されたというならばどこにおいてそのように述べられているのか。

パウロは、はっきりと次のように述べています。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8・4)

律法は確立され、全うされねばならない。

誤解その2.律法非廃棄論は、ガラテヤ人への手紙や、ヘブル人、ローマ人への手紙(7章)と矛盾するのは明らかだ。

律法非廃棄論は、再建主義の主張というよりも、むしろ、伝統的なカルヴァン主義の主張です

律法が廃棄されたと主張するのは、ディスペンセーション主義です。

司法律法を含め、あらゆる律法は、イエス・キリストにおいて成就され、確立されたのです。

ガラテヤ人への手紙や、ヘブル人、ローマ人への手紙(7章)においても、律法(司法律法)が廃棄されたと述べているところは一つもありません。

例えば、ローマ7・14を見てみましょう。

私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(ローマ7・4)

「律法に対しては死んでいる」は、律法が廃棄されたことを意味しません。なぜならば、先に引用したローマ3・31と矛盾するからです。再度引用します。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

同じパウロが同じ手紙の中において「律法は無効にならない。むしろ、それを確立する」と述べている。

聖書が繰り返して主張しているところによれば、「律法に対して死んでいる」という意味は、「信仰者は、律法の刑罰に対して死んでいる」ということです。つまり、キリストが身代わりに罪の罰を負ってくださったので、クリスチャンは、もはや裁かれることがない、ということを言っている。

イエスは、律法を廃棄するために来られたのではない。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)

それは当然のことながら、司法律法も廃棄されていない。司法律法だけが廃棄されたというならば、どうして例外があるのか、聖書からどのように証明できるか、を示さねばならない。

誤解その3.スコットランド長老教会は異端の宣告をした。

スコットランド長老教会の批判に対しては、

http://www.millnm.net/qanda/scot.htm

において反論をしていますので、誠実に真理を求めるならば、じっくり読んでください。軽々にクリスチャンを批判することは大きな罪です。よく相手の主張を吟味し、聖書的な反論をしてください。

スコットランド長老教会は、明らかにディスペンセーション主義の影響を受け、伝統的なカルヴァン主義信条を捨てています。

始祖ジョン・ノックスは、スコットランドの政治を聖書に基づいて改革した。

ジョン・ノックスの伝統にならうならば、当然司法律法の永続性を説くはずです。

スコットランド長老教会がどうであれ、他の正統的なカルヴァン主義者は、再建主義を異端と呼ばず、権威ある正統的カルヴァン主義の神学校ウェストミンスター神学校(フィラデルフィア市)では、再建主義者グレッグ・バーンセンが講義をしています。

何度もこのHPにおいて繰り返していますが、

司法律法を含むセオノミーの現代社会への適用は、カルヴァン自身が申命記講解において行っており、それは異端ではありません。

 

 

2007年8月22日

 





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