イスラエルに関する2つの極端を捨てよう


最近、インターネットその他において、イラク戦争に荷担したアメリカの宗教右派の批判を見聞する機会が増えた。

だいたい日本の知識人はキリスト教について詳しくないため、宗教右派の極端な行動と、「聖書を文字通り信じる聖書信仰」を結びつける傾向があるが、イラク侵攻を聖書信仰から導き出すことはできない。

(1)
もし聖書を文字通り信じるならば、他国を侵略するはずはない。聖書は侵略を禁止しているからだ。

よくカナン侵攻を引き合いに出して「聖書は侵略を肯定している」という人々がいるが、申命記のカナン侵攻は、侵略ではなく、「神の裁き」である。土地に住む人々があまりにも堕落し、もはやその土地を所有する権利を失った場合には、神は住民をそこから追い出される。「地は神のもの」である。神は、神の戒めを守る人々に地を支配させるのであり、この点において、聖書は、ユダヤ民族宗教とは一線を画している。

その証拠に、イスラエルが堕落してカナン人と同じ状態になった時に、イスラエルも追い出された。もし、聖書がユダヤ民族主義を唱え、ユダヤ人による他国侵略を教えているならば、バビロン捕囚を説明することはできない。(*)

アメリカ宗教右派の行動の誤謬の原因は聖書信仰にあるのではなく、ディスペンセーショナリズムにある。

ディスペンセーショナリズムは、旧約時代の経綸(民族的)が終末の時代に復活するという教えを持っている。

それゆえ、終末に近づくと、イスラエル国が復活し、ユダヤ人中心に世界が再編され、神殿が再建され、そこから再臨のキリストが世界を中央集権的に支配すると教える。

しかし、聖書は、「御国はユダヤ人から実を結ぶ国民に移った」とはっきり述べている。

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21・43)

また、神殿はもはや石でできたものではなく、キリストの御体とそれに連なるクリスチャンの体である。

「イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(ヨハネ2・19-21)

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であ(る)」(1コリント6・19)

ここに経綸の変化をはっきりと読み取ることができる。

もはや「イスラエルと異邦人」は「御民とそうでない者」という区別を表さない。

今やキリストにつながるならば、異邦人も神のイスラエルである。

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。 」(ガラテヤ6・15-16)

ディスペンセーショナリストは、「聖書においてイスラエルという言葉はすべて民族的イスラエルを表す」ということが多いが、この個所からそれが間違いであることが分かる。

パウロは、「割礼を受けるか受けないかは大切なことではない」と言い、「新しい創造を基準に従って進む人々」を「神のイスラエル」と呼んでいる。

(2)
民族的経綸は過ぎ去った。しかし、神は民族を軽視しておられない。
なぜならば、弟子達は「すべての国民(民族)を弟子とせよ」(マタイ28・19-20)といわれたからだ。

ユダヤ人は今でもユダヤ人として存在し、そして、神はユダヤ人の回復を期待しておられる。

現在、カルヴァン派の神学は主に「置換神学」であり、「神学的にもはやユダヤ人と異邦人の区別はまったく存在しない」と述べることが多い。

これは、ディスペンセーショナリズムの対極に位置する極端である。

我々は、「民族的経綸」と「置換神学」の両方の極端を避けるべきだ。

パウロははっきりと新約時代においても、神がユダヤ民族を「選民」として考慮しておられると述べている。

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」(ローマ11・1)

「ユダヤ人は退けられていない」と明言されているではないか!

だから、ユダヤ人がクリスチャンになるかどうかは重要ではない、という考えは間違いである。

ユダヤ人はあくまでも世界の諸民族の長子として留まっている。

よくメシアニック・ジューの人々の中には、置換神学と契約神学を同一視し、「契約神学はイスラエルの回復を無視する」という人が多いが、歴史的に、契約神学者であるアメリカ・ピューリタンはユダヤ人の回復を期待していたので誤解しないようにしよう。

(3)
ディスペンセーショナリズムの「民族的経綸復活説」も、改革主義(契約主義ではない!)の「置換神学」も、イスラエルに関して極端な立場であり、聖書的と言うことはできない。

聖書は、「民族は関係ない」とも「民族は重要だ」ともどちらも言っている。

メシアニック・ジューをはじめ、クリスチャンになるユダヤ人が増えていることは喜ばしいことだが、残念なことに、現在の福音的立場の主流がディスペンセーショナリズムであることもあって、ユダヤ人が契約神学よりも、ディスペンセーショナリズムの教派の中で救われることが多いため、契約神学を誤解したままディスペンセーショナリズム的な「民族的経綸復活」を主張することが多いのは残念である。

ディスペンセーショナリズムは、ユダヤ人の根源的な誤謬である「ユダヤ人中心の世界再編」の野望を温存するがゆえに、ユダヤ人にとって非常に大きな誘惑となっている。


結論:

今、我々は、イスラエルに関する正しい理解をアメリカのピューリタン神学に求めるべきだ。

つまり、イスラエルは民族的に回復するが、もはや「イスラエルと異邦人」の区別は「選民と非選民」という区別ではなく、またクリスチャンの中において「イスラエルを一級市民、異邦人を二級市民」という区別ができるわけでもなく、世界の諸民族は平等に回復する、ということを受け入れるべきだ。

イスラエルは諸国民の長子である。分かりやすい例えで言えば、イスラエルは、何代も続くクリスチャンホームの子弟である。

だから、キリスト信仰を受け入れることは、他の人々よりもはるかに容易である。そして、クリスチャンになった後にその理解力も格段にすぐれている。

しかし、クリスチャンホームの人々が教会において他の人々よりも偉いわけではなく、みな平等である。

クリスチャンホームの人々が「私の家は代々クリスチャンだからあなたがたよりも優れている」と考えると、傲慢として神に退けられるのと同様に、ユダヤ人も他の人々と区別化すると裁かれる。

ディスペンセーショナリズムは、ユダヤ人に向かって「あなたがたは他の人々と本質的に違う。あなたがたは一級市民であり、あなたがたが世界を支配する運命にある」と主張するという点において、決定的に間違っており、ユダヤ人を傲慢にする教えである。

さらに悪いことに、神殿を建設し、イスラエル国家の他国への侵略を肯定し、ユダヤ人中心に世界を動かすために武力の行使すら容認するため、世界に問題を撒き散らす危険性がある。

宗教右派がディスペンセーショナリズムを捨てない限り、ユダヤ人による暴力的世界支配を押し留める契機は失われるのである。

(*)
聖書における土地問題を考えるときに、エデンの園の追放物語が基本であると認める必要がある。

アダムは堕落してエデンを追放された。イスラエルは新しいエデンであり、イスラエル人が堕落するとパレスチナから追放された。

紀元70年のユダヤ戦争においてイスラエル人が世界に離散したのは、「追放」である。ユダヤ人の王としてこられたイエスを殺し、弟子達を迫害した人々は、もはやパレスチナに住む権利を失ってしまった。

2000年の間、パレスチナには異邦人が住んでいた。しかし、1948年にイスラエルが建国され、世界中からユダヤ人が帰還したのは偶然ではない。これは、イスラエルがエデンの園に再び招き入れられることの証明である。新約聖書において、民族的経綸が終了して、超民族的経綸に移行したが、イスラエル民族の役割がそこで終了したわけではない。

「ユダヤ人は信仰において回復すればよいのであって、民族として土地を回復する必要はない」というのは、民族性を無視した教えである。

イスラエル建国は当時の統治者イギリスの認可を受けた合法的なものであった。これは、現在シャロンやネオコンがやろうとしている武力的領土拡張と区別しなければならない。

 

 

2004年5月31日

 

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