「エルサレムの平和のために祈れ」について


メシアニック・ジューのグループは、「エルサレムの平和のために祈れ」(詩篇122)の聖句を今のイスラエル国の都市エルサレムに適用している。

もちろん、世界が平和になることをクリスチャンは祈らなければならないので、エルサレムの平和のために祈るべきだ。

しかし、この聖句は、単なる世界平和の祈りではなく、「契約の民に平和があるように」との願いを込めたものであり、特殊な祈りである。

契約の民とは、神と契約を結んで神の民となった人々のことを指す。

だから、現在ではクリスチャンである。

旧約時代の支配原理は、民族的経綸であったので、ユダヤ人が神の民であった。

しかし、キリストとクリスチャンが祭司になった新約時代において、祭司制度ともに律法の制度も「超民族化」したので、神の民の定義も超民族化している。

つまり、ユダヤ人だけが神の民というわけではなく、イエスを信じるすべての国民が神の民である。

詩篇122のエルサレムとは、「神の民の都」という意味を持っていた。

しかし、今の新しい契約の時代において、物理的なエルサレムという都市は「神の民の都」ではない。

むしろクリスチャンを迫害するバビロンと化している。

今のイスラエル及びエルサレムを作ったのは、ロスチャイルド家である。

シオニズム運動を見れば明らかである。

ロスチャイルド家は、イルミナティの中心的家族であり、イルミナティが知識の光を救い主とするグノーシスである以上、昔のイスラエルとは敵対関係にある。

エルサレムのクリスチャンたちは、「イエスだけが救い主である」と唱え、グノーシスと戦ったのである。

だから、今のエルサレムの平和を「宗教的な意味で」祈ることはできない。

すでに述べたように「世界平和祈願の一環として」祈るならば問題ない。

しかし、エルサレムをあたかも神の都のように考えて、それを支援することはできない。

意図的な契約違反をすればユダヤ人だろうが、異邦人だろうが関係ない。

それは、悔い改めるべきであり、悔い改めなければ滅びるべきである。

新約時代において神の都とは、クリスチャンの体である。

なぜならば、クリスチャンの体は聖霊の宮、神殿だからである。

神殿のあるところ、そこが神の都。

だから、聖書の本来の意図に従うならば、「エルサレムの平和のために祈れ」という命令は「クリスチャンに平和があるように祈れ」との命令と解釈すべきである。

エルサレムに旧約時代と同じ意味を与えているのは、ディスペンセーショナリズムである。

ディスペンセーショナリズムにおいて経綸の区別はあいまいである。

新約時代において、契約のシステムが変わったことを聖書ははっきりと述べているので、混同を避けるべきである。

 

 

2013年6月5日



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