大和民族のヤマトは「神の民」という意味ではないだろうか かつて夫余という騎馬民族があった。
東大教授故江上波夫氏は、騎馬民族説において夫余の王が日本にやってきて建設したのが大和朝廷だと唱えた。
夫余は、同じ騎馬民族スキタイと混血していたと推測できる。なぜならば、スキタイの特徴である積石式墳墓や黄金細工、リュトンという特殊な角杯など多くの文化や風習を共有しているからである。
そして、このスキタイ族は、イスラエル十部族と関係があったようなのだ。
スキタイは、アッシリア帝国を滅ぼした。
イスラエル十部族は、アッシリアによって捕囚されていたので、スキタイはイスラエルにとって解放者だった。
イスラエルももともと遊牧していたし、馬を使う民族だったので、同じ騎馬民族同士、混血が行われた可能性がある。
バビロン捕囚から解放された南ユダ2部族は、解放者ペルシャをたたえ、解放後もそこに残り、宰相になったものもいたので、イスラエルも同じようにスキタイと同化した可能性がある。
騎馬民族は、民族にこだわらず有能な人材を最大限利用する。
国境にこだわらずに移動するので、彼らは根っからのコスモポリタンである。
スキタイと十部族が混然一体となり、それが夫余族とも一体となったと推測できる。
夫余の始祖は、解夫婁という人物である。
夫余の始祖の名前は「解夫婁」といい、古代朝鮮語で「ヘブル」と読んだ。
国史高麗本記によると、次のように書かれている。 始祖、東明王(ドンミョンワン)は、 姓は高(コウ)氏、名は朱蒙(ジュモン)だ。 北扶餘の王、解夫婁(ヘブル)が東扶餘から分かれ、 解夫婁が死ぬと、金蛙(クマ)が王位をついだ http://blogs.yahoo.co.jp/candy211jp30000/5568925.html http://www.millnm.net/qanda3/59SAOtFBA66688379.htm
この解夫婁の伝説は興味深い。
解夫婁王は老いて子が無く嗣子を求めていた。ある日鯤淵(こんえん、地名)の池で、王の乗っていた馬が岩を見て立ち止まり涙を流した。王は不思議に思い、その岩を動かしてみると金色の蛙の姿をした子供がいた。王は天が私に嗣子を与えてくれたと思い、名を金蛙と名付け太子とした。 その後、宰相の阿蘭弗が「天の神が私に降臨して、『吾が子孫がいずれ国を作るだろう。この地から離れなさい。東海に迦葉原(かはばる、かしょうげん)という地がある。そこは五穀が良く実る。ここに都を遷すと良いだろう。』と言いました。」と解夫婁に進言し、王は都を迦葉原の地に遷都し国名を東扶余とした。 このようにして扶余の都から元の王である解夫婁がなくなった後、天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう、へ・モス)がどこからか現れて、都を開いて扶余王となった。解慕漱がなくなった後、金蛙は扶余王となった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9B%99%E7%8E%8B
解夫婁=ヘブル、 阿蘭弗=アラブ、 解慕漱=ヘモス 鯤淵=コンエン=コーエンか? 迦葉原=迦波羅=カバラか?
どうも私には、この物語、セム系の民族が作った話に思える。
東海に迦葉原(かはばる、かしょうげん)という地がある。そこは五穀が良く実る。ここに都を遷すと良いだろう。』と言いました。」と解夫婁に進言し、王は都を迦葉原の地に遷都し国名を東扶余とした。
とある迦葉原は日本であろう。東海(=日本海)にある五穀が良く実る地なので。
となると、ヘブルという名のセム系民族の長がやってきて国を作ったのが日本ということになる。
他の朝鮮の国史『三国史記』によると、朱蒙にはふたりの子供「沸流(フル)」と「温祚(オンソ)」がいて、弟の温祚は百済を作り、兄の沸流は国づくりがうまく行かず自殺したとも雲隠れしたとも言われているが、当時の風習では末子相続なので、兄が離れて遠くに住んだと考えられる。
沸流は、日本にやってきたあの高麗本記の解夫婁なのだろう。
フルという名前はイスラエル人の普通の名前であり、聖書ではモーセをアロンとともに補佐した人物としてフルがいる。
韓国の歴史学者キム・ソンホによると、沸流の足取りは地名となって残っており、それをたどると、朝鮮半島の南へと移動したらしい。
さらに、キム氏は『沸流百済と日本の国家起源』の中で、沸流は朝鮮半島から海を渡って日本列島へ向かったと述べている。 (参考:『失われた古代ユダヤ王朝「大和」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける:学研))
大和朝廷が夫余族によって作られたというのは遺伝学的にも可能性が高い。
近年の研究では、生物学的に民族のルーツを探る「Gm遺伝子」の分析により、日本人の大部分のルーツがバイカル湖あたりにいた騎馬民族だという。 http://get-astep-ahead.seesaa.net/article/104782900.html
大和朝廷は、セム・ユダヤ系王朝であった可能性が高い。
ロシア系ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグによると、大和のヤマトを、「ヤ・ウマト」と解釈。「ヤ」は聖書の神「ヤハウェ」の短縮形「ヤハ」で、「ウマト」は「民」と主張した。
ヘブライ語辞書を見ると、「民族」「国民」を意味する「ウンマー」の複数形が「ウンモト」。
ヤー・ウンモト→ヤー・ウモトで、「神の民」という意味がある。
方言のバリエーションを考慮に入れると、アイデルバーグの説明は現実性がある。
十部族と混血してユダヤ性を継承した解夫婁による建国、ユダヤ系クリスチャン秦氏の来日、そして、アミシャブによって十部族の末裔と証明された羌岷(チャンミン)族徐福の物部王国の建国。
日本は、ユダヤが集まった国だった。
なぜ集まったのか。
それは、大和(ヤ・ウモト)、つまり、神の民の国であったから。
2012年12月3日
ホーム
robcorp@millnm.net
表示に問題がある場合ここをクリック。成形前のオリジナルのドキュメントが表示されます。
|