キリスト系列とバビロン系列
キリスト教というものが、日本において人気がない理由は、「自助努力」の姿勢がないことである。 ディスペンセーショナリズムに支配されてから、勤労の動機がなくなった。 なぜならば、どうせキリストが再臨されて、全部やってくださるという論理だから。 「再臨が近い」「世の終わりが近い」という発言は、「長期的計画は立てるな」と同義である。 ディスペンセーショナリズムのタイムテーブルでは、「すべてが反キリストによって破壊される」わけだ。 大患難時代がやってくれば、反キリストに従わない人は、ものを売ることも買うこともできなくなるという。 そういう未来がある、と断定されて、いったい誰が長期的にキリスト教の繁栄のために努力するだろうか。 一方で「すべてダメになります」と言われて、他方で「家族を大切に。文化的発展のために働こう」と言われて、混乱しない者はいない。 互いに矛盾するものを同時に信仰できない。 福音派には、2つの影響がある。 1.カルヴァン主義の文化命令 2.ディスペンセーショナリズムの悲観的終末論 1では、「地を従えよ」と教えられ、2では「地を従えても無駄だ」と教えられる。 どちらかにすべきだ。 つまり、福音派は、ディスペンセーショナリズムを捨てて、カルヴァン主義に帰れ。 カルヴァン主義の終末論ポスト・ミレに立て。 クリスチャンが世界の支配者になれると信じなさい。 そうすれば、頭の中は混乱しない。 2. 自助努力がない人間を日本人は軽蔑する。 韓国ではそうではないかもしれないが、日本人は、独立心がないと軽蔑される。 日本のキリスト教がなぜ魅力がないかというと、間違った神学を受け入れたからだ。 「努力して会社を拡大しよう」とか「新しい発明によって世の中をよくしよう」とか「技術を高めて社会に貢献しよう」というような、積極的な努力が、全部否定されてきた。 なぜならば「この地上はサタンが支配しているから」。 この地上がサタンに支配されているから、やっても無駄だというのが、ポスト・ミレ以外のすべての終末論の主張である。 ポスト・ミレ以外に、魅力のある教会は作れない。 本当の教会成長学とは、ポスト・ミレなのだ。 フラー神学校の偽の教会成長学では、いくら努力しても無駄。 ロバート・シュラーの可能性思考の思想的起源であるノーマン・ビンセント・ピールはフリーメイソンである。 フラー神学校の教会成長学の基本には、イルミナティであるピーター・F・ドラッカーがいる。 つまり、バビロン系列なのだ。 バビロン系列でこれからもやっていくのか。 無駄である。 本当に教会を伸ばしたいならば、ポスト・ミレにならないとだめ。 3. 世界の流れを2つの分けるならば、 1.キリスト―真のメシア 2.バビロン―偽のメシア になる。 バビロンの霊的な流れは、捕囚から帰ってきたユダヤ人がミシュナーという形でイエス時代のイスラエルを支配していた。 イエスは、真のメシアであるが、ミシュナーを信じるパリサイ人たちは、偽メシアを求めていたので、邪魔者として十字架にかけて殺した。 紀元70年に真のメシアはこの偽メシアのグループに裁きを下して、ユダヤ人は世界中に散らされた。 散らされたユダヤ人たちは、ミシュナーをタルムードという書物にまとめた。 だから、イエスを拒否するユダヤ教は、タルムード教というバビロンの系列である。 このバビロン系列とキリスト系列の闘いが今も続いている。 バビロン系列は、ローマ・カトリックを作った。 ローマ・カトリックから、ディスペンセーショナリズムが生まれた。 そして、本来カルヴァン主義だった福音派は、このバビロン系列の人々に占領された。 だから、今、福音派はバビロン系列である。 あなたがどんなに献金しても、バビロン系列を育てるだけだ。 このバビロン系列の影響力は強く、再建主義というカルヴァン主義の直系の教えに入った人々の中からフェデラル・ヴィジョン(オーバン・アヴェニュー神学)というバビロン系列の流れが生まれた。 このホームページを読んでくださる方々も、バビロン系列に流れないように注意していただきたい。 そのためには、正しいキリスト系列の教えの文章や書物を読んで自分の思想をしっかりと確立するしかない。 人生全体を無駄にするかどうかの瀬戸際であると考えていただきたい。
2015年3月20日 ツイート
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