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tomi 2021/05/07(金)15:27

1987年卒論の解説2

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5・17)

この聖句にあるように、クリスチャンになると「新しく造られた者」になった。

「すべてが新しくな」った。

それまでとまったく違って世界が見える。

クリスチャンは、道ばたの花を見ると「神の美意識」を感じる。

どの画家も出せない「微妙な色合い」を感じる。

そして「ああ、神様、このように花を『超自然的に』美しく作ってくださってありがとうございます。」と祈る。

ノンクリスチャンのときには、このような考え方はしなかった。

ノンクリスチャンのときは、花が美しいのは「あたりまえ」だった。

しかし、クリスチャンになると、花は「造られた物」に見える。

そして、すべてについて感謝したくなる。

クリスチャンは、死んでいた者が蘇ったのである。

蘇ったので、すべてが新しい。

だから、ノンクリスチャンとは、同じ知識の土台を共有できない。

同じものを見ても、まったく違う解釈をするからである。

クリスチャンの学問は、ノンクリスチャンのそれとは異質なのである。

目的も方法も価値付けも違う。

クリスチャンとノンクリスチャンのどちらの学問が正当なのだろうか。

もちろん、クリスチャンのである。

なぜならば、それは「創造者のお墨付きをもらっているから」である。

創造者である聖書の神が是認された科学だけが「正当な科学」である。

ノンクリスチャンの科学は、神のお墨付きを得ていない偽物の科学である。

「それでは、クリスチャンはノンクリスチャンが獲得した知識や技術をすべて拒否しなければならないのか?」と尋ねる人がいるかもしれない。

「ノー」である。

クリスチャンは、彼らの業績を利用できる。

しかし、彼らの業績をそのまま利用できない。

なぜならば、彼らの知識の根底には「聖書の神を拒否する動機」があるから。

クリスチャンは、彼らの業績を「聖書的知識の体系に組み込む」のである。

つまり、正しい意味を与えてあげるのである。

クリスチャンによって、聖書に基づいて再解釈されたものだけが「正しい知識」である。

玉石混淆の世界の中で、あくまでも残るのは、聖書的クリスチャンが選んだ物だけである。

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。
そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13・44-52)

世は「信仰なんて学問と関係ない」と考えるが、われわれはそのように考えない。

クリスチャンは「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人」にならねばならない。

権威は聖書にある。

クリスチャンは、聖書にしたがって、世にあるすべてのものを判断し、正しいものを選り分けて受け入れるべきである。

「おまえは政治の専門家ではないから口を出すべきではない」と言われたことがある。

しかし、私はクリスチャンなので、ノンクリスチャンの政治の専門家の意見を選択する権威がある。

正しいか間違っているかジャッジする権威を神に与えられたのである。

天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです

カルヴァン主義神学者アブラハム・カイパーは、再生者と非再生者を「2種類の人間」と分類し、両者の科学を違いに異なる「2種類の科学」と分類した。

そして、再生者の認識と非再生者の認識を「対立するもの」として描いた。

クリスチャンの科学とノンクリスチャンの科学は対立するものであるから、一方が妥協すると他方に飲まれる。

クリスチャン側は「万物を創造されたものと見、神の御心にしたがって統治する対象として扱う」という原則を失ったら、ノンクリスチャンの科学に飲み込まれ、クリスチャンの使命はそこにおいて途絶える。

クリスチャンはこの世界にあって、無用・無価値な存在になり、切り捨てられる。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです(マタイ5・13)

われわれは、自分たちこそが「知識に関して神の権威を帯びている」と自覚し、「われわれこそが正当な学問を行っている」と自負すべきである。

ノンクリスチャンの学界に受け入れられなくても何も問題はない。

ノンクリスチャンと妥協する人は、塩気を失った塩である。

その国において、神の国の発展は、期待できない。

tomi 2021/05/07(金)10:12

1987年卒論の解説1

難解と思われる箇所について解説します。

アブラハム・カイパーは再生者と非再生者の対立は、けっして「信仰と理性の対立」ではなく、再生者の自己意識と非再生者の自己意識の相違にあることに着目し、「2 種類の人間」と「2 種類の科学」の主張に画期的な「対立の原理」を見出した。

1.ここで再生者とはクリスチャンのことを、非再生者とはノンクリスチャンのことを指す。

「再生」=再び生まれた人。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3・3-8)

2.

「信仰と理性の対立」ではなく

「クリスチャンとノンクリスチャンの認識の違いは、前者が『信仰』に頼り、後者が『理性』に頼る点にある」という考えは間違いである。

クリスチャンは、信仰のゆえに理性を犠牲にする人ではない。

クリスチャンが奇跡を信じるのは、理性的であることを捨てたからではない。

なぜクリスチャンは「死人の復活」を信じられるのか。

それは、理性を捨てたからではない。

クリスチャンは、「この世界は自然の力や法則を超越した神によって創造され、維持されている」という世界観を持っているので、「神は通常の自然の力や法則を超越したこと―奇跡―を行える」と結論する。

ここでクリスチャンは理性を捨てただろうか。ノー。

クリスチャンの立場は、首尾一貫している。

「ノンクリスチャン=理性主義、クリスチャン=非理性主義」という図式は間違っている。

3.

再生者の自己意識と非再生者の自己意識の相違

クリスチャンとノンクリスチャンの違いは、「自己意識の違い」である。

クリスチャンは世界を含む自己を「創造者なる神を中心として見る」。

クリスチャンは、聖書啓示にしたがって、自分自身と世界を「神がご覧になるとおりに見る」。

それゆえ、クリスチャンの自己認識は、「神の追認識」である。

クリスチャンは、自分独自の視点を持たない。

神の視点に立って、自分を認識する。

ノンクリスチャンが自分自身を「神から独立した自律的存在」と見るのに対して、クリスチャンは「神に全的に依存する依存的存在」と見る。

クリスチャンとノンクリスチャンは、存在目的という点でも完全に異なって自己と世界を見るので、「まったく異なったレンズを通して見ている」。

それゆえ、ヴァン・ティルは「二者に共通の認識的土台はない」と言った。

tomi 2021/05/06(木)15:39

日本は天照大神が十字架についている姿を現す

「日本は、天照大神が十字架についている姿を現す。」(by 八咫烏)

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tomi 2021/05/05(水)16:11

1987年に書いた神学校の卒論(全)

http://www.millnm.net/pdf/thesis_in_1987.pdf

tomi 2021/05/05(水)13:09

1987年に書いた神学校の卒論7(完)

結語

神の律法は、旧約時代のみならず新約時代においても有効である。それは、人間が神によって創造され、神の栄光を現すためにのみ存在しているという意味で、あらゆる時代、あらゆる場所に居る人々が守らねばならない絶対的基準である。すべての領域は、神によって創られたがゆえに、常に神の定められた諸々の法によって治められなければならない。再生者は、あらゆる領域において、神の律法の支配を徹底させ、神の主権を確立しなければならない。そうする時に、人間社会は真の繁栄を獲得し、形式と自由が並立する豊かな社会になることが可能である。しかし、堕落後の崩壊性の中における被造世界は、完全なる回復をキリストの再臨にまで待たねばならない。再生者の使命は、この世の崩壊性・無秩序化を防ぎ、律法によって光を照らして進むべき道を示すことである。発展性とともに、その限界もわきまえるという意味で、神の元において、我々はすべての栄光を神に帰することができるのである。

神の啓示は、人間の救済をその最終目的とはしていない。人間の作られた目的は永遠に、神の国建設の遂行にある。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分の為にではなく、自分のために死んでよみがえった方の為に生きるためなのです。」(第2コリント5:15)神のために生きること、これは、律法に基づく社会建設に他ならない。それは、人間理性ではなく、キリストが、主権者として立つ社会の建設である。創造された世界の中で一つとして、キリストの主権性を認めない領域が残っていてはならない。社会の全領域において、神の主権と神の栄光の原理が支配するために、再生者は最善の努力をしなければならない。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」我々は、神の律法に従わない全ての企てを打ち砕き、神の国の確立のために全身全霊をもって努力しなければならない。



1. 参照 R.J. Rushdoony, The Foundation Of Social Order: Studies In The Creeds And Council Of The Early Church, P and R Publishing Company, 1968.
2. ローマ13:1ー5
3. James Hastings Nichols, History of Christianity 1650-1950: Secularization Of The West (New York: The Rhode Island Press Company, 1956, Pp. 6 - 8.) cited in 'Theonomy In Christian Ethics' pp. 4-5.
4. 参照 E. L. Hebben Taylor, The Christian Philosophy of Law, Politics and the State: A Study of Political and Legal Thought of Herman Dooyewerd of the Free University of Amsterdam, Holland as the Basis for Christian Action in the English-Speaking World (Nutley, New Jersey, the Craig press, 1969), p. 6. (Cf. pp. 238 - 243) cited in Bahnsen's 'Theonomy In Christian Ethics' p. 7.
5. Ibid.
6. エレミヤ32:35、第1サムエル 8 章など。
7. このことは戦前の日本における天皇制についても適用できるのではないだろうか。「(日本の)伝統の実体化は、・・・天皇制国家という疑似的な絶対に依拠する体系構築の試みとして顕現したのである。それらは、真実の「絶対性」ないし「絶対者」を背後に持たぬ伝統の自己肯定、ないしは体系の構築であるがゆえに、その社会的な対応物として、地上的な外的権威を想定するか、あるいは要請せざるを得なかった。真実の「絶対性」ないし「絶対者」を背後に持たぬ、有限な人間による伝統の自己肯定、もしくは哲学体系の樹立が、いかに誤り多く罪深いものであるか私は学んだつもりである。」(宮川透、日本精神史への序論、紀伊国屋書店、1977、p.9)
8. ジョン・ロックは、(後にも述べられるが)、自然法を神の意志として定義し、政治的な法は、自然法に基づいて作られなければならないと言っている。「立法者が他人の行動のために作る規則は、立法者自身の行動およびその他の人々の行動と同じように、自然法、即ち神の意志に合致しなければならない。自然法とは神の意志の表明だからである。そして自然法の根本は人間の保全にあるのだから、人間が作るどのような法の制裁も、これに背くときは、正当でも有効でもあり得ない。」(『統治論』(135))神の意志が政治的領域法を規定するべきであるとの考えについては、ピューリタンの両親の元に育った彼の思想形成へのカルビニズムの影響を見ることができる。しかし、自然法における神の意志とは、すべての人間の心に書かれたものであって、再生を必要とせず、又、外形に書かれた神の律法(啓示)の必要を認めなかった点で理性の自立を許す近代ヒューマニズムの域をでなかったと言わねばならない。
9. 優生学は、進化論の影響を受けた学問で、「人類の遺伝的素質を改善する目的で、配偶者の選択などにより、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する。」(広辞苑、岩波書店、第2版)優生保護法は、この優生学の立場から「不良な出生を防止し、母体保護を目的とする法律。」(同上)優生保護法第14条第1項(「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により、母体の健康を著しく害する恐れのあるものは、その妊娠を中絶できる。」)の中には、遺伝的に優生のもののみを保護しようという思想が根本にあり、優生であろうがなかろうが「殺すなかれ」という神の律法に反する法である。
10. 1984年の統計によると、公式的発表では約57万件であるが、闇堕胎を含めると約200万件と推定されている。これはその年の出生数とほぼ同数なので、2人に一人の割合で胎児が殺されているということになる。
11. 映画「サルバドル遥かなる日々」(1986年)において、監督オリバー・ストーンは、エルサルバドル内乱において、反逆者や不賛同者を容赦なく虐殺する軍隊「死の分隊」を操る、残虐で抑圧的な政府を告発し、さらに、反共産主義の理由の元に、この政府に不断の軍事援助を与えているアメリカ合衆国の悪を暴露している。又、同監督の1987年のアカデミー賞作品「プラトーン」においては、力を過信し、正義を無視したアメリカの驕りが、ベトナム戦争の敗北の原因だと、登場人物に語らせている。
12. 平野耿、「法」、現代哲学事典、講談社新書、p.554参照
13. Rousas John Rushdoony, The Institutes of Biblical Law, P & R, 1983, p. 239.
14. Rushdoonyは、理性が立法者として究極的位置を占める時、それは神になると言っている。「法は、どの文化においても、起源において宗教的である。なぜならば、法は人と社会とを支配するからである。法は、正義と公正の意義を定め、それを宣言するのであるから、不可避的に宗教的である。・・・次に、どの文化においても、法の制定者はその社会の神であるということが認識されねばならない。もし、法がその制定者として人間理性を据えるなら、人間理性はその社会の神となるのである。・・・毛沢東は次のように言った。「我々の神とは、中国人民大衆に他ならない」と。西洋文明においては、法は着実に、神から民衆(もしくは国家)にその制定者を変えてしまった。西洋の歴史的な力とバイタリティーの源が聖書信仰と律法にあったにもかかわらずである。」(Ibid., pp.4-5.)
15. 「・・・法が教会、国家、学校、又は、家族において、人々に道徳的な命令を発しないならば、法は破壊され、二つの可能性が現れる。第一は、結果としての無政府状態である。我々は、家庭生活、ビジネスの世界、又は、国家において、無政府状態が支配していることに驚いてはならない。・・・人々は、倫理を持たない法律には服従しないものである。多くの子供達は、両親の権威に対して反抗的である。しかし、あまりにも多くの親たちは、ヒューマニストなので、服従を命ずるための倫理的根拠を持たないのである。そして、自分たちの内にあるアナーキズムを子どもたちに伝授しているのである。・・・
公立学校に子どもたちを通わせているクリスチャンの親たちは、自らの信仰を否定し、倫理的なアナーキズムを教えてもらうために、彼らを送り出しているようなものである。この倫理的アナーキズムは、ビジネスや雇用関係を含む、すべての領域に広がっている。
第二は、道徳的・倫理的アナーキズムに汚染されない人々に待っている、むき出しの強制力―テロ―である。
カール・マルクスは、理論上、いかなる思想もアナーキズムを阻止できないことを悟っていた。彼は、実用主義的観点から、アナーキズムを排し、結束力(solidarity)が必要であると考えた。この結果、彼はコミュニズムを選んだのであった。しかしながら、マルキシズムは、道徳的アナーキズムを宣伝していた(人間を支配する道徳的な存在は居ないという意味で――筆者注)。
結果として、レーニンがすぐ看破したように、活動的マルキストの論理的帰結とは、テロリズムの実行であった。このようにして、赤いテロリストは、道徳的強制者に取って代わる、必要かつ充分な代理者となったのである。・・・倫理的規律のないところにはテロがある。もし人が神に従わなければ、人にも従わないものだ。彼らは、秩序維持のために必要不可欠のものとして、絞首台や銃を求めるだろう。彼らが無律法的態度で作った彼らの新しい秩序への反抗は、同じように無律法主義的な倫理など全くない反抗である。・・・この反抗には、一つの運命が待っている。即ち、殺すことと、殺されることである。」(R.J.Rushdoony, Ibid., p.621.)

16. F・シェーファー、それではいかに生きるべきか:西洋文化と思想の興亡、いのちのことば社、p. 108 参照
17. 稲垣久和、現代社会をどう生きるか、いのちのことば社、p.26 参照
18. Ibid., p.46
19. R.J. Rushdoony, Ibid., p.621.
20. 織田昭、新約聖書ギリシャ語小辞典第3版、(1976年)、大阪聖書学院、#gs#alla#ge#
21. Herman N. Ridderbos, When The Time Had Fully Come: Studies In New Testament Theology, Paideia/Premier, 1982, p. 42
22. Ibid., p. 37.
23. O. Palmer Robertson, The Christ of the Covenant, P & R, 1985, p. 190.
24. P. E. Hughes, Paul’s Second Episode To The Corinthians, Eerdmands Publishing Company, 1962, pp. 96 cited in "Theonomy in Christian Ethics", pp. 171 - 172.
25. ルターは律法と福音を対立的に置き、律法の代わりに自然法を、新約時代のクリスチャンの行動の規範としておいた。(参照・Rushdoony, Ibid., p.651)
26. R.J. Rushdoony, Van Til, p.33. cited by Kohei Watanabe in his "カルヴァンとカルビニストたち"、小峯書店、1977年、p. 119.
27. 27.参照・渡辺公平、カルヴァンとカルビニストたち、小峯書店、pp. 227-8, 251-2.
28. 科学革命はこの良い実例であろう。近代以前に支配的であった、ギリシャ的な権威主義的科学観が近代において諸領域で乗り越えられていった過程を科学革命というが、これは方法論における革命であって、自然に対する基本的な考えかたにそれほど変化がなかったという点は知識に値する。ギリシャ、ローマ、アラビア、中世ラテン世界を通じて、自然の秩序に対する信頼と、自然の秩序を把握する側の人間の知性に対する信頼において、変化はなかった。しかし、近代科学の理論体系の生理痛のためには、古代の精緻な理論体系が1°疑いの中に置かれ、仮説演繹法と実験的方法との組み合わせによって、法則が演繹的に導き出されることをやめ、帰納法的に導き出される方法論的革命が必要であった。近代の科学者はこの方法論の確立により、自然の中に働く秩序を客観的に正しく把握し、法則として体系化していった。この方法論の革命に大きく貢献したのが、フランシス・ベーコンであるが、彼は「ノヴム・オルガヌム・シエンティアルム」(1620年)の中で次のように言っている。「人間は堕落により、清浄な状態からも、被造物を治める状態からも落ちてしまった。しかし、これら失われたもののある部分は、共にこの世にあって取り戻すことができる。 即ち前者は宗教と信仰によって、そして後者は芸術と科学によって。」ベーコンにとって、科学とは被造物支配の道具であった。そして、これは、実験と観測によって、法則を帰納法的に発見し、その法則を適用することによって可能であった。f・シェーファーは次のように言っている。「全てのものは神によって創造された。そしてそれらは人々の探求に対して開かれていた。神ご自身は人間に、自然を治めるようにと告げている。・・・人間にとって科学はそのためのものであった。」(F・シェーファー、それでは如何に生きるべきか、いのちのことば社、p.140)
29. R.J. Rushdoony, Ibid., 724-5.
30. 入船尊、日本におけるカルビニズムの確立、(『カルヴァンを継ぐ者20)すぐ書房、p.10)
31. 渡辺公平、全継承、pp.210-211.
32. これは本稿 pp.54―66にて論証される。
33. ゲルハルダス・ヴォス、「改革派神学における契約の教理」(「神の契約」整形授産所、pp.30―31.)
34. 参照・The Zondervan's Pictoral Encyclopedia of the Bible, "Fall", p.493.)
35. Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament, Baker "#gs#apokaluyis#ge#."
36. John Murray, The New International Commentary On New Testament, 'The Episode To The Romans', Eerdmands Publishing Company, pp. 302-303 Note.
37. G. Bahnsen, Ibid., p.486.
38. 聖書において、祝福は律法と結びついている。それは、律法も祝福も同じ契約の中に含まれ、互いに不可分離的に結合しているからである。申命記28章は、律法遵守と祝福、律法違反と呪いが、神とイスラエル人との契約の中に密接な関係を持っていることを示している。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、今日、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。・・・もしあなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、今日、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたは呪われる。あなたは町にあっても、野にあっても呪われる。」(申命記28:1-2, 15-16)
このことは、旧約時代のみならず新約時代においても真実である。パウロの深い喜びは、神の律法の中にあった(ローマ7:22)。キリストにおいても律法は喜びであった(ヘブル10:7)。ヤコブは、律法を守り行う人は、その行いによって祝福されると言っている。(ヤコブ1:25)。主も「この世にあってそのいく倍かを受けないものはなく、後の世で永遠の命を受けないものはありません。」と言うことで、現世における霊的もしくは物質的祝福について言及しておられる。パウロは第1テモテ4:8にて、「今の命と未来の命が約束されている敬虔は、すべてに有益です」と言い、現世的祝福の事実を認めている。逆に、このことは、さばきについても同様である。律法を破ることによって、神の懲らしめがある。「御体をわきまえないで飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁くことになります。そのために、あなた方の中に弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います。」(第1コリント11:29―30)
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが{不従順の子らの上に}下るのです。」(コロサイ3・5-6)
律法はそれ自身が祝福であるが、それを守り行うことは、神を崇める人々にとって大きな祝福になる。律法が国民にとって無視される時、正義は覆され、邪悪なことがはびこる(ハバクク1:40)。逆に、豊かで繁栄する聖なる人々は、神によって導かれる国家の目標である(箴言14:28―35参照)。「正義は国民を高め、罪はすべての人の対面を傷つける。」(箴言14:34)王は正義を行うことによって、国を安定して統治することができる(箴言29:4)なぜなら、正義が支配することによる効果は平和と安全だからである(イザヤ32:17、参照・詩篇37:30―37)。一つの国が祝福を受けるか呪いを受けるかは、神の法を守るか守らないかによる(申命記11:26)。もし国が神の御意に正しく応答するならば、律法は死、悪、呪いのいずれもたらさない。むしろ、それは、彼らの生活を向上させ、祝福と良いことを増し加えるのである(申命記30:15、19)。我々は、律法の一面だけを見て、律法を断罪者、悪いことをもたらすものと見るべきではない。神は「律法は民の幸せのために与えられた」と仰る(申命記10:13、6:24)。神の律法を守る人々に与えられる諸々の約束は、さながら天国のようなものである。そして、このような祝福の数々は、終わりの日に来る新天新地において、完全に実現されるのである。しかし、神に従う人々に与えられる天的祝福は、決して我々がこの地上で神の約束を期待できないように働くものではない。
神はご自分のみ言葉に真実なお方であり、神と神の律法に栄光を帰する人々を豊かに恵んでくださるであろう。もし、我々が、「天国に行く前にそのような祝福があるはずはない。」と言って、祝福を拒むならば、それは愚かと言わねばならない。それは、悲観主義的な反抗的態度である。なぜならば、主の再臨の前にある繁栄や祝福の約束が、み言葉の中には溢れるほどあるからである(民数記14:21、詩篇2:8、22:27、47、2―8、72:7ー11、17、86:9、110:1、イザヤ2:2、11:9、35:1、45:22、65:20、エレミヤ31:34、エゼキエル47:1ー5、ダニエル2:35、44、ゼカリヤ9:10、マタイ6:33、13:33、28:18―20、黙示録19章)
確かに、完全なる祝福は、来るべき世において与えられるだろうが(なぜならば、神への完全なる服従がそこで可能だから)又、神の律法を守り通すことによって、地上の天国を作り上げることは我々にはできないが、それにも関わらず、主は我々にこう祈るように命じておられる。
「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地上でも行われますように」(マタイ6:10)
御心に従う人々への祝福は、天国の前味である。律法はそれ自身祝福であるだけではなく、それを守り行う者に、大きな祝福を与える。律法は、キリストに贖われた人々にとって、決して重荷にはならない(申命記30:11―14)。

tomi 2021/05/04(火)04:10

1987年に書いた神学校の卒論6

キリストが永遠の体である「御霊のからだ」を得たのが、アダムに連なる肉体の死の後であったことは、我々の朽ち行く肉体が刑罰に合わないにしても、やはりそこには限界があり御国を相続することはできないことを示している(第1コリント15:50)。キリストの復活は、物質等について言えば、この新しい肉体を中心とする物質世界の初穂であるが、この現世界において復活が続いて起こったことはなく、復活は全聖書を通じて、終末に起こることとして啓示されている(ダニエル12:2、黙示録20:12)。
以上の事実から言えることは、人間の肉体と物質世界は、業の契約の呪いの影響を受け続けており、物質世界における贖いの結果は、終末に続く新天新地において与えられ、現在は、御霊の命の約束を受けつつ忍耐する時期であると言うことである(ローマ8:19―23)。

ここから、次のように結論づけることができる。
神の国の拡大には、二つの側面がある。対人間において、我々は和解の務めを負うものであり、人間の再生に関与するという意味で、新世界に連なる連続的な働きをすることができる(第2コリント5:18―19)。
対世界において、我々は被造世界を神の律法の元に秩序立て、神の栄光を現す文化を築き上げる使命を負うが、それは、永遠の世界に対しては非連続であり、業の契約の呪いの影響の元にある世界は、神自身の御手によって復活されるまでその崩壊性から自由にはならない。これは人間の肉体についてもそうである。これは刑罰という意味ではなく、約束を持ち待ち望む信仰による忍耐の時期という意味においてである。しかしRushdoonyは被造物の回復について次のように言っている。

「堕落以前、人間がエデンの中で平和に住んでいたように天地も動物も同じように暮らしていた。彼らの平和は、人間の罪によって破壊されてしまった。パウロはこう宣言している。『全被造物が』熱心に、救いと回復がキリストを通して、又、神の子どもたちを通してもたらされることを待っている、と。
この平和の回復は、キリストの再生的働きによって人間が生命に復帰した時から始まるのである。人間は今や新しい創造である・・・。」(R. J. Rushdoony, Ibid., pp.778-9.)
ここにおいて、彼は、万物の回復はこの現世界(新天新地と対照して)において、人が新生した時からはじまると言っている。物質界も再生に与るというのであるが、我々は聖書本文からこの問題を直接検討しなければならない。

パウロは、ローマ8:19―23において次のように言っている。

19.被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
20.それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21.被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22.私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめ企図もに産みの苦しみをしていることを知っています。
23.そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、即ち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

被造物は切実な想いで神の子供達の出現を待ち望んでいる。
それは、被造物自体も滅びの束縛から解放されるからである。それではその滅びの職場からの解放はいつ実現するのであろうか。
そのためにまず「神の子供達の現れ」が何を意味するのか、そして、それはいつ起きるのかについて調べたい。Rushdoonyは、先の引用の中で「これは新生を指す」と言っている。もし新生を指すとすれば、被造物が解放されるのは、この現世界においてであるということになる。
19節の「現れ」は、原語では#gs#apokaluyiV#ge#という言葉である。この言葉は、2つの言葉#gs#apo#ge#と#gs#kaluptW#ge#からなる合成語である。#gs#apo#ge#は接頭辞として「取る」という意味を有する。また#gs#kaluptW#ge#は「覆う、被せる、ベールで覆う」という意味であり、2つの意味を合成すると、「ベールで覆われていたものからベールを取って現す」という意味になる。Thayer's Greek English Lexicon of the NT 35は、#gs#apokaluyis#ge#の意味として次のように言う。

「 an uncovering, 1. a laying bare, making naked, 2. a. a disclosure of truth, instruction, concerning divine things before unknown - esp. those relating to the Christian salvation - given to the soul by God himself …」

ここに示されている他の例もすべて、この言葉が「何かもともとあった知られざる実体が、ベールを取って本当の姿を表わす場合」に使われるということを示している。そして、ローマ8:19の用例については次のように言っている。

「the event in which it will appear who and what the sons of God are, by the glory received from God at the last day」

即ち、神の子供達の出現とは、終わりの日に起こる出来事を指すというわけである。
クリスチャンは皆、内に神の霊を持っているが、外見は朽ちゆく肉体を身にまとっている。しかし、終わりの日に、すべての人の復活の時クリスチャンは栄光の姿に変えられて、実質に見合った外貌を備えるということがここで言われている。

生まれながら霊的に死んでいた(エペソ2:1)者で、「暗闇」(エペソ5:8)であった人間が、新しく生まれ変わり、生命を持ち(第2コリント5:17)、光となった(エペソ5:8)ことを表わす新生を表現するに、この#gs#apokaluyis#ge#はふさわしくない。
ジョン・マーレーは「神の子供達の表れ」と関係している万物の再生は、使徒3:21にある「万物の改まる時」(#gs#apokatastasis pantWn#ge#)が示している再生と同じであろう、と言っている。マタイ19:28「世が改まって」(#gs#paliggenesia#ge#)もしばしばこのように訳されてきた。第2ペテロ3:13の新天新地がこの再生を指していることには、疑いの余地はない。そして、この「私たちは、・・・正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」は究極的終末を意味し、「神の子供達の現れの時に被造物が楽しむであろう解放」の状況描写は、これ以上の高く究極的な栄光にいかなる余地も残していない、と言っている。36

従って、我々は19説の神の子供達の現れとは新生ではなく、究極的救いである「栄化」を指していると結論することができる。これゆえ、19ー28節から「被造物が待ち望んでいるのは、クリスチャンの栄化の時であり、その時、被造物は滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由に入れられる」ということを知るのである。
次に22ー23節を検討することによって、被造物の現世界における漸進的回復の可能性についてさらに探ってみたい。
原文は次のとおりである。
22#gs#oidamen gar oti pasa h ktisiV sustenazei kai sunwdinei acri tou nun#ge#
23#gs#ou monon de, alla kai autoi thn aparchn tou pneumatoV econteV kai hmeiV autoi en eautoiV stenazomen uioqesian apekdecomenoi thn apolutrwsin tou swmatoV hmwn#ge#

23節において、#gs#ou monon de, alla kai#ge#の構文が用いられている。これは、英語では、not only〜, but also ・・・の構文であり、「〜だけではなく、・・・も」という意味である。これは22節を受けている。この節では、被造物はともにうめき共に産みの苦しみをしている、と述べられている。この文の主動詞は#gs#sustenazei#ge#、と#gs#sunwdinei#ge#であるが、これを受ける次節の主動詞は#gs#stenazomen#ge#である。23節は新改訳では主動詞も「待ち望んでいます」であるかのように訳しているが、#gs#apekdecomenoi#ge#は分詞であって主動詞ではない。従って本来は、「待ち望みながら、うめいています」と訳すべきである。22節と23節は、同じ語源から出た#gs#sustenazei#ge#と#gs#sunwdinei#ge#によって対照的に語が配置されている。即ち、22節では「全ての被造物(#gs#pasa h ktisiV#ge#)は共にうめいて(#gs#sustenazei#ge#)いる」と述べ、それを受けて23節では「被造物ばかりではなく(#gs#ou monon de, alla kai#ge#)私たち自身も(#gs#hmeiV autoi#ge#)、うめいている(#gs#stenazomen#ge#)」と対置されているのである。

それでは、23節では何を求めて「私たち自身」はうめいているのであろうか。それは、#gs#uioqesian#ge#(子にしていただくこと)つまり、#gs#apolutrwsin tou swmatoV hmwn#ge#(私たちの肉体の贖われること)[を#gs#apekdecomenoi#ge#(待ち望みながら)しているの]である。即ち「栄化」のことである。23節では、「私たち自身も、被造物と同じように、(私たちの)肉体の贖いを待ち望んでうめいている」という内容となる。
23節は、22節を受けて、このように言っているのだから、もともと22節においても、被造物がうめいて、産みの苦しみをして待っているものがそこにあるはずである。それは何であろうか。何を求めて、被造物は共にもうめき、共に産みの苦しみをしているのだろうか。それは、23節と対照して見ることによって類推することができる。
次のように整理すると分かりやすい。
http://www.millnm.net/img/upload/1619911738image.png
http://millnm.holy.jp/img/upload/1619911772image.png

22節において、全被造物が共にうめいている目的は、23節から全被造物の贖いであることが類推される。それは先にも見たように、21節にある「滅びの束縛からの解放と、神の子供たちの栄光の自由の中に入れられること」を意味する。
さて、クリスチャンが、その肉体が贖われ、栄化されるのは、終わりの日、キリストの再臨時であることは明らかである(第1テサロニケ4:16、第1コリント15:52など)。
22節と23節で「私たち」も「被造物」も同じようにうめいているという場合、「私たち」の肉体の贖いの実現は、再臨時まで待たねばならないのに、被造物の回復だけは、現在すでに漸進的に進行しているというのはおかしいので、被造物の解放、回復も、クリスチャンが肉体を贖われる時まで待たねばならないことになる。

これ故に、次のことが結論づけられる。非人格的被造世界の回復は、この現世界において、クリスチャンの再生ととともに進行するのではなく、それは、新天新地が到来することによって実現するのである。
それでは、聖書の中に出てくる様々な「回復(restoration)」の記事はどのように考えればよいのだろうか。イザヤ65:17―25は、新天新地の様子を現世界にある物によって比喩的に表現したものであって、現世界が発展し、この記事のようになるというわけではない。出エジプト23:25―26において、契約履行に伴う祝福が書かれている。パンと水の祝福、病気の除去など・・・。長寿(出エジプト20:12)、戦争の勝利(申命記28:7)、雨の祝福(12)、家畜や地の産物の増加(11)など、人々が律法を行うことによって祝福が訪れることが約束されている。

確かに、祝福はあるが、これをさらに発展させて人間が守り行えば行うほど土地が回復し、豊作になり、ついには原初的状態に復帰するというような回復(restoration)への連続は、聖書において保証されていない。これはあくまでも祝福として存在するのであって、回復の業ではないのである。
Bahnsenは次のように言う。
「全く明らかなことだが、遵法的な国民に約束された状態は、天国そのもののように思われる(天国は回復された!)。そして、確かに、それらの状態は終末に来る新天新地において完全に実現するだろう。」37
ここにおいて、律法の効用について大きな混乱があるように思われる。律法に対して従順であることは、大きな祝福をもたらすことは事実である。38 しかしそれは祝福なのであって回復ではない。律法は、この虚無性と崩壊性を持つ被造世界の中で、その傾向に抵抗する働きを越えることはないのである。

もちろん律法を法律の基礎に据えたことによって、近代市民社会は大きな政治的自由を得、又、領域法としての科学的法則の発見と適用によって大きな科学的進歩を獲得した。又、経済法則の発見と適用によって大きな経済的な発展も可能であったかもしれない。しかしこれらの律法の効用は、被造世界の基本的な傾向を止める事は出来ないのである。被造世界は常に崩壊し、虚無と無秩序に向かっている。これは新天新地が現世界にとって代わらない限り続いていく。「人間は被造物の冠であり、その堕落は、治めるべきすべての領域に対して、崩壊の連鎖を引き起こした。ただ贖いの完成によってのみ宇宙は、人間の罪によって被った呪いから解放されるのである。」(The Zondervan's Pictoral Encyclopedia of the Bible, "Fall", p.493.)このように今日でも、物質界における崩壊と虚無性は進行しているのである。

tomi 2021/05/02(日)06:39

ワクチン詐欺の本当の目的は「世界政府による人類の一括管理」

”「ワクチンパスポート」で生活どう変わる?日本でも導入検討
日本でも導入が検討されている #ワクチンパスポート。海外渡航など経済活動再開の弾みとして期待がかかりますが、一方で世界を見ると、国によって基準がバラバラなど課題点も見えてきました。#報ステ #報道ステーション
@hst_tvasahiさんからの動画”
https://twitter.com/hst_tvasahi/status/1388129340630585349?s=20

ワクチン接種が踏み絵になる時代が到来する。

政府による一律管理。

いや、政府を越えた世界組織WHOによる一律管理。

個人の自由の制限という意味において基本的人権に違反している。

この番組では、イスラエルが率先してワクチンを接種し、ワクチンパスポートの発行を推進している様子が紹介されている。

やはり、イスラエルはこの世界政府運動の中心にいると明らかになった。

ワクチンパスポートは、実質的に、国際機関が各国政府よりも上位に位置すると規定する。

ワクチンは、長期的効果を動物実験によって検証していない。

何年後かにどうなるかは誰もわからない。

こういうものを受けたくないと思うのは、当然の感情。

しかし、ワクチンパスポートができれば、そんなこと言ってられない。

飛行機に乗れなくなる、商店に入れなくなる、映画館に入れなくなる、コンサート会場に入れなくなる・・・。

ワクチン詐欺の本当の目的は「世界政府による人類の一括管理」である。

tomi 2021/04/29(木)23:05

この世に問題があってはならない???

「この世に問題があってはならない!問題を潰せ!」
こういう理想主義が、世の中全体を狂わせ、破壊する。
「コロナで苦しんでいるときにバーベキュー?不届き者め!」
こんなメンタリティーで、どうやって社会が持続するのだろうか。
重症化患者が急増している。死亡者が年間5000人。医療崩壊が起きている。
コロナ以前、例年、感染症で「毎日」5万7千人死んでました。日本だけでインフル死亡者「4000人から1万人」死んでました。
それでも人々は日常生活を普通に過ごしていました。
今後は、5000人レベルの死亡者で、緊急事態宣言出して飲食業に自粛要請していくんですか?
コロナは、産業を破壊するほど破局的な病気なの?
問題に集中して全体が見えなくなった政治家には用はない。

tomi 2021/04/29(木)22:26

政府・地方自治体は気が狂いました

年間死亡者5000人程度の感染症で騒いだってことは、今後もこの程度の感染症が発生した場合に、同様の自粛強制を行うってことになる。

そうしないと、政策の整合性がとれないし、今採っている政策の責任問題が発生するから。

この政策を毎年やるならば、もちろん、産業は死滅する。

これだけで、今の政府が異常であるとわかるだろう。

tomi 2021/04/28(水)07:37

1987年に書いた神学校の卒論5

事実、同じ律法が旧約聖書と新約聖書において主張されている(申命記25:4、第1コリント9:9、第1テモテ5:18)のである。新約時代において、もはや律法の外的提示は不要になったということは、決してできない。この主張は、ルターが旧約律法を否定したことによって、自然法を導入したように、25 自然法に道を開ける危険性を持っているといえよう。

それでは、ユダヤ人に与えられた様々な儀式を規定する律法(いわゆる儀式律法)も、新約時代のクリスチャンに有効なのであろうかという疑問が生じる。確かに聖書は、キリストの到来とともに、キリストという「実体」の「陰」である儀式律法は不要だと述べている(ヘブル10:8―9)。しかしこの律法が指し示す実質は、キリストの贖いの御業と契約の民との諸々の関係なのであるから、キリストによって、その実質は明らかになって会計は失われうるとしても、この実質は永遠の価値を持つ真理として残るのである。この意味で儀式律法と言えども、廃棄されたわけではなく、その意義と目的は永遠に有効なのである。カルヴァンは次のように言っている。

「キリストは来臨によって儀式を終わらせたが、この儀式の神聖さを少しでも低めることはせず、かえってこれを推奨し、高め給うた。・・・我々は、儀式が廃止されることにおいて、真理がいよいよ明らかに輝き出るのを見るのである。」(綱要II・7・16)

我々は、模型ではな。本体を得たのであるから、もはや、模型は不要になった。新約時代のクリスチャンはこれらの旧約の儀式律法を字句どおり守るべきではないが、その中にある実質的な意義と目的を学び取り、その神のみ心に従わねばならない。

以上、IIにおいて我々は、律法の今日における有効性について「新約時代であっても、旧約律法は少しも低められたり廃棄されたりせず、それは、すべての人が守るべき神の命令であり、神によって創られたすべての人間の正しい生活の唯一の基準であることを見た。

III

神は、人間を創造された時に、被造物を支配しそれを神の御意の元に管理するように命ぜられた(創世記1:28)。これを文化命令(cultural mandate)と呼ぶ。神は、全被造物に対して創造者としての至上権を持ち、すべての被造物はただ神のために存在するように組織されている(コロサイ1:16―17)。従って、この宇宙の中に、神と関係しない領域は一つもなく、ヴァン・ティルが言うように灰色的な(neutral)存在というものは一つも存在しない。すべてが、神という人格的存在に取り囲まれているという意味で、この宇宙は人格的宇宙と呼ぶことができる。26

この人格的宇宙は、神の定められた法秩序の下にあり、この法によって万物はそれぞれの存在意義(ドーイウェールトはこれを「意味(zin, meaning)」と呼ぶ)を持つ。

従って、法の元にあって宇宙は統一されておりいかなる分野においても、法の支配しない領域はないし、これゆえにすべての領域は自己充足性を持たず、神の主権に服している。このことをドーイウェールトは、神の創造された万物(cosmos)が神の法(law)の秩序(order)の元に置かれているという事実を示す理念(idea)として、cosmonomic-ideaと呼んだ。

彼は「法理念の哲学」(De Wijsbegeerte der Wetsidee, 1935-1936)で、このcosmonomic-ideaを展開し、全ての被造物の持つ法を中心とした領域主権性の思想を表している。宇宙には種々なる「法」があり、各々はそれぞれ特殊性をもって法領域(law-sphere)を作る。そして、これら種々なる法領域には一つの「秩序」(order)があるという。これら諸領域は、各々主権的であり、各領域は、それぞれの個別的な「法」と「意味」とを持ち、一つの領域の法(以下「領域法」と呼ぶ)は、他の領域法と同じように適用されないという。

「数」は「空間」に還元され得ず、「空間」は「数」から導出され得ない。このことは、他のすべての法領域にも同様に言える。そしてこれら諸領域は決して絶対的主権性を持たず、神における根源的主権性に対して、派生的相対的主権性を持つに過ぎない。それゆえ、全体としての法領域がそうであるように、一領域にせよ自己充足性は帰せられず、絶対化も許されない。ドーイウェールトは、この宇宙の「意味」としての存在の様態を「法」の元に15領域に分け、宇宙全体が一つの秩序をもつ統一体として宇宙論を形成している。そして彼は「これら諸領域は、神より与えられた文化命令の遂行のために、各々の固有の「意味」実現のために進みゆくべきである」という。27

ここで、法領域の分類について論ずるつもりはないが、神の被造物支配の代理者としての人間が宇宙に対し、「法」を中心としてかかわってゆくという基礎が与えられたということは、大きな意味を持つと思われる。

神は、宇宙を法によって支配し、管理しておられる。唯一の人格的被造物である人間は天地の管理者として神によって立てられている。それは、単に被造物を見護るという意味ではない。被造世界の中に存在する、それぞれの領域法を発見しそれを抽出し、さらに適用し、応用することによって、被造世界が神の栄光を現すために発展し、繁栄するように働くという意味である。28

「法は地を従え、すべてのものを神の支配の元に置くという文化命令の実行のためのプログラムであり、植物、動物、人、そして神の目的達成のための諸制度を進展させる、神の定められた手段である。」29

どの人でも、どの時代にあっても、人間は神に従い、自分自身を向上させ、神の定められた法に従って自らを聖化しなければならない。そして、法を用いて被造世界に働きかけ

神の主権を確立し神の国を進展させるために働かなければならない。また、すべて神の主権に反抗する敵を征服しなければならい。

「私たちは、様々の思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、全てのはかりごとを虜にして、キリストに服従させ、又、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。(第2コリント10:5ー6)
人間は堕落した時から神の法に服さず、自律的な領域を作った。人間が神に服従せずに作る文化もすべて自律的文化(autonomous culture)であり、神の国の進展を阻害し、破壊するサタンの国の文化である。

「・・・サタンをその首領として、極めて大規模に組織されているように見え、しかも大きな実力(エペソ6:12)を有する霊的悪の勢力は、まだ贖われていない人類の命を支配している。・・・サタンは神の国に敵対する王国を支配している。」(Everett F. Harrison, Baker's Dictionary of Theology, "World.")

再生していない人間は、霊的能力を失っているので、神との交流ができず、神の霊的な力を受けることもない。それゆえ、アダムがサタンの誘惑に負けて以来、人間は、サタンの支配下にあり、キリストの復活の力によって勝利しない限り、サタンの言いなりになって、神に反抗し続けるのである(ローマ8:7)。

堕落した人間が企図し、実行する全ての営為の根元には、神からの逃避と神の律法への不服従が動機としてある(創世記11:4)。そこでは、神の律法の支配する神の国とは別に、人間の理性の自律的支配に基づく人間王国の建設が最終目標である。
「人間は万物の尺度であると言われたように、人間を究極的な存在かつ中心と見るヒューマニズムは、ギリシャ的思考とともに古い。

・・・しかし聖書の光に照らしてみるならば、創造された状態の人間は、神の下にいて神を究極的尺度、解釈者と見る、神中心の人生に生きる者である。

では堕落は人間に何をもたらしたのか。それは神へのは背反であり、神の座に人間を置くことを意味した。堕落はまさに人生観と世界観に転倒をもたらす。神なきヒューマニズムにおいては、人間が究極的解釈者であると同時に究極的決定者でもあり、人間が人間であるが故に重んじられ、意義づけられる。」30

人間が堕落前のアダムに与えられていた、神の代理的為政者(vicegerent)としての地位は、キリストの来臨によって回復された。キリストによって贖われた者には、再び神の国建設の使命が与えられている(第2コリント5:15、第1コリント6:20、10:31)

再生した人間は、神の律法を守り行うことができるようになり、この律法によって世界を神のために作り変えていくことができる。

神の律法は、モーセにおいて与えられ、預言者、キリスト、使徒たちによって確立され、広げられた。この律法は、全ての人間が守らなければならない道徳の唯1絶対の基準であり、他の領域法はこの基準に立つ時にのみ価値を持つ0人間は再生され、神のために生まれることを自覚する時に、真の「労働する存在」となる。たとえ、芸術の世界や科学の世界でそれぞれの領域における法をよく知り、生かすことが出来ても、神のためになすことをしないならば、人間は、良き芸術家または良き科学者となることはできない。神が聖書において示しておられる道徳的基準は、人間の心と関係している。神がアダムに対して、一つの禁止命令を与えられた(創世記2:17)ことは、人が神に向かっている時に初めて文化命令を遂行しうる正常な人間であるということを示している。ローマ1:21には、「彼らは神を知っていながら、その神を神として崇めず」とあり、人間が神を知りつつも、神に帰すべきものを神に帰せず、神を度外視して全ての生活を営もうと言う人間精神の異常さを物語っている。

この人間の反逆の影響は全被造世界に及んだ。「心は、人間性の宗教的中心(religious centre of human nature)であり「意味」の時間的多様性と統一性を持つ世界は、神によって、この「心」に密接な関係を持つものとして創造されている。この点から、人間の「心」における離反は、人類において集中されている時間的世界全体の、離反を意味する。この意味で、「心」における堕罪から来ている崩壊性(destruction)は、宇宙における実在の「意味」の、時間的側面全体に浸透している。ここから、いかなる意味側面であれ、一つとしてこの崩壊性から除外されるものはないと言える。」31 ローマ8:19―23においては、被造物全体が崩壊性を帯び、不断に虚無に向かっていると述べられている。人間の心が堕落したことによって、生物界・無生物界すべてがこの堕落に巻き込まれた。

従ってキリストの和解は、人間だけではなく全被造世界に及ぶのである(コロサイ1:20)。回復されなければならないのは、人間だけではない。天にあるもの、地にあるものいっさいが、神と和解され、新しく創造される必要がある。再生されると、人間の霊は新たに誕生する(ヨハネ3:3)。しかし、人間の肉体は、再生した後にも崩壊性を持っている。従って、再生者には、新しく生まれた霊の原理と肉体の原理との間に戦いがある(ローマ7:23、8:3―11)。外なる人は衰えゆくが、内なる人は日々新たにされる(第2コリント4:16)。次章で示すように、堕落の影響は、心と肉体の両面に及んだ。肉体は、土のちりで形造られたが故に、それと共通性を持つ物質世界も、連動して虚無に服した。人間は、心において、霊的再生を体験しているので、その回復(restoration)は、新天新地の到来後の世界に連続している。

しかし、第2コリント4章16節にあるように、内なる人は新しく生まれ、成長し続けるが、外なる人、即ち肉体は、物質であるがゆえに、それは衰え続けて土に還る。創世記3:17―19において、天と地と肉体が神の刑罰として虚無の中に落ちたと言われているが、それは今日でも同様にそうである。キリストの救いは全人的であるがゆえに、肉体の贖いをも含む。しかし肉体の贖いはキリストの再臨時にあるとされ(第2コリント15:52)現在持っている血肉のからだは依然として朽ちゆくものであり(同50節)、現世界における回復はなく霊的身体へ帰られねばならない(51節)。これと同様に、現在存続する物質世界の崩壊性が終結し、虚無から解放されるのは、新天新地の到来においてである(黙示録21章)32

従って、我々は、律法の適用による神の国建設は物質界の崩壊性の限界の中で進められて行くことを覚えねばならない。諸領域における法を発見し、抽出し、それを適用・応用することによって、我々は、普段に崩壊・無秩序化してゆく世界の虚無性を食い止め、それを克服して行く、地の塩の役目と世の光の役目(マタイ5:13―14)を果たすのであって、物質界自体の回復は、神のみ手の中にあると見なければならない。

この意味で、人間の文化命令が、堕落前には永遠の世界と連続的であったのに対し、堕落後には非連続的であると言える。堕落前においてアダムは、業の契約の元に、善を行う報酬として、永遠の祝福が約束されていた。しかし、これは、アダムの側の服従を条件としていたのであって、無条件に与えられるものではなかった。夫婦中に対しては死という刑罰も用意されていた。アダムにとって、人生とは永遠の世界への準備期間であるという意味で、再生者の人生と共通している。しかし、大きな違いはアダムにおいては、永遠の世界はその心の善性によって契約を守ることによる報酬であったが、再生者において、永遠の世界は、再生者に代わって業の契約を守り通したキリストが獲得した報酬の相続であるということである。

ゲルハルダス・ヴォスは次のように言っている。
「それは、人は初めから永遠の祝福の状態に置かれているとは見ておらず、永遠の祝福に至るかもしれない道に置かれていると見ている。彼の変わりうる自由とともに与えられている罪と死との可能性が、なお、彼の頭の上に舞っている。彼はその良い性質によって善を行う自由を持っているが、まだ善のみを行うことができる最高の自由に達していなかった。後者は、理想として彼の前に置かれている。それを獲得する手段は、業の契約である。ここでもまた、恵みの状態は、再び、究極的には、最初の正しい状態における人間の宿命についての理念によって決定づけられている。我々が第二のアダムにあって受け継いでいるものは、我々が第一のアダムにあって失ったものに限定されていない。

それどころか、それは、もし最初のアダムが堕落しないで彼の状態を堅固なものにしていたならば彼が我々のために獲得してくれていたはずのものの充分な実現である。その状態に置かれた者は、決して再びその状態から堕落することができない。キリストが真に完全な救い主であられるのであれば、同様に真に、我々に聖徒の堅忍を与えてくださらねばならない。」(G. Vos, 「改革派神学における契約の教理」)33

人間が業の契約を破ったという事実は、たとえ、キリストの贖いによって再生したとしても、消えることはない。人間はキリストの業を受け入れるのであり、神の実子ではなく、神の養子として生命を相続するのである。これゆえ、我々は二度と業の契約に戻ることはない。業の契約に結び付いた呪いは、現世界を支配し続け、万物の更新時まで続く。34 それは、万物が、人間を頭として有機的に結合している創造時の状態を続行しているからであり、人間の肉体は、土から造られたという意味で共通性を持ち、この肉体は崩壊性の中にあるからである。

tomi 2021/04/27(火)08:58

1987年に書いた神学校の卒論4

Greg Bahnsenは、著書”Theonomy in Christian Ethics”の中で、マタイ5:17―18の精密な釈義により、それを証明している。彼はその中で次のように言っている。「廃棄」という言葉は、#gs#katalusai#ge#で、Thayer's Greek-English Lexicon of NTによると”to destroy, demolish, overthrow, render vain"を意味する。

これは元来、建築物を破壊したり、引き倒したりする時に使われていた(マタイ24:2、26:61、27:40、マルコ3:2、etc.)。しかし、後に抽象的意味を持つようになり、「建てられた制度、法などを破壊する、廃止する、ひっくり返す等」の意味となった。例えば、Gospel According to the Ebionitesでは、#gs#kataluW#ge#は、#gs#tas qusiaV#ge#と関係して用いられている。この場合、文脈により、いけにえの動物の体を引き裂いたり、バラバラにするという意味ではなく、犠牲の制度の廃止を意味している。(William F. Arndt and F. Wilber Gingrich, A Greek-English Lexicon of NT and Other Early Teaching of Jesus (New York : Charles Scribner's Sons, 1904)による)

このように#gs#kataluW#ge#は、「破壊する、廃止する、ひっくり返す」の意味であって、「(法を)破る、違反する」の意味では用いられない。その場合は、#gs#luW#ge#が多く使われている。#gs#kataluW ton nomon#ge#が「命令違反」の意味で用いられた慣用表現もない。従って、マタイ5:17において主イエスは、ご自分が律法を破壊したり、廃止したりしようとされてはおられないことを言われているのであり、律法の違反について言っておられるのではない。

#gs#katalusai#ge#と対置されているのが#gs#plHrWsai#ge#(「成就する」(新改訳))であるが、この間には、反意接続詞#gs#alla#ge#が置かれている。#gs#alla#ge#は#gs#de#ge#と違って、全く逆のことを言うときに使われる言葉である。(Blass and Debrunner's A Greek Grammer of the NT and other Early Christian Literatureによる)

織田昭「新約聖書ギリシャ語小辞典」にも、次のように書いてある。「#gs#de#ge#, 後置接続[小], ・・・しかし、だが、で、それで、さて、次に、また、他方、等。一般に#gs#alla#ge#ほど反意の対照力が強くない。反意接続詞としてのみならず、整合接続詞としても用いられる。#gs#alla#ge#は純然たる反意接続詞で#gs#de#ge#よりもずっと強く、前後の句または節を強く対照させ、”―ではなくてむしろ(反対に)―”、”―ではなくそれどころか―”、また、否定の先行なしでも、前の文(節、句)に対する反対、中断または別の思想への移行を表わす」20

このように#gs#alla#ge#は前後を反意接続詞として結びつけるのであるから、#gs#plHrWsai#ge#は、#gs#katalusai#ge#と反対の意味として解さねばならない。#gs#katalusai#ge#が「違反」とか「不履行」を意味しないことから#gs#plHrWsai#ge#も、単に「護る」とか「従う」という意味ではない。#gs#katalusai#ge#の語義「破壊する」

「ひき倒す」の反意語として、「建て上げる」「確立する」が適当であろう。
多くの学者も、#gs#plHrWsai#ge#を"confirm", "ratify"と訳している。カルヴァンは次のように言う。「これらの言葉(マタイ5:17)において、主は次のように宣言しておられる。それ(旧約)は、新約によって継承される時に確立(confirm)され、批准(ratify)されるであろう。」(J・カルヴァン、共感福音書注解)

J・マーレーも次のように言っている。「しばしば『充満(fulness)』と訳されるこの言葉の名詞形は、物の総数、総量、必要な総数を意味する。それゆえ、イエスが言おうとしたことは、主が律法と預言者を完成し、極点に至らせ、充分に結実させ、完全に成就するために来た。ここでイエスは、律法と預言者を確認(ratify)し確証(confirm)する働きを言っているのであって、自身に関する旧約聖書の預言の成就以上のことを含めている。(J. Murray, Ibid., p.169)スポルジョンは、この節を注解して次のように言う。「神の律法を彼は打ち立て(established)、そして確立した(confirm)・・・。我らの王は律法を廃するためではなく、それを確立し(confirm)、再び主張された(reassert)。」

H・リッダーボスは、"Significance of the Sermon on the Mount"の中で次のように言っている。「モーセの律法の原理と山上の説教のそれとの間には何のアンチテーゼもない。後者は前者を廃棄したのではなく、それを確立している(confirms)のである」(H. Ridderbos, When the Time Had Fully Come, p.42.) 21

また彼は、次のようにも言う。「”fulfiling”という言葉はイエスの教えについて言及しているのであって、彼の人生について言っているのではない。カルヴァンが言ったように、"De doctrina agitur, non de vita"(about doctrine is said, not about his life) である。新しい律法はイエスによって一つも与えられなかった。又、彼はモーセの律法を廃棄しようとも、又、それを取り替えようともしなかった。彼の意図は事実、彼の教えによって律法を成就(fulfill)しようとした事実にある。即ち、律法の本当の内容と目的を示そうとした事実のことである。」22

#gs#plHrWsai#ge#が「成就(fulfill)」として訳される場合、そこには、イエスが律法を守られたということだけではなく、パリサイ主義者らの誤った律法解釈を否定し、真の意味を回復し、それによって律法を旧約聖書にあるとおりに確立する意味が含まれている。従って、5章の続く箇所において、パリサイ主義者らの律法解釈をあげ、ご自分の律法解釈を律法賦与者の立場から宣言しておられる。(21―48節)。

従って我々は、この箇所で主が主張されていることは、律法はキリストが来て、それを全て守り行うことによって、無効となったのではなく、それは存続し、むしろ真の意味が明らかにされ、人々がいよいよこのこれを守り行うために、確かな権威を与えられたのだ、ということであると知るのである。新約時代において、律法はさらに強調され、人間が守り行うべき神の命令として、今日の我々にも権威として存在しているのである。

さらに、18節を見ると、一点一画さえ(#gs#iWta en H mia keraia#ge#)、天地の滅び去るまで、決してすたれることはない、とある。
新改訳においては#gs#eWV an panta genHtai#ge#が「全部が成就されます」と訳されている。これは、キリストの律法遵守の働きとしての「成就」を強調するための意訳であると思われる。なぜならば、一つの文において、#gs#eWV an#ge#で導かれた節が二つ並列的に主節(#gs#iWta en H mia keraia ou mH parelqH apo tou nomou#ge#)を修飾している場合、同格として強調的言い換えとして訳するのが普通だからである。従ってこの場合、ルカ21:32にある#gs#eWV an panta genHtai#ge#と同じように「すべてのことが起こってしまうまでは」と訳し、18節前半の「天地が滅びうせない限り」の言い換えとして、従属節の原意をとどめた訳をすべきである。

ここで主張されていることは、17節でイエスが律法は廃棄されないと言われたことの強調であろう。ヘブル文字の似通った文字は、点や画によって区別をつける。その小さな部分でさえも変更されたり、失われたりすることはなく、旧約律法は天地の寿命と同じほど永遠的なものであり確実なものである、と言うことである。従って、我々は、新約時代だからと言って、律法をイスラエル人のための古い制度であるとして、それを軽んじたり無視たりしてはならない。一点一画に注意を払い、それを完全に守り行うようにすべきである。心に書かれた律法によってこの不滅の書かれた律法(written law)を無効にしてはならない。

O.P.Robertsonは、エレミヤ書における、神の律法の新約時代の特質について語る中で、書かれた律法は新約時代に不要になったという。「『彼らの時代の後に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主のみ告げ―。私は私の律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのようにして人々はもはや、『主を知れ』と言って、各々互いに教えない。それは、彼らが皆、身分の低いものから高いものに至るまで、私を知るからだ。―主のみ告げ―。私は彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。』(エレミヤ31:33―34)

律法の新約時代における特質とは、その内的な性格にある。外的に働くのではなく、律法は心の内側から働くのである。
エレミアによると、その結果は、神の律法の外的な提示の必要がなくなった、ということである。すべての人が律法を知り、自然に神の御心に従うことができるようになるのである。全く明らかなことだが、石の上に記されたモーセ契約は、新約聖書の栄光とは比較にならないのである。」(O.P. Robertson, The Christ of the Covenant)23

神の聖霊がクリスチャンの心に働いて、律法を守り行うように導くことは事実である(第二コリント3:17、ローマ8:4、ガラテヤ5:16等)。聖霊はクリスチャンが神の導きに従い、その御心に服従するための力を与える。パウロはローマ7章25節で、自分の肉の弱さにおいては罪の律法に仕えているが、心においては神の律法に仕えていると言っている。パウロにとって服従することは、神の律法に仕えることであった。そして、それは、無力になっている肉によってはできず、聖霊に従って歩む時に可能となるのであった(8:4)。聖書は、聖霊の内住が我々を罪―即ち、神の律法を犯すこと(第1ヨハネ3の4、9、5:18)―から守ると教えている。聖霊は神の律法を守り行う原動力である。しかし、Robertsonの言う「神の律法の外的な提示の必要がなくなった」という、書かれた律法の廃棄の主張は、果たして正しいのであろうか。

旧約聖書においては、預言者の霊体験は、イスラエルのすべての人に与えられていたわけではなかった(民数記11:29)。従って、人々は、預言者を通して神のみ声を聞いていた。このエレミヤ14:23―26の他に、旧約聖書の預言者によって語られた預言の数々(エレミヤ31:32―33、エゼキエル11:19―20、39:29、36:26―27)は、将来、全ての人がこの霊を持つような時代の到来について告げている。メシヤ(イザヤ11:2)が来る時に、イスラエルのすべての者(ゼカリヤ12:10)、そして全ての人(ヨエル2:28―29)は、ペンテコステにおいて立証されたように、その上に注がれた霊を持つはずであった。そして、それは新約聖書によっておいて事実となったのである。新約時代において聖霊なる神はその人のうちに働いて主の御意を教える。全てのクリスチャンは、聖霊によって個人的導きを受けるのである。しかし、それは、決して律法を離れてではなかった。

新約時代においても、律法は「知識と真理の具体的な形」(ローマ2:19、20)であり、主が言われるように、「人は、・・・神の口から出る一つ一つの言葉による」(マタイ4:9)であって、ただ霊によるのではない。聖霊はご自身からは語られることはなく、ご自身が聞かれたことをお語りになり(ヨハネ16:13)、御子の栄光を現し、御子を証し、御子の語るみ言葉を証される(ヨハネ16:14)と言われる。聖霊はすべてのことを教え、キリストが語られたすべてのことを思い起こさせてくださる(ヨハネ14:23―26)。聖霊は律法を超えて語られることはない。書かれた律法を行わせるように働かれるのではある(第2コリント3:6)。エゼキエルはこのことを次のように言っている。「私の霊をあなたがたのうちに授け、私の掟に従って歩ませ、私のさだめを守り行わせる」(36:27)。
聖霊の無い律法は死をもたらし(ローマ7:8―11)律法のない聖霊は迷いをもたらす(第1テモテ1:13、3:16、ローマ5:13等)。
従って、我々は新約時代においても律法は聖霊の働きと共にあり、それは不要ではなく、信仰生活の不可欠の要素であることを知るのである。Philip E. Hughesは、次のように言っている。

「使徒は、『律法はそれ自体が悪いもので死をもたらすものだ』とは言っていない。逆に彼は、律法は聖く良いもので、生命に至らせる(ローマ7:10)と言っている。そして、彼は「律法の義を行う者は、それによって生きる」という旧約聖書の教義を是認している(ローマ10:5、ガラテヤ3:12、参照レビ18:5、ネヘミヤ9:29、エゼキエル20:11、13、21、箴言4:4、7:2、ローマ2:13)。
さらに、これは、我らの主の明白な教えである。(参照マタイ19:17、ルカ10:28)。パウロは、律法について悪く言うようなことは決してなかったという意味で、キリストの忠実な追従者であった。事実、キリストは、律法を成就(fulfill)するために来たのであり、それを破壊するために来たのではない(マタイ5:17)と言われる。そして、パウロの教義の目的も、律法を建て上げるためであった(ローマ3:31)。ここで(即ち第2コリント3:6で)パウロは、決して律法への攻撃をしているわけではない。我々が前にも観察したように、律法は、古い契約に優るとも劣らず、新しい契約においても、必要不可欠な構成要素なのである。」24

tomi 2021/04/26(月)18:19

1987年に書いた神学校の卒論3

II

神の律法の新約時代の有効性について

ルターは説教1525「クリスチャンはモーセをどう考えるか」において、次のように言っている。モーセ律法はユダヤ人のみを縛り、異邦人を縛らない。我々は、モーセを支配者又は律法賦与者としてもはや認めない。」モーセについて、ルターは3つの点を見ていた。「第一に、わたしはイスラエル人に与えられた律法を廃棄する。それは、私を励ましもしないし、強制もしない。それはもはや死んでいるのであり、去ってしまったものだ。第二に、わたしはモーセのうちに、自然のうちに持っていない何かを見いだす。それは、キリストに関する神の約束と誓いである。これは最上のものである。第三に、我々は父祖アダム、アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセとその他すべての人々と同じく、モーセを信仰と愛と十字架の美しい例として読むのである。・・・モーセが命令を与えたところにおいて、彼が自然法に同意する場合以外、我々が彼に従う必要はない。」(Luther's Work, vol.35, Word and Sacrament (Philadelphia : Muhlenberg press, 1960), I, pp. 161-173.))

Kevanは、無律法主義の起源について次のように述べている。「無律法主義は、キリスト者の経験する事柄の中における神の律法の教義においてピューリタニズムと神学的に反対の立場をとっていた。新約時代や、Valentinian Gnoticismの時代における初期の発現とは別に、無律法主義の公的出現はJohannes Agricola(時としてIslebiusと呼ばれる)というルター派改革主義の活動的指導者といつも関係していた。わざによる救いを主張する教義との戦いに有効な教義を探求する過程で、Agricolaは、「信者は倫理的律法を遂行する義務がある」という考えを否定した。Wittenbergにおけるルターとの論争(1537年)において、Agricolaは人は信仰のみによって救われるのであり、その人の道徳的性質など関係ないと主張したと言われている。

Agricolaのこれらの見解は、ルターによって福音のヘタな模造物であるとして却下されたが、それにも関わらず、無律法主義者たちは繰り返し、ルターの著作に自説を訴え続け、彼らの意見に対するルターの支持を取り付けようと迫りつづけたのであった。しかしながら、この主張は、ルターの表現の中の曖昧な部分や、宗教改革者への誤解に基づいているものに過ぎなかった。」(Ernest Kevan, The Grace of Law, A Study of Puritan Theology (Grand Rapids : Baker Book House), 1965. cited by R. J. Rushdoony in Ibid., p. 652.))

しかしKevanは「この(ルターの表現の中の曖昧な部分)は、ルターの思想の中の曖昧さに由来している」と言っている。1529年に、ルターは「小教理問答」において、律法についての幾分健全な見解を示してはいるが、彼の律法への攻撃によって作られた損害を元通りに戻すことはできなかった。

「律法は過ぎ去ったものであり、新約のクリスチャンにとっては古いものである。従って、これを守る必要はなくなった。しかし、無律法主義に陥ってはならない。」という曖昧なルターの思想は、救いの条件としての律法の否定が、救われた後のクリスチャンにとっての行動規範としての律法の否定にまで及んでしまったために生じたものと思われる。19

確かに、聖書は、クリスチャンが律法の下にないと言い、また、それに束縛されないという(ローマ6:14、7:6、ガラテヤ3:23、24、25)。しかし、それは、律法が人間の違反の責任を追及する効力を失ったという意味であって、律法そのものが倫理的要求力を失ったという意味ではない。律法は、今日においても、神の人格的被造物としての人間支配の原理として有効であり、クリスチャンもこの意味で、律法の元にあるのである。

カルヴァンは次のように言っている。「多くの人は、この(律法の)呪いからの解放を言おうとするとき、『信仰者にとっては、律法は廃止された』という。しかし、これは、律法が正しいことをもはや彼らに命じ無いという意味ではなく、ただ、彼らにとっては以前のようなものではなくなったという意味である。即ち、以前のように彼らの良心を脅かし、混乱させ、罪に定め滅ぼすようなことがないということである。」(J・カルヴァン、キリスト教綱要、II・7・14、新教出版社)さらに、「しかし、次のことは変わらないのである。即ち、律法の権威は少しも損なわれず、常に尊厳と従順とお我々から受くべきだということである。」(II・7・15)

キリストが律法の呪いを身代わりに受けたので、人間にとって律法は、信仰によってキリストの贖罪を受け入れる時に、その断罪の効力を失う。しかし、人間は律法の呪いからは逃れても、律法自体からは逃れられない。依然として、人間は律法を完全に遵守する責任を負っているのである。

J・マーレーは、次のように言っている。「人間が神に受け入れられ、義と認められることに、律法の貢献がわずかでも考えられるならば、恵みの福音は無駄になる。・・・『律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている』(ガラテヤ5:4)。しかし同時に、パウロが次のように述べていることを思い起こさなければならない。『すると、信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。』(ローマ3:31)

・・・恵みの教理は、律法のわざによる歪曲から油断なく護られねばならない。そればかりではなく、律法の教理もまた、恵みについての 誤った考え方からくる歪曲から護られなければならない。律法主義の混入から恵みを護り、無律法主義の破壊から律法を護らなければならない。」(John Murray, キリスト者の倫理, pp.208―9)

さらに、ゲルハルダス・ヴォスは次のように言う。「被造物である人間は神に従属している。そして、たとえ神が、律法の遵守に対して、永遠の命をもって報いることをよしとされなかったとしても、律法遵守の要求はなお有効である。『これを行え』という要求は、たとい『あなたは生きるであろう』という約束が伴わなくとも、なお正当である。従って、恵みの契約においても、この契約にあずかっている者たちには、永遠の祝福の条件としての律法の要求は免除されているが、道徳生活の規範としての律法の要求は免除されていない。」(G. Vos, Redemptive History and Biblical Interpretation, 日本語版, p.33.)

次に、新約時代における律法の効力について、聖書本文から論証しよう。

tomi 2021/04/26(月)08:28

1987年に書いた神学校の卒論2

ビジネスの分野においても、主権者としての人間は、絶対的倫理基準を持つことはできないので、雇用関係の中で作られた自律的価値、即ち利潤追求がその領域において絶対者となり、多くの労働者の生活を圧迫している。人は何かに服従すれば服従したものの奴隷となるという真理は、ここにおいても適用されるのである。

このような傾向は、近代憲法の形成にその問題の源泉を見ることができる。近代憲法がどのように律法から離れ、道徳性を失ったかについて、その過程を歴史的に振り返ってみたい。

近代立憲民主主義の成立の基盤を作ったのは、改革主義運動だと言われる言われる。スコットランド人、スコット・サミュエル・ラザフォード「1600年―1661年」は、「法は王」(Lex Rex)という本の中で、最終権威としての聖書の基盤の上に法が作られ、その法によって政治が行われるべきであると述べ、改革主義から出てきた人々が国王を政治的に制限するという原理を初めて最もはっきりした形で表した。

この考え法は、公会議運動や中世初期の議会を乗り越えていった。なぜならば、これらの中世のものには、首尾一貫しない教会決定や、政治情勢によって変化してしまうような不確かな基礎しかなかったからである。ラザフォードの影響は、長老派のジョン・ウィザースプーン(1723年―1794年)によってアメリカ合衆国の憲法に、又、ジョン・ロックによって近代書憲法に及んだ。16

ジョン・ロックは、ピューリタンの二度の革命において確立された「法による支配」(Rule of Law)の原理を、名誉革命の直後、「統治論」および「寛容についての書簡」の中で体系的にまとめ上げた。ここで、近代市民社会の原理はほぼ確立された。しかし、ラザフォードにおいて確立された「法の源泉(resource)は、聖書の律法である」との考えは、ロックによって自然法に置き換えられ、世俗化されてしまった。自然法は、人間の本姓に根ざし、生得的に存在する秩序への傾向のことであり、それは、どの民族のうちにも働いて、社会や国家を形成するように働く。それは、神の律法と違い、書かれたものではなく、実定法のように人間が便宜的に取り決めた法でもない。アウグスティヌスによれば「自然的なものにおける神の意志のあらわれで歴史的法と歴史的秩序の背後にあるもの」である。ロックは「統治論」の冒頭の「自然状態について」の中で次のように述べている。17

「政治的権力を正しく理解し、それがよってきたところをたずねるためには、すべての人が自然の姿でどのような状態にあるかを考察しなければならない。即ちそれは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多く持つ者は一人もいない。なぜなら、同じ種、同じ等級の被造物は、分けへだてなく生を受け、自然の恵みを等しく享受し、同じ能力を行使するのだから、すべての被造物の主であり支配者である神がその意志を判然と表明して、誰かを他のものの上に置き、明快な命令によって疑いえない支配権と主権を与えるのでない限り、すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえないということは何よりも明瞭だからである」(四)18

ここに取り上げられている自然状態とは、今日の日本社会においてあるとおりのそれである。「自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するように完全な自由の状態」とは、いったい、本当の意味で自由な状態と呼ぶことができるのであろうか。

聖書は、我々があらゆる束縛から解放されることを自由とは言っていない。神のみこころに常に従うことのできる自由を本当の自由と呼んでいる。即ち神の奴隷となることが本当の自由である(ローマ6:22)。

「自然法の範囲内で」という但し書きがついている。自然法が、「『正しい理性の教示』であり、これは人間の自然=本姓に根ざした法で理性の正しい行使によってのみ把握することが可能な道徳的な原理」(平野耿、自然法、現代哲学事典、講談社新書」であるとすると、マルキ・ド・サドが殺人を罪ではないと言った場合、これが正しい理性かどうか、どのように決めるのであろうか。正しいとは何かを基準にそう言うのであろうか。

自然法は、神の律法に基礎を置かないので、相対主義である。それは、人間の理性に権威を置くので、時代により場所により判断基準が変化する。聖書は、人間理性は堕落の影響を免れておらず、神に対して反抗的であるので神を排除し、自律的領域を作ろうとする、と言っている(エレミヤ17:9、創世記3:1―12、6:1一12、11、1―9、マタイ27:22―23、マルコ15:13―14、ルカ23:23、ヨハネ19:15 etc」。「従って、もし自然人(natural man: 再生していない人)が、神を求めると言って、普遍的な法を作り出すならば、そのとき、彼は事実上、神も、神の法も必要としないのであり、聖書も必要ないのである。神学者も神からの啓示も要らない。人は彼自身が啓示と真理の原理となり、歩く法の源となる」(Rushdoony, Institutes of Biblical Law, p.685)のである。

自然宗教が神の啓示に基づかないのと同様に、自然法も神の書かれた律法に基づかない。従って、自然法は、ヒューマニズムに道を開き、法の分野において、人間の自律的領域を作り上げてきた。

このように、ロックは、ピューリタンによって少しの間体系化されていた神の律法に基づく法支配の原理を、自然法を導入することによって、世俗化してしまった。

この自然法はさまざまな形で、近代諸憲法の中でその影響を及ぼした。その最も大きな影響は、相対主義的権威と価値観である。人間は、正邪の判断を神の律法に求めないならば、客観的に自らの行動を道徳的に判断する基準を持たない。そこにおいて、人間理性の自律的判断は市民権を得、その自律的判断が、結局自然法の基礎であるはずの神を否定する方向に向かってしまった。啓蒙主義者によって発展した自然法概念は後に、それ自身のうちにある「神聖感覚」を否定した。宇宙の中に働く神の計画性は排除され、宇宙は、あたかも自動的に動く機械のようにみなされ、人格的宇宙は非人格的宇宙に変わってしまった。世界の思潮はダーウィンの進化論をすぐに受け入れ、すべての存在を支配する神の律法から逃れるために、「盲目で無秩序で進化しつつある宇宙」という概念を受け入れた。

このような動きの中で近代憲法は自らの内にある原因によって、絶対権威であるべき神を排除し、相対的権威である人間の理性を神の座に据えた。前述のように、これを法の領域においてはっきり思想として打ち出したのはカントであった。彼は、神や道徳を認識不可能なものとして、認識の対象外に置いたので、法の中に神の権威に基づく道徳性を追放してしまった。ここにおいて、法は、神の律法から完全なる自律性を獲得したのである。

以上のことから、我々は次のことを結論づけることができる。
法の源(resource)を神に求めず、人間理性に求めるならば、即ち、神の律法に基礎づけるのではなく自然法に基礎づけるならば、法は自己崩壊し、相対主義の泥沼の中に沈み込んで、社会を混乱と不道徳の中に陥れるということである。

tomi 2021/04/25(日)20:46

1987年に書いた神学校の卒論

神の律法

―その今日的意義と限界―



アブラハム・カイパーは再生者と非再生者の対立は、けっして 「信仰と理性の対立」ではなく、再生者の自己意識と非再生者の自己意識の相違にあることに着目し、「2種類の人間」と「2種類の科学」の主張に画期的な 「対立の原理」を見出した。しかしこの対立は自然科学などの領域で 「認識の共通領域」を認めたため、不徹底なものであった。ヴァン・ティルやドーイウェールトにおいて、この対立原理は徹底され、再生者と非再生者の間には、いかなる領域においても 「共通領域」は、倫理的認識的に承認されないことが結論された。しかし、同時に、再生者と非再生者との共同的活動が可能な領域が全く存在しないと結論されてもいない。それはカルヴァンにおいて、世俗社会における再生者と非再生者の共同の政治的参与の可能性を「法の種子」である自然法の普遍的存在の中に求めたことの中にもすでに見られる。

神の似姿を持つ者としての人間に一般に存在する「宗教の種子」「神聖感覚」と「法の種子」「法感覚」が非再生者における市民的正義や諸学の建設の可能性の根拠を形成することは認めることができる。

しかし、歴史的に見て、再生者と非再生者の共通活動の基盤として許容された自然法が、結果として、人間の非再生的理性の自律的領域の建設を許したということは認めなければならない。自然法に基礎をおいて作られた近代諸憲法が、人間を主権として立て、民意を絶対者として置いている所から、今日の社会のさまざまな問題が発生している。

本稿において、自然法に基礎づけられた社会の限界(I)、律法の今日における有効性(II)、そして、神の世界支配における律法の役割と限界(III)について論じ、今日における律法(Law of God)―モーセに与えられ、預言者、キリスト、使徒において確認され広げられた神の御意―の意義について考察したい。

I

初代教会の誕生以前、世俗社会における国家の政策決定の主体は、自律的(autonomous)な政府と、自然理性であった。polisは、自ら作り出した法(civil law)に従って、その進むべき方向を決定していた。

しかし、教会が信条を形成するようになって、次第に社会に影響を及ぼし始めると、教会はcivil lawをも再編していった。polisにいっさいの権威と倫理性の基礎を置いていた古代異教社会に対して、正統的キリスト教会は、すべての領域における神の主権性を主張していたからである。国家の主権は、キリストの主権によって挑戦され、教会の信条は信徒だけではなく、社会全体を神の律法に服させることに努めていた。ローマ帝国政府が神々を崇拝していた時、キリスト教会の一貫した態度は、異教の神々への崇拝の拒否と、すべての領域におけるキリストを中心とした価値体系の再編であった。1

国家は、キリストと、その御言葉の元で正義を行うために遣わされた僕であり、2 キリストが絶対的権威を持つのに対し、それは派生的権威でしかなかった。しかし、唯名論の台頭期、中世ローマ教会が、信条を聖書の啓示から分離し、トマス・アキナスが、自然と恩恵の二元論によってこの傾向を促進した結果、国家は再び聖書啓示とは独立した分野として自律的権威を与えられた。すなわち、唯名論と二元論は、自然理性を聖書啓示から独立させ、政治的領域を聖書と神の律法から離れた領域へと移してしまったのである。宗教改革はこの傾向に対し、神の律法の元における全領域の統合を主張した。

ジャン・カルヴァンは、国家の自律的権威に反対し、教会と共々に、神の権威の元に、すべての権威を派生的・相対的権威として位置づけたのであった。彼は、国家に対するキリスト教的視座を再設定し、国家が教会にではなく、神の主権の元に独立した領域として服従し、並立すべきであると考えた。カルヴァンにとって、神の主権とは、神の律法に表された絶対不変の秩序であり、為政者はそれを実行するものとしてのみ、真の為政者であり得た。彼にとっても、為政者は神の僕であったのである。綱要II・7・13において、彼は次のように主張している。「律法のうちに絶対的な義の例証が示されている。」そして、この律法とは、「すべての時代に適用され、世の終わりまで有効である。」

これに対し、啓蒙主義においては、近代国家の自律性が主張された。

「17世紀において、西洋における、、00年の歴史の中で、初めて大規模に、宗教的に中立な文明、即ち、政治的、経済的、倫理的、そして知的に、キリスト教から独立した社会構造を築き上げるという企てがなされたのであった。

現代の西洋文明文化は、・・・明確なキリスト教的方向性をも文化から解放されることによって、それ以前の文化と区別されるだろう。・・・近代国家は、キリスト教社会の「世俗的手段」として奉仕することを徐々にやめ、キリスト教社会の政治的影響力は、副次的位置に低下し、間接的な意見表明がなされるのみになった。近代の政治思想は、行政力を、聖書啓示や教会の権威の恩恵によらずに、人間一般に存する性質としての政治的構想力に見出したのであるまる。・・・これら国家は、自らの決定を、いかなるキリスト教的傾向からも自由に、自然理性によって形成されたものとして捉えてきたのであった。そして、この傾向は、19世紀にも続き、国家の宗教的中立へと道を開いていったのであった。」3

聖書に対する批判が強くなっている今日においては、もはや、行政権が究極的に神に属するなどと考える者はほとんどいない。今や、世俗的権威は、「社会契約」という統治される側の合意の結果であると考えられている。神の御意や律法の支配に代わって、今日では、政府は人間の願望の達成の道具となっており、それを動かす「社会契約」は、国家にとって至高者として君臨しているのである。

ここにおいて、国家は神の義が社会を支配するために立てられた代理者としての地位から解放され、その支配は神の主権とは無関係な政治的・法的規準によって運営されるようになった。その代わりに、統治権は誰であれ、権力を掌握したものの上にあるのである。4 したがって、近代の「中立的」国家の歴史と政治的発展の過程は、次のウィリアム・ペンの予言を確証していると言えよう。

「人間は、神によって統治されるか、さもなければ、専制君主に統治宣言をさせるかのどちらかを選択しなければならない。」5
神の主権のない所においては、人間理性が主権になる。そして、それは国家の絶対権を容認するようになる。6「国家は絶対精神を地上に受肉させる。」(ヘーゲル)「国家は国民を支配する。なぜならば、それのみが国民を象徴するからである。」(ヒトラー)

神に代わって主権を持った人間理性は、聖書の示すとおり、サタンの支配下にある(ルカ4:6)。神からの自由は、サタンへの隷属である。7

今日、民主主義諸国における主権は、国民にあり、国民の作った法は、形骸化し倒錯した社会福祉と予算編成、国際秩序維持だけのための武力介入などを決定している。しかし、これらの政策は、神の律法が目指すところの、愛に基づく、高い水準の義と倫理的義務の実行とは全く異なったものである。政治的・法的領域をはじめとして、すべての領域における法秩序は、神の道徳的律法の前提の元に成り立っている。8 しかし、カントが法学と倫理学を分離し、それぞれ別領域として、法の中から倫理性を取り去って以来、法は倫理的に中立な(neutral)法となった。

日本において昭和23年に制定された優生保護法は優生なもののみが価値があるとする人間社会の自律的倫理によって、57万人もの公然の殺人を許している。10 アメリカの中米政策は、共産主義勢力の阻止のためならばどんな抑圧的政権でも支持するという、政府の方針に基づいて決定されている。11

今日、神の律法に基礎を置かない法律によって、社会の崩壊が進行している。カント以前において、法は、自然法を基礎として形成されていた。自然法は、あらゆる実定法を規定する法の法として、古代ストア以来、正邪の究極的な尺度と目され、17、18世紀に隆盛を見たのであるが、カントが、権利問題と事実問題を峻別して、宗教的なもの道徳的なものの領域と法の領域を分離して以来、攻撃され、駆逐されてきた。12 自然法は、人間の理性に対する信頼に基づいているので、人間の自律的分野を形成する余地を残している 13 という意味で、反キリスト教的であるが、14 それでも倫理性を、不完全ながらも神の似姿としての人間の良心に基礎づけていたので、ある程度の歯止めがあった。しかし、カント以降、「物自体」を認識不可能として駆逐し、宗教的なことや倫理的なことと、現象の世界とを二分してしまった結果、人間社会には、倫理性を決定するいかなる基準もなくなってしまった。この結果、社会の中に、この思想のもつ無政府主義的性格は徐々に浸透し、今日その影響はあらゆる領域に見られる。15

戦後の学校教育は、戦前の誤った道徳教育の反動として、倫理的中立を主張し、あらゆる道徳教育を否定し、愛国心や民族意識を危険視してきた。このため今日、日本においては、道徳的に確かな基準を持って育てることのできる親も、道徳的な教育ができる教師も少なくなり、その結果、学校を偏差値で決める歪んだ受験体制が生まれ、子供たちは道徳を失って校内暴力、陰湿なイジメ、非行に走り、学校教育、家庭教育に重大な荒廃がもたらされている。

つづく

tomii 2021/04/25(日)01:18

MJ様 メールありがとうございました

MJ様
メールありがとうございました。
返信しても跳ねられるのでここでお礼を申し上げます。
ミレニアム
富井 健

tomi 2021/04/23(金)20:01

菅政権及び各都道府県知事に対して呪いをかけるしかなくなりました

死亡者年間5000人程度の感染症は例年ざらに起きてます。

コロナだけ特別に騒ぐ理由はない。コロナで特別な対策を講じて産業を破壊している政策そのものが有害です。

店舗に保証はあっても、バイトしている人々にはいかなる保証もありません。

いろんな手段を通じて警告してきましたが、いっこうに政策を改める様子が見られません。

これ以上、日本を破壊し続け、人々を苦しめる場合には、呪詛をかけるしかありません。

われわれ全員で内閣の各メンバー、及び、緊急事態宣言を望む各都道府県の知事に神の呪いが下り、これ以上活動できなくなるようにしましょう。

以下を食事の祈りなどの際に祈ってください。

イエス・キリストの御名によって命令する。「緊急事態宣言で日本を破壊し続ける菅内閣及び各都道府県知事よ、呪われよ!!!もう二度と活動できなくなれ!」

tomi 2021/04/22(木)22:27

契約の箱のありかを隠すための何重もの仕掛け

1992年にベラ・コチェフスカさんが、伊勢神宮を訪問し、外宮の神である豊受大神が、実は聖書の神ヤハウェであると看破されました。そのときの様子をあるサイトから引用させていただきます。

外宮正殿の後方の小高い丘の上には、豊受大神の「荒魂」を祀るとされる多賀宮があるのですが、「神様が私を引っ張っていく」とベラさんは言い、突然急勾配の階段をすごい勢いで登り始めたそうです。
「多賀宮の神前に進み出ると、ベラは感極まったように膝を折り、額ずいて祈った。
するとにわかに神気というか、霊気というのか、ただならぬ気配が一帯にたちこめた。
僕も思わず手を合わせてしまったが、身体に目に見えない圧力がのしかかってくるようで、頭を上げられない。このときの気配というものを的確に表現する言葉を僕は知らない。
それは生れて初めての経験だった。祈りを終えたベラは、顔中を涙で濡らしていた。」
https://ameblo.jp/aries-misa/entry-11470057916.html

この「するとにわかに神気というか、霊気というのか、ただならぬ気配が一帯にたちこめた。僕も思わず手を合わせてしまったが、身体に目に見えない圧力がのしかかってくるようで、頭を上げられない。」と同じ体験を、1995年ころに受けました。

それは、「皇室には御名が隠されています」と祈ったときでした。

突然神の霊が下り、それ以上言葉を発することができなくなりました。

なぜそのような祈りをしたかというと、同年、明治天皇の孫小林隆利牧師が講演会の中で以下のように言われたのを聞いたからです。

すなわち、「明治天皇は、娘の仁(しのぶ)様に『おまえに男の子が生まれたら、牧師にしなさい。今に役立つときがくるだろう。』と言われた」と。

そして、その後、ある経路で、八咫鏡の裏にヘブル文字で神の御名が記されていると知ったからです。

このような体験はあまりにも明確であり、単なる主観的な現象ではありません。神が突然その場に現れたとしか思えない。荘厳かつ清らかな気配が圧倒するのです。

この後、聖書と日本のつながりについて目が開け、数々の事実が明らかになってきました。

そして、ついに、私の人生の一つの目標「日本とはいかなる国なのかを明らかにすること」を達成する一つの事実に気づきました。

それは、「日本は、真のメシアを王とする南北統一イスラエル王国、つまり、栄光のイスラエルの再興である」ということです。

神はキリストの副官としての「王なる祭司」として、天皇を日本に置かれた。

キリストの主権は永遠なので、皇室の存在も永遠である。日本がなぜこんなに長く、国として存続してきたのか、その理由は「神のイスラエル」だからです。

なぜ共産主義者は皇室の廃絶を狙うのか。彼らは悪魔だからです。

彼らは「本当のイスラエル」を壊して、エルサレムに「偽のイスラエル」を作ろうとしている。

キリストにおいて神殿が再建されたにもかかわらず、彼らは石の神殿を再建しようとしている。ロスチャイルドは、偽メシアを擁立し、神殿に立たせ、ルシファーの世界政府を作ろうとしている。

そのためには契約の箱がどうしても必要。

そのため、彼らは日本を敗戦に導き、無条件降伏をつきつけ、戦勝国アメリカを送り込んで、まっさきに仁徳天皇陵を発掘させた。

日本を守る神道の元締めである八咫烏は、契約の箱のありかを隠すために、何重もの仕掛けを設置した。

あの三種の神器ですら、契約の箱(御船)を隠すための仕掛けである。

伊勢神宮の地下には「御船代」があるが「御船」はない。

八咫烏は、契約の箱を悪魔側に渡さないために、日本人にすらも自分の国の存在理由を隠してきた。

tomi 2021/04/21(水)13:32

DSは紀元1世紀の失敗を繰り返す

紀元70年に世界は一回滅んだ。

どのような世界が滅んだかというと、「世界統一政府」を樹立しようとした世界。

エルサレムを中心とし、ルシファーを神とする世界政府。

また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」(黙示録14・8)

大バビロンは、「すべての国々の民」に「不品行のぶどう酒を飲ませた」。

これはローマではない。

なぜならば、大バビロンは、獣に乗っているからである。

それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。(黙示録17・3)

聖書の象徴において、「姦淫の女」は「神との結婚契約を破ったイスラエル」を示し、「獣」は「神との契約外にいる知恵はないが腕力だけはある異邦人」を示す。

「獣に乗る大バビロン」は「神との契約を破って偶像礼拝に走ったイスラエルが、知恵のない異邦人の腕力を利用して世界を支配する様子」を象徴する。

米軍を利用するネタニヤフのイスラエルも同じ構造である。

知恵を誇る大バビロンだが、神の裁きのときに、その飼っていた獣に食い殺される。

あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。(黙示録17・16)

紀元70年、ローマ軍がエルサレムに入り、神殿を破壊し、多くの民を殺した。

ここにイスラエルは滅亡した。

米軍を利用するイスラエルも同じ運命を辿るだろう。

911のときに、WTCビルが崩壊するのを遠くから喜ぶ中東系の人々が報告されていた。

彼らは、後にイスラエル人であると判明した。

イスラエルは、911を起こして、イラクを占領させ、ナイルからユーフラテスまでの一体を自分の支配下に置き、大イスラエルを建設する計画を実行してきた。

そして、神殿を再建し、そこに契約の箱を置いて、イエスとは異なるメシアを主として選び、世界政府を樹立する。

黙示録において、大バビロンが倒れ、獣が火の池に投げ込まれたように、彼らも滅亡する。

ユダヤ人が影で糸を引くダボス会議、及び、彼らの「全世界をワクチンで縛る計画」も、失敗する。

紀元70年にイエスが再臨されてから、世界はイエスの王国であり、サタンがいかに暴れても、イエスに利用されるだけである。

われわれは、今後、どういう世界になろうとも、信仰によって教会の一員であり、神の家族の中に入っているので、安全である。

波をかぶる舟の中で寝ておられたイエスのように、安心して生活できる。

tomi 2021/04/20(火)20:35

日本の国体はユダヤ系キリスト教である2

アメリカが日本の和平交渉を渋った理由は、明らかにロスチャイルドの「契約の箱」発見にあった。GHQがまず上陸したのが大阪湾で、上陸後すぐに仁徳天皇陵の発掘を開始した。GHQはさらに日本各地にピラミッドを探し、「モーセの墓」があるという石川県の宝達山(ほうだつさん)を登山した。1990年代にロスチャイルドは一族でバスをチャーターして、契約の箱があると噂される剣山を登山した。彼らは、エルサレムに神殿を再建し、そこに契約の箱を置くことを目ざしている。

伊勢神宮の内宮の心御柱(T字型)の地下には「御船代」があるという。これは「契約の箱」のコピーであり、代替物である。本物の「御船」がどこにあるかは秘密である。
日本という国は、この御船をいかに隠すかを中心に機能している。三種の神器ですら御船を隠すためのダミーである。
なぜ隠すのか。
それは、悪魔が偽メシアを立てて、神殿礼拝を復活するのを阻止するためではないか。実際、ロスチャイルドは、エルサレムに神殿を再建し、そこに契約の箱を安置するために、原爆をも使って日本を徹底的に屈服させた。
日本人すらも自分の国の成り立ちを知らない。それくらい八咫烏は、秘密を守ってきた。
内宮の心御柱は「正中」にはない。すこし西北にずれて建てられている。それは真の心御柱が「伊雑宮」にあることを示すためであるという。
https://plaza.rakuten.co.jp/kotoha/diary/200710070000/
本当の御船は伊雑宮にあるのだろうか。

tomi 2021/04/20(火)19:46

日本の国体はユダヤ系キリスト教である

日本とロスチャイルドは究極のライバル。天皇の紋章もロスチャイルドのそれも同じ「獅子と一角獣」である。獅子は南イスラエルを、一角獣は北イスラエルを象徴し、両方がそろった紋章は「統一イスラエル王国」を意味する。紀元1世紀、ユダヤ人は、この統一イスラエル王国の再建を期待し、それを成就するメシアの来臨を期待していた。イエスの弟子たちは、イエスをそのメシアと考え、復活後のイエスに対してこう述べた。「今こそ、イスラエルを再建してくださるのですか?」と。
「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」(使徒の働き1・6)
イエスはそれに対してこう言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使徒の働き1・7) イエスは南北統一イスラエル王国の再興を暗に肯定された。弟子たちは、紀元70年の神殿崩壊後、パレスチナにおけるイスラエルの再興を諦め、東に向かった。東大名誉教授江上波夫氏によると、彼らは紀元2世紀に日本にやってきたという。八咫烏は「十二使徒の末裔」を自称し、今でも神道の総元締めとして、イエスの弟子の組織を維持している。八咫烏は、金鵄(3人)―五龍(5人)―大烏(4人)からなり、五龍の下に1800社から成る秦氏系企業(三井グループ)がある。日本の国体はユダヤ系キリスト教であり、日本は「再興された栄光のイスラエル」である。

tomi 2021/04/20(火)09:06

黄金比の直方体は神の代理統治者を象徴しているのか?2

http://www.millnm.net/img/upload/1618877169image.png

tomi 2021/04/19(月)12:47

われわれは教会に加わることによって神の家族の一員になる

http://www.millnm.net/img/upload/1618804010image.png

tomi 2021/04/18(日)00:28

黄金比の直方体は神の代理統治者を象徴しているのか?

1.

エデンの園は、「地を従えよ」との神の命令を実行するためのスタート地点であった。

園に流れ込む川が、園を潤し、そこから4本の川が流れていた、という記述は、エデンの園が全世界を祝福された土地に変えるためのプロトタイプ(原型)として存在していたことを示す。

なぜならば、聖書において世界は「四本の柱で支えられた家」で象徴され、そのため数字の4は「全世界」を示すからである。

人類の再出発点であった「ノアの箱舟」から類推すると、エデンの園はおそらく黄金比の直方体だっただろう。

ノアの箱舟は黄金比の直方体だった。

http://www.millnm.net/qanda3/13rp7RIW3QS23407.htm

契約の箱も黄金比の直方体だった。

これは、神殿時代、人類のスタート地点として契約の箱が存在していた、ということを暗示しているのではないか。

2.

アララテ山から類推すると、エデン山は三角形のコニーデ型火山だっただろう。

とすると、神と神の副官である人類の元初の関係は、

「三角形」と「黄金比の直方体」

で表されるのではないだろうか。

ピラミッドの「王の間」にある棺のようなものは、黄金比の直方体である。

http://www.millnm.net/img/upload/1618644896image.png

やはりピラミッドは神殿として建設されたと考えられる。

神とその代理統治者(副官)と世界の関係:

http://www.millnm.net/img/upload/1618671749image.png

アダムは神の祝福を世界に拡大するために立てられた神の代理統治者であった。

代理統治者の居住地は、黄金比の直方体で表現される。それゆえ、エデンの園もこの形だったと思われる。

洪水後再出発した人々は、世界に神の祝福を伝えるために、ノアの箱舟から出て行った。ノアの箱舟は代理統治者の象徴である黄金比の直方体であった。

イスラエル民族は、神殿の至聖所から支配される神の祝福を世界に流す務めを帯びていた。

契約の箱は、代理統治者の象徴である黄金比の直方体であった。

紀元70年以降、日本に移動した「イエスをメシアとして迎える真正のイスラエル人たち」は、富士山を第3のエデン山として持ち、エルサレムから持ってきた契約の箱のコピー(御船代)を伊勢神宮内宮に保有している。

おそらく御船代は黄金比の直方体と思われる。

本物の契約の箱はどこか他の場所にあるらしい。

3.

ちなみにある超能力者が「豊受大神はユダヤの神ヤハウェだ」と述べたという。

世界一の超能力者と言われるベラ・コチェフスカさんが、1992年に伊勢神宮を訪れた時に、豊受大神の正体は、ユダヤ民族の神・ヤハウェであると告げています。

その時の様子を、同行したジャーナリストの天野龍一氏が『文藝春秋』に記述しています。

外宮正殿の後方の小高い丘の上には、豊受大神の「荒魂」を祀るとされる多賀宮があるのですが、「神様が私を引っ張っていく」とベラさんは言い、突然急勾配の階段をすごい勢いで登り始めたそうです。

「多賀宮の神前に進み出ると、ベラは感極まったように膝を折り、額ずいて祈った。

するとにわかに神気というか、霊気というのか、ただならぬ気配が一帯にたちこめた。

僕も思わず手を合わせてしまったが、身体に目に見えない圧力がのしかかってくるようで、頭を上げられない。このときの気配というものを的確に表現する言葉を僕は知らない。

それは生れて初めての経験だった。祈りを終えたベラは、顔中を涙で濡らしていた。」

伊勢神宮の外宮に祀られているのはヤハウェ。

https://ameblo.jp/aries-misa/entry-11470057916.html

実は、同じころ、籠神社の宮司である海部氏も同じことを言われた。

tomi 2021/04/17(土)14:50

なぜキリストは十字架につかなければならなかったのか

それでいいのか

ほんとに

履歴書の性別欄「男・女」の選択から任意記載に 性的少数者に配慮 #ldnews

https://twitter.com/nipponichi8/status/1383024212219072516?s=20

バフォメットが表すサタンは両性具有の「単一性絶対主義者」です。

神は三位一神であり、複数性と単一性が究極的に調和しています。

神が複数であるのと同時に単一であるがゆえに、この世界も単一の原理が多様に適用されています。

神は三位おられ、究極的に(どこまで突き詰めても)多様であられますが、契約によって法人を形成し、一人として行動されます。

ここに「契約」とか「約束」「法」が「究極的に」重要である、ということの根拠があります。

神が近親結婚を奨励されないのは、結婚を通じて「契約の重要性」を示しておられるからです。

血がつながっていない二人が「結婚という約束」によって「一心同体」となること。

これは、神ご自身を象徴している。

三位の神は、それぞれ互いに別個の存在であるが、約束によって一人の神として存在される。

それくらい約束は重要なのだと。

神と人間は互いに契約を結んで、「契約的に一体」になったが、人間がその契約を破った。

この契約違反を解消するために、父なる神は子なる神を人として地上に使わして十字架につけ、すべての契約違反の責めを彼に負わせ給うた。

御子を犠牲にするほど神は契約を重視しておられる。

御子を犠牲にせずに人を赦し、「固いこと言わない。なかったことにする」ならば、神ご自身が自分が立てた法や契約を反故にすることになる。

どのような職場でも、規則に反する行為を許す管理者は、秩序破壊者であり、速攻で首になる。

規則違反者を罰することなく許せば、規則を廃止したも同然である。

なぜキリストは十字架につかなければならなかったのか。

それは、神が契約を「究極的に」重視しておられるからである。

tomi 2021/04/16(金)08:53

キリスト教再建運動の目的

1.

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6・1)

もしわれわれが教会(エクレシア)に加わらなければ、われわれにとって「父なる神」は「御父」ではない。

なぜならば、教会は、イエス・キリストの嫁だから。

信仰を告白し、バプテスマを受け、聖餐を受ける人は、教会の一員である。

それゆえ、われわれ一人一人は、キリストの嫁の細胞である。

聖書によれば、夫婦は一心同体なので、イエスが神の三位一体の一員であり、神の社会に所属するならば、われわれもそこに所属している。

それゆえ、われわれにとって御父は「天におられるわれわれの父」なのである。

お嫁さんが、夫の父親を「お父様」と呼ぶように、われわれにとって御父は「父親」である。

お嫁さんにとって夫の父親が「肉親」ではないのと同じように、われわれにとって御父は存在論的には父親ではないが、契約的には父親である。

イエスが弟子たちに「天におられるあなたがたの父」と言われたのは、「御父はわたしにとってだけではなく、あなたがたにとっても父親だ。つまり、あなたがたは神の三位の共同体の中に入っているのだ」と言われたのと同義である。

2.

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。(ヨハネ15・10)

われわれが、神の三位の共同体の中に居続けるには、戒めを守らなければならない。

「行いによって義と認められる」という教えは誤謬である。

しかし、「不法を行っても大丈夫」という教えも誤謬である。

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・23)

教会(エクレシア)に留まる人は、「悔い改めた罪人」だけである。

「神の法を認めます。しかし守れません。イエスの犠牲のゆえに受け入れてください。よろしくお願い申し上げます。」という人は留まることができる。

「私は神の法など関係ないと思っています。これからも神の法を無視して生きていきます。」という人は留まれない。

イエスが神の三位の社会の中に留まることができているのは「御父の命令を守っているから」。

わたしはわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっている

同じように、われわれも、

イエスの戒めを守るなら、イエスの愛にとどまる

では、イエスの戒めとは何か。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15・12-13)

イエスを信じる者が、互いに愛し合うこと、これがイエスの戒めである。

神の法は、愛の法である。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22・36-40)

「人を愛しています」と告白する人が平気で十戒を破るはずがない。

「互いに愛し合え」というイエスの戒めの具体的な内容が、律法なのである。

愛に基づく政府は、国民に10%を越える重税を課すはずがないし、LGBTQを容認するはずもない。

ポリティカル・コレクトネスは、社会をイエスから切り離し、憎しみで満たす悪魔的な思想である。

3.

われわれが推進するキリスト教再建運動は、社会を「神の愛の社会」の中に組み込むための運動である。

イエスの嫁であるエクレシア(クリスチャンの総体)が、聖書に基づいて社会を運営することによって、社会全体を「神の愛の社会」の中に組み込むことを目指す。

戒めを守ることは、愛の社会の中に入る前提である。

われわれは、イエスの尊い犠牲によって「のみ」、神の愛の社会の中に留まり続けることができる。

われわれは、戒めを守れないにもかかわらず、イエスの犠牲によって戒めを守ったことにしていただける。

tomi 2021/04/15(木)14:08

人間から報いを期待すると・・・

礼拝でずっとヨハネの福音書を読んでいてあることに気づいた。

イエスは、栄光と愛を、人間から受けようとは思われなかった。

イエスが、報いを期待したのは、もっぱら御父からであった。

「そうか!これが偶像礼拝をしない人間の姿なのか!」と思った。

イエスは人間の模範であられる。

われわれも、人間に対して栄光や賞賛、愛、報いを期待してはならないのだ。

経験から、人間に何かを期待しはじめると、必ず悪魔が働く。

誰かに頼ると、その頼った相手に悪魔が入る。

借金をすると、貸主に悪魔が入る。

貸主は、借金を通じて、こちらを支配しようとする。

幼少期に親の愛情が欠如していた人は、大人になってその穴埋めをしようと、誰かに愛情を求める。

しかし、そのような人を探しても、愛情を与えてくれる人を見つけるのは難しい。

だいたいの人が自分を「うざい」と感じるだろう。

愛を求めて際限なく旅を続ける人生はむなしい。

解決は、神に求めることである。

神はこちらの訴えを無限に聞いてくださる。

人間ならば普通、3、4回同じ失敗をすると縁を切られるが、神は何度でも赦してくださる。

われわれは、イエスのように、三位の神の社会の中で完結できなければならない。

被造物に依存しない。

被造物に依存すると、偶像礼拝者になる。

近所に、玄関先に「勲〇等〇〇褒章受賞」と書いた紙を掲げている家がある。

普通の人からすれば、誰がどんな勲章をもらったかなど関心がない。

自分が自慢しているものなど他人からすれば「へ〜、すごいね」くらいのものでしかない。

こんな地上で完結するような人生は送りたくない。

神から報いを得られるならば、その報いは永遠に続く。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6・1)

われわれが求めるべきは、もっぱら「天におられるあなたがたの父からの報い」である。