第一の復活と第二の復活



 聖書全体を通じて、復活には2つの種類が存在すると言われています。

 ヨハネ黙示録20・4−6には、第一の復活と第二の復活があると記されています。


     また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。その他の死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。


 2種類の復活は、モーセの律法の中にある「死体に触れることによる汚れからのきよめ」と関係しています。


    どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。その者は、三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。(民数記19・11−12)


 死人と接触して汚れた者は、神の集会に参加することはできませんでした。儀式に関して、彼は死んだ者と見なされました。


    すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。(同19・13)


 それゆえ、神の集会に加わるためには、死者からの復活を経験しなければならなかったのです。復活は、水をふりかけることによって可能でした。


    身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。・・・(同19・19)


 これは、第一の復活と第二の復活を表しています。この二重の復活は聖書全体を通して、登場するパターンです。


    ・・・わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。「今が」その時です。そして、聞く者は生きるのです。・・・

    このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。(ヨハネ5・24−25、28−29)  


 イエスは、ここで、「復活の時代」の始まりを示しておられます。イエスを信じる者は「今」復活するのです。聖書の中で、クリスチャンは、復活した民であると繰り返して語られています(エペソ2・6、コロサイ2・12)。

 第一の復活は、クリスチャンがイエス・キリストの「ことばを聞いて」、彼を「遣わした方を信じる」時に実現します。

 第二の復活は、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時」に実現します。すべての人々が−−善人も悪人も−−墓から出てくるのです(ヨハネ11・24−25)。

 パウロは、この2つの復活の違いについて説明しています。


    しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされているからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず、初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。(第1コリント15・20−23)


 キリストが再臨される時に、第2の復活がありますが、その前に、初穂であるキリストの復活があるのです。クリスチャンは、この第1の復活にあずかる者です。ヨハネ黙示録20・6では、「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」と言われています。

 「第一の復活において、クリスチャンが復活した」という時に、それは、文字どおりの肉体の復活を意味しません。第一の復活は、「キリストにあずかる」復活です。つまり、クリスチャンは、キリストが肉体的復活をした、その初穂としての復活に「参加している」のです。クリスチャンは、信仰によってキリストと一体であり(第1コリント12・27)、キリストが復活したことは、クリスチャンも復活したことと見なされるのです。

 クリスチャンは、バプテスマによって、第一の復活にあずかり、新しい人となったのです(ローマ6・4)。クリスチャンは、「罪に死に、そして、キリストのゆえに義に生きた者」(ローマ6・11)となりました。そして、キリストと共に、現在「天にい」(エペソ2・6)て支配しているのです(*)。

 キリストの復活は、三日目の復活です。つまり、七日間の真ん中において復活されました。キリストは、歴史の中間点において復活され、七日目、つまり、歴史の終わりに、第二の復活があります。その時に、クリスチャンは、朽ちることのない永遠の肉体を与えられるのです。


   もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8・11)


 第一の復活は、部分的・霊的復活であり、第二の復活は、完全的復活です。


  (*)教会(エクレシア)は、キリストの体であり、それゆえ、キリストと運命を共にしているのです。人間でも、頭だけが独立して機能している人はいません。頭だけが、苦しんで、体は苦しまない、ということはありません。キリストが、復活したのであれば、教会も復活しているのです。キリストが昇天して、神の右の座についているのであれば、教会も神の右の座についているのです。キリストが、「あらゆる支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれている」(エペソ1・21)のであれば、教会も同じように万物の支配者となったのです。

 第一の復活にあずかる教会は、「わたしが戻ってくるまで、商売しなさい。」と命令されています(ルカ19・13)。この「商売しなさい」という言葉は、キング・ジェームズ訳では「占領しなさい。」と訳されています。教会は、キリストと共に支配者として、全世界にその支配を拡大する使命が与えられたのです。

 キリストは、天に昇られ、神の右の座に着いておられますが、それは、神の敵が征服される時までです。


 「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」(使徒2・34−35)

 「キリストは、・・・神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(ヘブル10・13)


 教会が神の福音を宣べ伝えることによって、徐々にサタンは征服され、キリストの足台となります。

 全世界が福音化され、サタンが完全にキリストの足台となった時点で、キリストは再臨されるのです。再臨のキリストは人類の最後の抵抗軍(ゴグ・マゴグ)を自ら滅ぼされ、竜退治の仕上げを行われます。


 万物は福音の進展につれて回復されていきます。そして、回復が完全になったときに、イエスは再臨され、それを父なる神に献上され、永遠の世界が始まります。

 「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシアと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・20−21)




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