カルケドン・レポート翻訳


 


豊かな生活


R・J・ラッシュドゥーニー


 長い間、世界中の人々は「豊かな生活」を追い求めてきました。今世紀になって、この目標は民主化・大衆化され、現在では数え切れないほど多くの人々が「豊かな生活」を人間の当然の権利と考えています。

 マルキストであれ民主主義者であれ、今日誰もが「豊かな生活とは経済的な豊かさである」と考えています。彼らは「何人も欠乏やその他の様々な問題から解放される『権利』がある」と言います。かつては、「経済的な豊かさは勤勉と倹約によってもたらされる」と信じられていましたが、今ではそれは人間の性格とは切り離されて考えられています。豊かな生活は「人間の当然の権利」であり、国家はこれを保証すべきだというのです。国家は国民に豊かな生活を保証するために努力を重ねてきました。それは権力への最短の道でしたが、現在では、急速に近づきつつある最終的財政破綻の元凶となっています。

 かつて、このような要求は、ヨーロッパや北米の世論の特徴でしたが、今日ではアジアやアフリカ、中南米その他あらゆる地域で聞かれるようになりました。「国家は、[勤勉な]性格と労働によってしか生み出すことのできないものを、いつでも提供することができる」との幻想は、世界中に蔓延したのです。

 「『豊かな生活』の保証というこの経済的『幻想』の促進係は国家である」と考えられてきました。現代の国家は、もはや正義ではなく、豊かな生活と経済的保証を提供しています。その過程で、国家は自らの経済を破壊し、国民の勤勉な性格をも破壊してきました。政治的・経済的手段によって豊かな生活を実現しようとする試みは、愚者の夢にすぎません。しかし、今日、「あなたもすぐに金持ちになれる」との誘いに易々と引っかかり、多額のお金を巻き上げられる人々のように、彼らは「豊かな生活は政治家の一存で手に入れることができる」と容易に信じてしまうのです。

 人々はだまされることを切望しています。なぜならば、人間は罪人であり、「自分は自分の神であり、何が善で何が悪であるかを自分で決めることができる」(創世記三・五)という妄想の上に人生を築き上げているからです。大きな妄想から出発した人は、すぐに小さな妄想の犠牲になります。箴言が愚か者についてあのように多く語っていたとしても不思議ではありません。

 だまされないためには、どうしたらよいのでしょうか。まず「自分は愚か者であり、神の御言葉と御恵みなしでは、すぐに迷い出てしまう者である」と謙虚に認めることです。謙虚さを失うと、私たちはすぐにだまされます。

 罪は私たちを飽くなき欲望の奴隷にしてしまいます。自分の富に満足し、「これ以上土地も他の財産もいらない」といって満足しきっている人の話をほどんど聞いたことがありません。人間は「もっと欲しい、もっと欲しい」と求め続けるものです。

 主を無視したままで豊かな生活を追い求めている限り、人は恐らく自分の生活に満足することはありません。五十年前にネバダ州に住んでいた頃、ある大きなカジノ場の経営者が私にこう言いました。「これまで、勝ったままでゲームを切り上げたギャンブラーを一人しか知りません。彼は勝っている途中で酔いつぶれて意識を失ったのです」。実際は勝ち越して帰っていった人はいるのでしょうが、この経営者の話は本質をついています。飽くことなき欲望は人を、負けるまでギャンブルにのめり込ませるのです。彼らが望む「豊かな生活」は、彼らを大きな悲惨に陥れました。

 自分にとって、豊かな生活とはどのような生活でしょうか。この質問は、自らの真の姿を照らし出してくれます。豊かな生活を定義することは、大ていの人にとって、自分の欲望を絶えず広げていくための精神的練習になります。私たちは、約束の地ではなく、エジプトの肉なべを求めるのです。

 ヨハネ十四章六節において、イエスはトマスに向かって次のように言われました。「私が道であり、真理であり、生命なのです。私によらなければだれも父のみもとに行くことはできません」。もしこの言葉が真理であるならば、世界全体は今、豊かではない生活を選択していることになります。また、あまりにも多くの人々が豊かではない生活を望んでおり、しかも、教会に通うクリスチャンも豊かではない生活を神の祝福とともに求めているのです!彼らは、信仰があれば神の律法と裁きから逃れることができると信じています。

 豊かな生活は禁欲主義の生活ではありません。豊かな生活とは、神の国と神の義を第一に求めること(マタイ六・三三)です。それは、照準を自分自身ではなく、神の御国の実現に合わせることなのです。

 かつてパリサイ人は照準を他のものに合わせました。現代のパリサイ人も同様です。彼らは照準を自分の救いに合わせています。彼らは、自分の救いを第一に求め、その他のことにはほとんど関心を示しません。つまり、本来キリストと御国が位置すべき場所に自我が座っているのです。これは重大な罪です。

 自分の救いを福音の核心に据えると、価値観はすべて狂ってきます!回心するということは、新しい被造物−最後のアダムにつく新人類の一員(第二コリント五・十七、第一コリント十九・四五−四七)−に生まれ変わることを意味します。私たちは、キリストにつく新人類の一員として、「万物をキリストの王権の下に支配せよ」(創世記一・二六−二八)とのアダムに与えられた使命を自分の使命とするのです。

 私たちには、キリストのために世界を征服するという偉大な任務が与えられています。豊かな生活とは、この召命に従ってキリストの内に生きる生活なのです。「神は海から海へ、川から地の四隅に至るまで支配されるだろう」(詩篇七二・八)。豊かな生活への召命とは、この偉大にして確実な御国のために働き、そのために祈ることなのです。

(R.J.Rushdoony, The Good Life, "Chalcedon Report" No.345, April 1994, pp.49-50. の翻訳。


This article was translated by the permission of CHALCEDON.


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