聖書律法綱要

 




第7戒


血の泉を暴くこと




 今日の教会はあまりにも上品になりすぎて、多くの律法について考察することができなくなっている。このよい例は、生理中の女性や、出産後まだ十分に回復していない女性との性交に関する律法である。

 女性が生理中であることを知らずに関係してしまった場合、人は儀式的な汚れを身に帯ぶ。その人は、聖めの儀式を行えばよく、道徳的な罰を受けることはない(レビ15・24)。しかし、そのような女性と故意に関係を結んだ場合には、重大な罪と見なされる。


 月のさわりの汚れのために隔離されている女に近づいて、彼女と寝てはならない(レビ18・19)。
 月のさわりのある女と寝て、彼女の裸をさらすならば、男は彼女の血の泉を暴き、女はその血の泉を現した。彼らは二人とも民の間から断たれる(レビ20・18)。


 「民の間から」断つという表現は、死刑を意味すると解釈する人もいるが、ほとんどの人は、除名を意味すると考えている。これが重大な罪であることは明らかである。それは「土地に吐き気を催させ」、「自然をむかつかせる」罪のうちの一つに数えられている。1

これは神に対する罪であったが、それだけではない。この行為によって、土地は、民族を吐き出すようになる(レビ20・22)。「彼女の血の泉を暴く」ことによって、男性は「彼女の生命の泉を現した」。2 そのため、男も女も有罪となる。

 エゼキエルは、この罪について言及しており、この問題に光を投げかけている。


   もし、正しい者なら、その人は公義と正義とを行ない、丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、さわりのある女に近寄らず、だれをもしたげず、質物を返し、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行なおう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。−−神である主の御告げ。−−(エゼキエル18・5−9)


 この箇所から二つのことが明らかである。第一、レビ記もエゼキエル書も、生理中の女性(出産後まだ回復が十分ではない女性)との性交を、深刻かつ「攻撃的な」行為の中に含めている。第二、これは「土地を汚す」行為とされている。エリクソンはこれに対して非常に的を射た論評を加えている。


 実際、現代人が一般に思い描いている個人についての概念は、聖書からというよりもギリシャ思想に由来しており、したがって反聖書的であると考えることができる。我々は、肉体が人に個性を与え、人を他の人から区別する基準であると考えがちである。旧約聖書は、人を他の人と結びつけている絆は肉体(身体に相当する言葉はヘブライ語にはほとんど見あたらない)であり、人に個性を与えているのは我々の個人的な責任である、と教えている。

人(’adam)は、自らが取り出された土地(’adamah)と結ばれており、それを通じて、同じ大地の上に住むすべての人々と結ばれている。それゆえ、人が何らかの行動を起こす時に、その行動は、他の一切のものに影響を与えずにはおれない。忌むべきことを行う時に、人は「地に罪を犯させ」(申命記24・4、参照・エレミヤ3・1、9)ている。

それゆえに、旧約聖書において、干ばつや疫病、地震等が、悪に対する自然的刑罰として下されている(参照・詩篇107・33)。汚れた土地に住む人は、その汚れに染まらざるを得ない。追放がなぜ恐ろしい刑罰であったかと言えば、それは主に、追放先の土地がエホバの支配外にある領域だったから(この見解を取る人々はごくまれであろう)ではなく、それが汚れた土地であったからである(アモス7・17)。3


 律法の細部を見ると、まず、生理中の女性との性交は七日間禁じられている(レビ15・19)。生理に関係する病気に罹患している場合は、完治するまで性交は禁止されている(レビ15・25)。次に、男子が誕生した場合、禁欲期間は四〇日続くが、女子の誕生の場合は、八日である。

 この罪の特質については、すでに二つのものを挙げた。すなわち、(1)「攻撃性」と(2)「土地の汚染」である。さらに、もう一つ挙げるならば、それは「邪悪さ」である。この特質は、エゼキエル22章10節において明らかにされている。それは継母との性交と関連しており、女性に対する「侮蔑的行為」であるとエゼキエルは述べている。

この性交には、しばしば邪悪な行為が伴う。筆者は、牧会経験の中でこのような事例を数多く確認してきた。妻は、生理中の性交に対して良心のとがめを感じている。また、その醜さをも嫌悪している。しかし、邪悪な人々は、このような妻に行為を強制することによって快感を味わう。また、逆に、倫理的・美的に嫌悪感を覚えている夫を行為に引き込むことによって快感を味わう妻たちもいる。彼らは、パートナーに対して罪を犯し、さらに、神に対して罪を犯すことに喜びを覚える。こういった人々だけがこのような行為に惹きつけられる。

 レビ記20章19節に戻れば、そこで、男性の罪は「男は彼女の泉をさらした」という表現の中に示されている。同様に、女性の罪は「彼女は自分の血の泉をさらした」(BV)という表現の中で示されている。「泉」という言葉には重要な意味が込められている。自然において、「泉」とは文字どおり、新鮮な水を湧出する天然の源を意味する。ヘブル語では、「泉」と「目」は同じ言葉である。聖書において、これは神を象徴する言葉として用いられており(詩篇36・9、エレミヤ17・13)、詩篇87章7節では神は「恵みの源」であるとされている。

多くの箇所において、この言葉は、神やキリストを表すのに用いられている。「泉」は、イスラエルが偉大な民族の父であることを示すために利用されている(申命記33・28)。また、よい妻(箴言5・18)や霊的な知恵(箴言16・22、18・4)も「泉」と呼ばれている。レビ記20章18節では、文字どおりの意味と象徴的な意味が絵画的に表現されている。

この意味を理解するには、「泉とは水源、つまり、新鮮な水が湧出する場所である」ということを覚えなければならない。これは、女性の排卵と明らかに関係している。同じく明らかなのは、この言葉には、刑罰の厳しさにとって基本的な要素となるある象徴的な意味が付加されているということである。

 この意味を探るために、問題を法的に説明しなければならない。男性が女性の泉を暴くことは禁じられている。女性も自分の泉を暴くことは禁じられている。この律法によって、女性は、周期的にある一定期間、男性の手から引き離された。女性も、自分の体を男性に無制限に委ねる権利を持ち合わせていなかった。

 人間は神の被造物であり、神は生命の根源である。人間はいかなる領域においても、越権的行動を取ってはならない。なぜならば、神の律法は、生活のどの分野をも拘束し、規定しているからである。いかなる領域も、神にあって、明らかにされ、覆いを取り外される。人間の主権は、神の下にある。それゆえ、人間はいかなる人に対しても、また、いかなる物に対しても、無条件の主権を行使することはできない。あらゆる物事には、人間が侵すことのできない私的な領域が存在する。物事や人々のうちに存在する公的な領域については、神の律法がすべてをカバーしている。

 したがって、いかなる男性も、女性を自分の被造物にしてはならないし、いかなる女性も、自分を男性の被造物にしてはならない。すべての男女は、自分の夫や妻、両親、子ども、雇用主、従業員、隣人に対して、神の律法が定める愛と奉仕の義務を果たさなければならない。しかし、他人の私的領域については、そこに立ち入ることは禁止されている。

われわれの泉は神のうちにある。神だけが、われわれについて無限の知識を持つことができるし、われわれを無限に支配する権利をお持ちである。もし人間がそのような権利を主張するならば、その人は神に対して攻撃を仕掛けている。たとえ、われわれが自分の妻や夫、子ども、親、友人をどんなに深く愛していようとも、彼らと無制限の関係を結んだり、彼らの私的な領域に踏み込んだり、自分の私的な領域を無制限に開放することはできない。

 同じように、国家も、国民について完全な知識を得る権利を持っていないし、国民のプライバシーに立ち入ることはできない。国家は、国民に対して法に服従することを求めることはできるが、それ以上のことを求めることはできない。いかなる人間も、いかなる国家も、自分の意のままに人々を操る権利を主張できない。

 しかし、神の法によって人と接するのではなく、我意によって人を利用しようとする態度は、悪者に共通する特徴である。三十年戦争において、両軍は町や村や農場を完膚なきまでに破壊した。当時の様子を示す版画には、この戦争の戦慄すべき状況が描かれている。兵士たちは農夫の性器を切り取り、彼らを逆さ吊りにして火であぶった。また、列をなして農夫たちの妻を強姦した。人々の邪悪な想像力や活動をとどめるものは何一つなかった。

ルイ十四世は、ユグノーを取り扱う際に大きな罪を犯した。彼らを殉教死させると、彼らに信仰の勇者に祭り上げられる機会を与えることになるので、新しい策に出た。もっとも質の悪い兵隊たちをユグノーの家庭に泊めさせ、女たちを強姦させたのだ。

 ナポレオンはこれよりも良識があった。同時代人マルキ・ド・ボンネヴァルは、彼について次のように伝えている。


 近衛軍医長ムートンは、リヒテンシュタイン王妃の随行員として宿泊していた。

ムートンは、王妃に手紙を書き、宿泊施設について不満があると伝えた。言葉づかいは軍隊調で、まったく洗練されていなかった。態度は実に横柄であり、猥褻と形容できるほどの下劣な言葉が並べ立てられていた。

この手紙はヌーシャテルの王子の手に渡り、彼はそれを皇帝のもとに届けた。ナポレオンは激怒し、その怒りはとどまる所を知らなかった。彼は、ヌーシャテルの王子に、その罪人を翌日の会見の席に出席させ、四人の憲兵に脇を固めるよう命令した。

ションブルンの中庭は、フォンテーンブローのそれよりもはるかに大きく、宮殿の前には同じ様な二つの階段があった。

近衛兵たちはすでにこの中庭に集合していた。被告は四人の憲兵に連行されて入ってきた。

ナポレオンが一枚の紙を持って外階段に姿を現した。いつもは四段を一気に駆け下りるのだが、この時はゆっくりと歩を確かめながら降りてきた。後ろにあでやかな出で立ちの参謀たちが従っていた。皇帝の手にはなおもあの恐ろしい紙が握られていた。

歩調を整えつつ、ゆっくりと被告に近づくと突然、被告に飛びかかって言った。

「この汚らわしい文書に署名したのはおまえか?」

その哀れな男は、首を縦に振った。

ナポレオンは、響きわたる声でこう宣言した。

「皆さん。ぜひこのことをご理解いただきたい。私は人を殺しはするが、けっして辱めることはしない。この者を銃殺せよ!」

この不運な医者はさらし者として引き回されたが、結果としてドルセン将軍の取りはからいで銃殺を免れたのであった。4


 聖書は、「夫にも妻にも、律法の規定を越えて相手を利用する権威は与えられていない」と断言している。夫婦関係は、愛の関係である。とすれば、神しか踏み込むことのできない人間の私的領域に、あかの他人が踏み込むことはなおさら許されない。夫は、律法の規定を越えて妻を「愛する」ことはできない。また、妻も律法の規定を越えて自分を夫に与えることもできない。他のいかなる人や組織も、生命の泉を侵してはならない。それを行う者は地を汚し、自らに裁きを招く。



1. John Peter Lange, Commentary on the Holy Scriptures: Leviticus (Grand Rapids: Zondervan), p. 155.
2. Ibid., p. 156.
3. H. L. Ellison, Ezekiel: The Man and His Message (Grand Rapids: Eerdmans, 1956), p. 72.
4. Jean Savant, Napoleon in His Time (New York: Thomas Nelson & Sons, 1958), p. 223.



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