聖書律法綱要

 




第2戒


戦争としての法




 礼拝は、イスラエルに与えられた神の命令であり、聖書律法には礼拝に関する細則が詳しく記されている。律法の概念や原則について述べているものを別として、これらの細則について解説することは本書の関心ではない。

 第一、その中で重要なのは、大祭司が身につけていたエポデと胸当ての規定である。出エジプト記28章6−14節は、祭司の衣服であるエポデを扱い、出エジプト記28章15−30節は胸当てを扱っている。これらの箇所には共通の特徴がある。すなわち、エポデの肩の部分には、イスラエルの部族の名前が彫り込まれた2つの石が付けられており、大祭司はこれらの石を帯びて主の御前に進み出た(出エジプト28・12)。胸当てには、それぞれに部族の名前が書き込まれた12個の石が埋め込まれていた(出エジプト28・21、29)。

これらの石には、宗教上及び法律上、非常に重要な意味がある。大祭司は、祭壇や王座に近づく時に、神の御前で契約の民を代表していた。大祭司は主に、神の民のために祈った。法的に見て、契約の民を象徴する石は、「神の統治の主目的は、神の御心を実現することにある。」という事実を指し示している。神が契約の民を治められたのも、これらの御目的を達成するためだった。

大祭司が神に対して果たすべき主要な職務は、契約の民をとりなすことであった。大祭司は目的の定まらないような祈り方はしない。彼の主要な召しは、神の民のために祈ることである。エポデと胸当てが明らかにしているように、神の民の主要な使命は、神的秩序を形成することにあった。

 神の律法は、不公平でもあり、また、公平でもある。一般的な意味において、神の法は「公平」である。太陽は善人の上にも悪人の上にも昇る。雨は正しい者の上にも正しくない者の上にも降ります(マタイ5・45)。さらに、国民統治という点で、律法の保護と統治は、万人に適用される。つまり、「イスラエル人」にも、「在留異国人」・外国人にも等しく適用される(出エジプト12・49、レビ24・22、民数9・14、15・15、16、29)。万人に「同一の法」を適用することは、聖書律法の基本原則である。

 その一方で、聖書律法は、明らかに「不公平」である。神は契約の民の敵を打ち負かすために歴史に「介入」される。聖書には、このような事例がきわめて頻繁に登場する。天候や病気が用いられることがある。エジプトに対する疫病をはじめとして、神は様々な手段を用いて敵を打倒される。さらに、イスラエルに与えられた律法は、秩序や、神の法秩序、及び、その秩序の中にいる人々を守る。この意味で、神の法は不公平である。偶像礼拝が禁じられている。法秩序を破壊する者は罰せられる。あらゆる点において、神の法は、神の秩序と、神の法秩序の中にいる人々を保護する。

完全な寛容という現代人の考えは、正しい法的原理ではなく、無政府状態の主張である。あらゆる宗教は許容されるべきなのだろうか。すでに見たように、あらゆる宗教は法秩序の概念である。完全な寛容は、「あらゆる種類の行動を完全に許容すること」を意味する。すなわち、完全な寛容が実現すれば、偶像礼拝、姦淫、人肉食い、人身御供、倒錯、その他あらゆる行為が認められることになる。完全な寛容は不可能であり、また、望ましいものでもない。

エポデと胸当ての上にのっている石は、不公平の原則を指し示している。祈りや、法に関して、不公平の原則に従って行動することは、悪でも自己中心でもなく、むしろ、まったく神の御心にかなったことである。確かに、他の人々のために祈ることは神の御心に適っているが、自分の家族や、自分の生活上の必要を全く無視することはできないそのような人は、不信者や異教徒よりも悪い(第1テモテ5・8)。自らを守ることができない法秩序は、邪悪で、自殺的である。法秩序の転覆を許容することは、それ自身、破壊的な活動である。

 第二の原則が、別の判例法、申命記23章18節「どんな誓願のためでも、遊女のもうけや、犬の稼ぎをあなたの神、主の家に持っていってはならない。これらはいずれもあなたの神、主の忌み嫌われるものだからである。」において明らかにされている。また、その前の節23章17節ではこう言われている。「イスラエルの娘たちの中で、遊女になるものがあってはならない。また、イスラエルの息子たちの中から、男娼となるものがあってはならない。」(レビ19・29) 申命記23章17節の「遊女」という言葉には、欄外に「すなわち、女性の同性愛者」という注がある。レビ記19章29節においてすでに売春が禁止されているので、この箇所は、女性の同性愛を禁止していると思われる。同性愛の禁止規定は、レビ記18章22節と20章13節に記されている。申命記23章17、18節は、豊穣宗教の一部として行われていた神殿売春について述べている。これは、後の時代にイスラエルにおいても行われた(第1列王14・24、15・12、第2列王23・7、アモス2・7。これはイスラエルの背教の例として挙げられている。エレミヤ3・2、6、8・9、13)

聖書において、男性の同性愛者は「犬」という侮蔑的な言葉で呼ばれていることに注意すべきである。しかし、この律法の主眼は、「遊女や男娼の宗教的な動機そのものが神によって軽蔑されている。」ということにある。彼らの稼ぎを神のもとに持ってきても、神はそれを受け取ろうとはなさいない。受け入れが拒否されているのは、罪人ではなく、罪深い行為から得られた利益である。これは重要なポイントである。われわれは、このような捧げ物を、教会だけの問題として考えることに慣れている。しかし、「誓願」という言葉は、宗教的な判例法を提示している。誓願は、特別な聖潔を前提としている。しかし、誓願や誓いが「異質な」法秩序を前提としている場合は、その誓いは神に受け入れられず、「忌み嫌うべきもの」となる。そのような誓願をする人には、法の前にいかなる立場も与えられず、彼らは神の御前に立つことはできない誓約をした遊女やホモセクシュアルは、法の前において単なる罪人であるだけではなく、それ以上に、アウトロー(=法の外にいる人々)である。

「法の下での罪人」と「法の敵」とは、まったく異質[な概念]であり、それゆえ、法の敵が納めた税金や捧げ物は、「何一つ」受け入れられない。罪人には、供え物を捧げる「義務」があるが、法の外にいる人々には、供え物を捧げる「資格がない」。第1列王3章16−28節の、2人の遊女は、ソロモンの法廷に上訴することを許されていた。この例からも明らかなように、アウトローも法の下で公正に取り扱われる権利があった。それは、すべての人に「同一の法」が適用されたためである。アウトローは、公正に取り扱われたが、公民権は与えられ「なかった」。

犯罪に税金をかけることは、その合法性を認めることになり、犯罪者に、法を経済的に支える立場を与えることになる。もし犯罪者にこのような法的な立場を許せば、次は、法の保護を平等に受ける権利をも与えなければならなくなる。これは、訴追免除を意味する。聖書律法の影響によって、今日ほとんどの国において、犯罪者は公民権を失いる。有罪の宣告を受けた人々には、法的な立場は一切与えられない。今日、このような法律には[改悪の]圧力がかけられ、すべての人が徴税の対象となっている。・・・申命記23章17、18節には、排他的な公民権[授与]のための法的根拠が提供されている。

聖書において、売春婦に与えられている一般的な呼び名は、「見知らぬ人」または「見知らぬ女」=外国人である。これは重要な事実である。契約の民にとって、売春は異国の習慣であった。しかしそれだけではない。イスラエルの少女が売春を行うと、彼女は「冒涜者」(レビ19・19)と呼ばれ、神殿に入ることを許されず、市民の身分を奪われた。つまり、外国人として扱われた。同性愛者も、法の外に置かれた。売春婦の場合、「見知らぬ女」(箴言2・16、5・3、20、6・24、7・5、23・27、33、27・13)と呼ばれ、言葉の上ではすくなくとも人間として扱われていたが、同性愛者の場合は「犬」と呼ばれ(申命23・18、黙示22・15)、人間とは見なされていない。ローマ1章27節のギリシャ語本文が明らかにしているように、同性愛者は背信の炎によって「燃え尽きた」後に残る燃え滓である。

 一般に、法律がアウトローや異議者を取り扱う方法には3つの種類がある。アウトローと異議者は、どちらも法に対して反抗しているが、両者の間には大きな違いがある。第一は、「中世」の教会が採用した方法である。[中世において]異端者は法律上の権利を失いた。コンスタンス会議において、ジョン・フスは、異端者の烙印を押され、それまで保障されていた身体上の安全を失いた。フスの保護者であったジギスムントも、自分の身が危険にさらされるに及んで、彼を守る誓いを撤回した。「異端者を守る者は、その者自身が異端者であ」1 るとされたからである。

これによって、体制の圧力から[被疑者]を法的に擁護することが困難になった。一般に、「法律は社会を異端から守る」と信じられていたが、実際は、自らが異端となっていた体制側が、告発するだけで、批判する人々をすべて封じ込めることが可能だった。嫌疑が権利を破壊した。有罪証明がなくても、嫌疑だけで人を有罪にすることができた。

 法律がアウトローや異議者を扱う第2の方法は、合衆国をはじめとする現代の自由主義国家によって採用されている。犯罪者の公民権を否定する法律に対しては、直接的な攻撃が加えられてきた。犯罪者の権利を回復し、彼らを厚遇することによって、間接的な攻撃も加えられてきた。犯罪者をこのように扱うことによって、その法律は実質的に無効になる。合衆国最高裁は、被害者よりも「加害者」を優遇することによって、名誉毀損と中傷に関する法律を事実上、無効にした。法律上の空虚な技術を駆使することによって、強姦や殺人を自白した者たちが釈放されている。明らかに加害者寄りの判決が下されている。

今日の法廷や「法」について、ガードナーは次のように述べている。「個人は、犯罪を犯す時にはじめて、その権利を守られる。」2 多くの州の法律では、ある特定の犯罪に対して死刑が認められているし、死刑が「命令」されている場合もある。しかし、合衆国最高裁は次のように宣言した。「死刑に対して良心の呵責もしくは宗教上の疑念を抱く人々が自動的に除外された陪審によって死刑宣告が下されてはならない。」と。3 換言すれば、法廷は、「法律の妥当性を『否定する』人々は、その法律を施行するように求められるべきである。」と命令した!もちろん、これは、死刑に対する明らかな攻撃であり、実質的に死刑廃止の宣言である。被告の無罪性について法定から疑義が差し挟まれたことはなかった。つまり、誰もが、被告が有罪であることを認めていた。しかし、法廷は、またもや、法や遵法者よりも、犯罪者や異議者の権利を尊重する判決を下した。

 法律がアウトローや異議者を扱う第3の方法は、聖書的な方法である。「この法は、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。」(出エジプト12・49)法はだれをも偏り見ず、万人を公平に扱わなければならない。有罪が証明されるまで、訴えられた人は無罪である。訴えが証明されるには2人の証言が必要です(民数35・30、申命17・6)。ソロモン裁判において、あの2人の遊女たちは、最後にソロモンの所まで上訴することができた(第1列王3・16−28)。しかし、上訴の権利が与えられたからといって、彼らに公民権が与えられていたわけではない。イスラエル人の血を引いているにせよ、異国人として生まれたにせよ、その2人の女性は法律上外国人として扱われ、公民権は与えられなかった。彼らは捧げ物を捧げることはできなかった。至聖所は神の王座のある場所であった。それゆえ、その王座への誓約が拒まれるということは、公民権が与えられていなかったことを意味している。その人は、国家の一員としての法的な立場を与えられていないので、税金を免除されていた。

 レビ記4章の犠牲のレベルや重要度から判断すると、「責任が大きくなればなるほど、罪の重さも増す。」という原則が強調されていることが分かる。さらにそこでは、「無責任な犯罪行為は、権利の喪失を招く。」ということも明らかにされている。法の中にいない人間は、アウトローである。法秩序が提供する諸々の権利を享受できるのは、その法秩序の中に生きる人々だけである。[公民としての]権利[を持つ者]は諸々の権利を享有する。それゆえ、法律の正当な手続きと、市民的特権との間には、明確な違いがある。

 これまで、第一、胸当てとエポデに関する規定を通して、法の不公平性と公平性について見てきた。第二、無責任な犯罪行為は、権利の喪失を招くという事実にも目を向けた。さて、ここで、第三、問題の核心部分に触れることになる。すなわち、「法とは、戦争の一形態であり、事実、戦争の主要かつ継続的な形態である」という事実について述べたいと思いる。第二戒は、礼拝における像の使用を禁じている。像を利用した礼拝形態はことごとく「廃止」されなければならない。「あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。」(出エジプト23・24)

申命記12章1−14節において、二種類の服従の方法が対照的に描かれている。すなわち、服従しようとする者は、(1)偶像礼拝が行われるあらゆる場所を破壊し、(2)定められた方法と定められた場所において、神に捧げ物を携えなければならない。偶像礼拝の場所と像を破壊せよとの命令は、申命記7章5節、16章21、22節、民数記33章52節、出エジプト記34章13、14節にも記されている。しかし、いくつかの箇所では、像を破壊するには、その像を所有する民をも破壊しなければならないと述べられている(申命7・1−5)。カナン人と契約を結んだり、結婚することは許されなかった。神の命令によって、カナン人は、死[の祭壇]に「奉献」された。彼らは、殺されるためにより分けられ、「聖め」られた。これは十分な注意を向けるべき重要なポイントである。

律法は、エジプト人や他の異国人に対して報復することを禁止している。復讐するのではなく、エジプトにおいて抑圧されたことを記憶に留め、それをバネにして、神が命じられたあらゆる掟を守り、さらに献身の姿勢を強めることが命じられている(レビ19・33−37)。「異国の民から不当な扱いを受けたのだから、自分たちは[在留異国人に対して]そのようなことをすべきではない。けっしてエジプト人のまねをしたり、不正を働くべきではない。」と考えよ、と言われている。エジプトは、すべてのヘブライ人を抹殺しようとした(出エジプト1・15−22)。しかし、イスラエルは、律法に個人的忠誠を尽くすことによって、すべてのエジプト人を正しく取り扱わなければならない。

しかし、カナン人は、聖絶されなければならない。それは、彼らがイスラエルに対して敵対していたからではない。基準はあくまでも神の律法である。カナン人と同じように、エジプト人も神に敵対していた。しかし、カナン人の場合、彼らの不義は「満ち」ており、その悪は極限にまで達していた(創世15・16、レビ18・24−28等)。売春や同性愛が宗教行事化し、堕落は揺るぎないものとなっていた。人々は、そのような行為に誇りさえ感じていた。彼らの咎は「満ち」た。

神は彼らに死刑を宣告され、イスラエルを死刑執行人とお定めになった。さて、この事実は繰り返し「聖書は不道徳な神を表し、醜悪な道徳を教える。」ことの証拠として取り上げられてきた。このような訴えは、[訴えた人々の]憎悪を示しているのであって、知性の表れではない。個人や民族が突然歴史からたびたび姿を消すことがあると、これは、当の個人や民族に対する、歴史や弁証的唯物論、進化、または他の神々による ある種の「審判」を明らかに示している、と彼らは言った。歴史家は、繰り返しこのような審判を証言し、それに賛意を表する。

カナン人の裁きが彼らの癇にさわるのは、神の裁きの「基準」が彼らの意に沿わないからである。もし、神がカナン人を非難し、彼らに裁きを下した理由が、彼らの残酷さとか、その資本家的抑圧の性質にあったならば、多くの知識人たちは、神の宣告に対して心からの賛辞を送ったことだろう。しかし、神は神であられ、知識人ではない。結局、神の基準が勝利を得る。人間のそれではない。カナン人は総じて死に値する状態にあった。アブラハムの時代からヨシュアの時代まで、数百年間、神は彼らの生存をお許しになった。しかし、ついに処刑の宣告が下された。イスラエルは彼らを[完全に]処刑することに失敗したが、そのことは、結局、彼ら自身に裁きをもたらした。

 カナンに対する死刑宣告は、戦争の事実を端的に示している。戦争は限定的な目的のために行う場合もあれば、相手を死に至らしめるために行う場合もある。戦いの性質が、このことを要求する場合もある。数百年前まで、根元的な原理をめぐる戦争はなく、戦いはいずれも地域的な紛争にとどまっていた。戦闘は範囲においても規模においても限定されたものであった。しかし、フランス革命において、西洋世界に革命が登場すると同時に、全面戦争が現実のものとなった。戦争は互いに相容れることのできない原理をめぐって、死に至るまで徹底して戦われるようになった。神との戦いは、死に至る戦いである。この場合、死に至るのは、神ではなく、神と争う者たちである。

 つまり、あらゆる法秩序は、その秩序の敵に対する戦争であり、あらゆる法は、戦争の一形態なのだ。あらゆる法は、「違法者は、法秩序の敵であり、逮捕されるべきである。」と宣言している。限定的な犯罪に対しては、限定的な刑罰が課せられるが、死罪に対しては、死刑が課せられる。法は戦争の状態なのだ。法とは、法秩序の敵を法に照らして処断することを目的とする、市民政府の権力機構(organization of the powers)である。それゆえ、法の執行者は、当然、武装することになる。神的国家において、法の執行者たちは、社会を敵から守るために、武器だけではなく、法的正義をも身につけなければならない。

 法を支持する者たちは、神的法秩序を改善・強化・確立するために、絶えざる努力を払いる。他方、法の敵は、法に対して絶えず攻撃をしかける。法に対する敵意は、直接的でもあり、また間接的でもある。立法府や法廷を通じて内部から法を破壊することもあれば、違法行為や法律軽視、知的手段を通じて外部から攻撃することもある。あらゆる法秩序は、つねに攻撃の矢面に立たされている。この世が天国でない以上、あらゆる法秩序はその内部に敵をたえず抱えている。それゆえ、もっとも重要な質問は、「法は攻撃されるのだろうか。」ではなく、「法秩序は攻撃に抵抗するのだろうか。」である。この政体は、病気に対抗できるだけの健全さを備えているのだろうか。

カナン絶滅を命じられた時(申命7・1−11)、イスラエルには「服従には健康が伴う」との約束が与えられた。つまり、服従する時に、人間も家畜も増え、エジプトの疫病にかかることはない、と告げられた(7・12−26)。次の聖句において、約束と命令が同時に与えられていることに注目していただきたい。


 それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行うならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群のうちの子牛、群のうちの雌羊をも祝福される。

あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。(申命7・12−16)


社会が健全であり続けるためには、社会から悪を取り除く必要がある。

 法が戦争の一形態である以上、悪との共存関係に陥らないように絶えず監視の目を光らせる必要がある。悪と共存しようとする者は、神に対して宣戦布告している。アモン人とモアブ人に関して、律法は次のように宣言している。「あなたがたは、一生、彼らのために決して平和も、繁栄も求めてはならない。」(申命23・6)

法秩序は、戦争を回避できない。もし法秩序が、ある領域において、平和を獲得すると、必然的に、他の領域に対して宣戦布告することになる。法制度は戦争の一形態である。戦争の「事実」は不変であるが戦争の「目的」は変わる。マルクス主義国家は「世界平和」を訴えますが、それは、神と万人に対する全面的征服と全面戦争によらずに得られることはない。完全平和を希求すればするほど、より全面的な戦争が必要になる

イエス・キリストによる新世界秩序の完成は、罪に堕ちた旧世界との全面戦争の末に得られるものである。悪が地獄において永久に制圧されることなしには、新世界秩序は誕生しない。様々な形態の社会主義が主張する新世界秩序は、聖書の神と、神の契約の民を完全制圧することなしには決して成り立たない。

平和は、天国の「中」だけに存在するものであって、天国と地獄の「間」に平和はない。悪との共存が不可能であることを悟らない限り、法秩序は平和を獲得できない

プロテスタント信者でアイルランド人の弁護士であったジョン・フィルポット・クーラン(1750-1817)は、1790 年に、『選挙権』という題の演説の中で、次のように述べた。「怠惰な人々は、自らの権利が活動的な人々によって破壊され、食い尽くされるのを見ることになるだろう。これは、彼らに訪れる共通の運命なのである。神は、人間に自由を与えた時に、一つの条件を付け加えられた。その条件とは『不断の監視』である。この条件を満足できなければ、犯罪者や受刑者たちは、すぐに奴隷の身分に落とされる。」

 悪との共存を求める人々が刈り取る実は、平和ではなく隷属であり、あらゆるものの中で最も確実に得られる平和は、死と墓である。


1. Paul Roubicek and Joseph Kalmer, Warrior of God, the Life and Death of John Hus (London: Nicholson and Watson, 1947), p. 172.
2. Earle Stanley Gardner, Crime in the Streets, This Week Magazien (August 18, 1968), p. 4.
3. Top Court Hits at 'Stacking of Juries', in Los Angeles Herald Examiner (Monday, June 3, 1968), p. 1.



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