カルケドン・レポート翻訳


 


政治的異端


R・J・ラッシュドゥーニー


 人間の歴史で、最も古くからある異端は、ヒューマニズムである。ヒューマニズムは、創世記3章5節にはじめて登場する。ヒューマニズムの基本にある信仰は、人間の神格化である。ヒューマニストは、「人間は、善と悪を知り、法や倫理を自分だけで決定できる」という。ヒューマニズムの信仰は、ある場合は、公然と自分自身を神と宣言することによって、またある場合は、自分の目標を具体的なもの(偶像)に刻むことによって表現されてきた。人間の自己崇拝の集団的表現が国家である。実際、歴史において最も古くからある宗教的組織は、国家である。国家崇拝においては、国家や統治者やその役職が神聖視されてきた。現代人は、人の声は神の声であると考え、民主主義は聖なる権利であると考えている。

 初代教会や、その後の宗教会議、特に 451 年のカルケドン会議は、国家の神格化に反対した。しかし、しばらくすると、国家の神格化は、再び完全な形で歴史に登場する。はじめのうちは、キリスト教的な外見を装っているものの、時が経つうちにその反キリストの本性を、隠然または公然と表していった。

 その結果、特に20世紀になってから、国家と社会は再び異教的な性格を帯びるようになっていったのである。この動きを強力に推進したのは、メディアであった。米国最高裁は、1952年頃から、ロー対ウェード裁判や、最近では、(同性愛者を一つの階級として認め、彼らに特別な法的権利を与える)コロラド州憲法修正案の問題を通して、この傾向に拍車を掛けたのである。この修正案に反対したのは、最高裁判事アントニー・スカリアだけであった。彼は、ローマー対エヴァンス裁判において、多数派の意見が見かけだおしのものでしかないことを強く訴えかけたのである。現在、教会の生命に対してさらに激しい攻撃が加えられている。中央地方を問わず、選挙の候補者は、表面上は信仰を表明しながら、実質において信仰を否定している。クリスチャンは、つまらないパフォーマンスにだまされる愚か者として扱われている(実際に、そのようなクリスチャンは多いのである)。しかし、こういった風潮を憂慮し、現代のツァーのおかかえ牧師となり下がっている有名な宗教家たちの行動に憤りを感じているクリスチャンも増えている。

 一方では、第1テモテ2章1−2節を曲解し、今日の政治家たちが祝福されるように祈るべきだと主張する宗教家もいる。しかし、祈りの目的は、「敬虔かつ誠実に、平安で静かな信仰生活を送ることができるように」なることである。つまり、政治家がわれわれのことを放っておいてくれるのが祈りの目的なのである!クリスチャンが政治家や「すべての権威者」のために祈れと命じられているのは、政治家が回心するか、そうでなければ正しく裁かれて、神が求めておられるすべてのことについて正しい取り扱いを受けるようになるためである。どうして、現代のネロが祝福されることを神にもとめることができるだろうか。

 他方、あらゆることに力で立ち向かおうとする者がいる。現在のクリスチャン人口では、勝利の可能性はない。そのような時に、力で対抗することにいかなる意味があるのだろうか。古い格言「腐った卵を使っても、良いオムレツはできない。」は真理である。そのような活動がいかに愚かなものであるか、歴史を見れば一目瞭然である。このことは、政治の現状を見ても明らかなのである。

 クリスチャンに求められているのは、回心による変化である。それ以外は、主に喜ばれない。フランス革命の時から、政治的異端は、革命こそ変化を生み出す手段であると主張してきた。これは、「社会改革は、外的変化によって可能になる」とする異教主義への逆行であり、プラトンの「Republic」の謬説を受け入れることなのである。

 政治は、責任を持って取り組むべき領域である。主は、御国の働きを遂行するためには、忍耐が必要であり、急速な変化を期待してはならないと言われた。「まず葉、そして穂、その後に実がなる。」(マルコ4・28)つまり、種を蒔いたらすぐに実がなると期待してはならないのである。神は、「小さな事柄に携わるべき時期を軽視」する人々に追従してはならないと言われた(ゼカリヤ4・10)。小さなことを軽んずる人々は、未来を軽んじている。仰々しい宣伝ではじめたものは、ただ騒がしい見せ物にしかならない。それは、実質的な結果を生み出すことはできない。こういった活動への信頼は、政治的な異端であり、常識からの乖離である。マルコ4章28節は、あらゆる生活領域において、クリスチャンの前提とならなければならないのである。

 カルケドン(著者の宣教団体)の前提は、「まず、葉」である。他のすべての活動と同様に、カルケドンの活動においても、これこそ主が祝福してくださる方法であると信じている。


Chalcedon Report, No. 376, November 1996 より翻訳。

This article was translated by the permission of Chalcedon.




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