律法の知識は教育の基本である

 

現代のクリスチャン教育は、一番大切なことを見失っている。

クリスチャン教育者は、生徒にまず律法を教えるべきである。

ユダヤ人は、子供に律法を暗記させた。律法の暗誦は、教育の中心であった。子供は律法を学ぶことによって、神の知恵を得た。彼らがこのような教育を尊んだのは、「人間は神の被造物であるから、神の知恵である律法は最も重要である」ということを知っていたからだ。

しかし、異邦人の時代になってから、律法は軽視されてきた。そのため、教会において律法を学ぶことはほとんどなかった。律法はユダヤ民族に限定された過去の遺物と考えられてきたので、教会の説教において、学習会において、神学校において、それを学ぶ機会はほとんどなかった。

これは驚くべき大失敗である。教会は、神の知恵を学んでこなかった。人生のうえで最も大切にすべきものをほとんど無視してきた。

神学校においても、教会においても、クリスチャンスクールにおいても、まず何よりも先に律法を学ぶべきである。律法を暗誦してもよいだろう。

イエスは、「律法の一点一画たりともすたれることは絶対にない」と宣言された(マタイ5・17)。パウロは、「信仰は律法を確立する」(ローマ3・31)と述べた。

聖霊があるから、律法は不要だ、というのは異端の教えである。

「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。・・・それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8・2−4)

御霊によって罪から解放されたのは、律法に従う義務から解放されたのではなく、むしろ、「律法の要求が全うされるため」である。

律法そのものについて知識のない者がどうして律法の要求を全うできるだろうか。

律法の知識は、人生の基本中の基本の知識である。

教育の基本は、律法の知識である。だから、クリスチャン教育者は、まず律法を学び、それを子弟に教えるべきである。

 

 

03/04/19

 

 

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