レフト・ビハインドと逃避的キリスト教

 

<ご質問>
著者ティム・ラヘイはプレテリストからのディベート要請をことごとく断っている
のは聖書的に裏づけができないためでしょう。
日本でもシリーズは翻訳されていきます。訳者(牧師)は「いろいろと異なる意見
があるだろうが、人々の救いのために目を瞑れ。」というような内容のことを書いて
いました。これは明らかに彼の救いや宣教命令の本質が魂の救いのみ、地獄からの
救いのみという偏狭な福音理解に立っていることの現われです。
しかし、これは明らかに今日の日本の福音派、聖霊派の本質であろうと思われます。

<お答え>
福音派にしても、聖霊派にしても、共通する「致命的な欠陥」は、「御言葉の軽視」にあります。「まず御言葉ありき」ではなく、「まず神学ありき」なのです。
「あれっ?」と思われるかもしれません。常々神学の重要性を説いている富井が何を言い出すのか、と。
私がここで言っている神学とは、19世紀初頭からはじまったディスペンセーショナリズムという名の異端の教説を指します。彼らは、ディスペンセーショナリズムのパラダイムから一歩も出ようとせずにキリスト教をやろうとしているから、ますます勢いを失っているのです。
「祈らないから」とか「賛美が足りない」ということもありますが、それよりもまず、土台となる神学そのものが間違っている。そして、そこから一歩も出ようとしない。聖書にたちかえってもう一度御言葉に耳を傾けるという作業をすべて捨象してかかるから堂々めぐりしているのです。
これまでの伝道では頭打ちだということにみんな気づいている。
その解決を求める中で、いろんな流行が生まれました。
心理学、カウンセリング、自己受容、霊の戦い、教会成長学、可能性思考、などなど、吐き捨てるほど出てきた。
しかし、これらは、みな流行でしかなかった。
今日の病気は、対症療法では間に合わない。体質の改善からはじめないと。
今日のキリスト教の病根は、「自己保身」にあります。
進化論と同様、ディスペンセーショナリズムが受容されたのは、「人々が望んでいた教え」だったからです。ビクトリア朝のイギリスは、当時、大陸から入ってきた「無神論の啓蒙主義」に次第に犯されていた。
「世界は、神によって解釈するというよりも、人間の理性だけで解釈できる。生物は神によって作られたのではなく、自然に進化してできた。」このような考えに、神を邪魔者扱いしていた不信仰者たちは飛び付いた。ダーウィンの著作は人々から熱狂的に受け入れられた。おまけに、18世紀リバイバルの「甘美なキリスト教」に慣らされて骨を抜かれ、現実の社会を変えることに臆病になっていたクリスチャンたちは、進化論の登場とともに怒涛のごとく訪れた世俗化の流れを食い止めることはできなかった。
主観的な「体験」や「黙想」などに逃避した彼らは、生命をかけて現実の政治や社会を変えた16-17世紀の先輩たちの気骨ある伝統を惜しげもなく捨ててしまった。
ディスペンセーショナリズムは、「この世はサタンの王国だから変えることはできない。クリスチャンは伝道して人々を天国に連れて行くだけでよいのだ」という教えだから、戦うことを厭う自己保身の人々にはじつに好都合な教えだった。
今日、我々がこれだけ声を張り上げて主張している教えに、彼らが、いかなる対抗も、注目も払おうとせず、無視を決め込んでいるのは、ただ単に議論に勝てないからというだけではない。リバイバル主義キリスト教が提供してくれた安楽な温室から出たくないからである。
ディスペンセーショナリズムが支配的になるとともに、キリスト教は、もはや現実とはまったく無関係な「個人的・私的宗教」になった。そして、このような教えを信じる人々に教育された今日のキリスト教のリーダーたちは、キリスト教とはそのようなものだ、という常識から一歩も外に出ることができない。
歴史を見よ。なぜ、近代ヨーロッパが、非キリスト教地域を引き離し、文明を発達させることに成功したのか。なぜ、宗教改革の支配地域だけにおいて、科学が発達し、莫大な富の蓄積が可能になったのか。
それは、単に略奪や帝国主義の横暴だけによるのではない。これはウェーバーの主張でもあるが、「宗教改革(とくにカルヴァン主義)から生まれた規律と勤勉と合理主義の文化」によるのだ。
教えが間違っていれば、行動も間違うのだ。教えが逃避的ならば、人々の行動も逃避的になる。
もちろん、逃避的な人間に魅力があるはずがないから、今日人々はキリスト教とクリスチャンを半ば馬鹿にしている。
人生に対してマジメなクリスチャンはほとんどいない。自分を捨てて、キリストの御心に従う決意をする人々は、教会の中に数えるほどしかいない。
「伝道のために」ということでレフト・ビハインドなる「隠遁奨励本」が世に出まわれば、ますます、人畜無害のクリスチャンが増える。真理を犠牲にすることがどれほど恐ろしい結果を生むかを出版社は考えるべきである。

 

 

02/08/06

 

 

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