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公的信仰と私的信仰2

 

 

>> 「いやいや、みんなで決定することは、宗教教祖の意見を押しつけ

>>られるよりもよい。」とするのは、「みんなで決定するのが正しいと

>>信じる教」の教義であって、そんなもの近代になってから流行してい

>>る「人間教」の一種でしかない。

>「正しい」というよりは、「議論の上で法律を決定していく」というや

>り方が、「誰かの信仰」で一方的に法律を作るよりは「妥当」なもの、と

>いう事でしょうね。多様な主観が存在する社会において法律を作る以上、

>社会的な合意を得られるよう最大限の努力をする必要があるわけです。

>社会とは人間の集まりであって社会の法律は、何か形而上学的な存在のた

>めのものではなく社会の人間のためのものなのですから。

 

 

 「社会の法律は、何か形而上学的な存在のためのものではなく社会の人間のためのもの」だというのは、あなたの信じる人間至上教の主観であって、普遍妥当性があるものだという保証はどこにもないのですよ。

 

 「社会は人間のために存在する。」→「法律はもっぱら人間のために作るべきである。」という意見が正しいならば、ワイマールの失敗は何だったのか、ということになると言いませんでしたか?

 

 「社会の大多数の人間がユダヤ人を抹殺することを望んでいるならば、それを行うのが正当である。」

 

 あなたのような法実証主義の立場によってポグロムが発生したことの反省から戦後、自然法を見直す動きがあるのですよ。

 

 

>たとえ「全員を」満足させるものは出来ないとしても、少なくともより多

>くの人から見て妥当なもの、納得できるものにしていかなければいけない。

 

 Yさんの指摘に耳を傾けてください。

 

 「宗教は争いを起こす」→「いかなる宗教も持たない中立の立場をとる」→「(形而上的なものを排除して)民意だけによって政治を行う」

 

 という立場が、いかに独裁を生むか。

 

 「より多くの人から見て妥当なもの、納得できるもの」が必ずしも「邪悪じゃないもの」ではなかったという歴史の反省があるので、今みんな苦労してるんじゃないですか。

 

 問題はあなたが考えているほど単純じゃないのよ。

 

 

> 法律により多くの(主観的な)妥当性を持たせるにはどうするか、

>と考えた時に「みんなで決定」した方が、少なくとも「宗教教祖の

>意見を押し付け」るよりは良いですね。

 

 「多数の人が妥当であると考えたものがその国家においては善になる」というような社会が、必ずしもあなたが漠然と考えているような善の方向に向かうとは限らないんですよ。

 

 だって、超越的な法がまったくないんだから。

 

 大多数がサディストになって、「自分の子供の虐待を日記にして公表すること」が賞賛されるような社会になるかもしれない。

 

 大多数が同性愛者になって、ホモ映画が文部省推薦映画に指定されるような社会になるかもしれない。

 

 わたしは、オウムの麻原の意見や、ライフスペースのオッちゃんや創価学会の池田大作の意見を押しつけられるのは勘弁してもらいたいが、聖書の律法を押しつけられるのは歓迎しますね。

 

 「自分を愛するように隣人を愛せよ。父母を敬え。盗むな。殺すな。姦淫するな。偽証するな。貪るな。侵略するな。年長者を敬え。自分の体のごとく妻を愛せよ。」

 

 どこがおかしいですか。

 

 あなたが自分の頭の中で創作したものと、実際聖書が教えているものとはまったく異なる。つまり、あなたの今までの掲示から推察されるキリスト教の姿は、実際のそれとはまったく異なる。

 

 正確な理解のないところから、正しい判断は生じないのですよ。

 

 

> あなたはあなたの信じていない「神の言葉」を宗教教祖の意見とし

>て「押し付けられる」方が、あなた自身も参加して、またおかしいと

>思えば社会に訴えて変えていける可能性のある「法律」を作っていく

>よりも良い、と思われますか?

 

 誰が、「自分が参加して社会に訴えて変えていける可能性のある法律を作る」ことを否定しましたか?

 

 いいですか?

 

 私は、「超越的な普遍法」がなければならないと考える。

 

 しかし、「超越的な普遍法」の大枠の中において、それぞれの時代、社会、文化に対応できる柔軟な組織を望んでいる。

 

 「超越的な普遍法」をすべて悪玉とみなして、そのようなものをすべて取り去ることがよい結果を生むとは思えない。

 

 人間には、時代を超えて、地域を越えて、民族を越えて、適用できる普遍的な法があると信じる。

 

 例えば、どのような社会においても、殺人を肯定することはできない。盗むことは、どの民族、社会においても否定されるべきである。

 

 このような法すらも取り去って、すべてを社会の構成員の主観に委ねることは、このような普遍的な価値すらも破壊される恐れがあるということであるが、そのような状態を私は望まない。

 

 絶対に変えてはいけない絶対法がある。

 

 しかし、その法の枠内において、柔軟に対応できる法律を議論する柔軟な民主的な(語弊があるが)組織が必要だと考えている。

 

 

>「私の信じる神こそが、世界の創造者・主権者だ」という「宗教教祖

>の意見」を「押し付け」られたら、あなたは聖書ではなくその「宗教

>教祖」を信じて「教祖の信じる神の命令」に従いますか?

 

 従いませんね。

 

 誰が、どのようなものでもいいから、「宗教教祖の意見」を取り入れたらいい、と言いましたか?

 

 

> 私は、「人間教」の方がはるかにましだと思いますね。他人にはま

>ったく理解できない「神の言葉」のような完全に「個人的」信仰を強

>制しようとする「世界には俺しかいない」教よりは。

 

 また同じことを・・・。

 

 あなたも「世界には俺しかいない」教の信者なのですよ。

 

 あなただけではなく、世界のすべての人は「世界には俺しかいない」教の信者なのですよ。

 

 「万人が首肯できる客観的に論証可能な信仰」はこの世には存在しないと言いませんでしたか?

 

 あなたが、他の日本人とカンカンガクガクやって作り上げた「総意による法律」であっても、それが、あなたのグループ以外の人々の首肯するものである保証はどこにもない。

 

 つまり、あなたの信仰は、「個人の信仰」の延長でしかなく、「公の信仰」と呼べるものではないのですよ。だから、あなたのグループの外にいる人々の目には、あなたがたが「世界には俺しかいない」教の信者と映るのですよ。

 

 手続きが民主的だから自分の信仰のほうが「公的」だと言いますが、私がいつ、大多数の人々が受け入れようともしない信仰を、社会に無理矢理適用してもいいと言いましたか?

 

 キリスト教を無理矢理日本に適用するつもりはまったくない。

 

 そもそも、信仰とは自発的に信じるものであって、強制されても信じられるものではない。

 

 自分が嫌悪する人と結婚できますか?

 

 もし日本においてキリスト教の原理を法律として適用することにでもなれば、それは、あくまでも大多数の人々がそれを自主的に喜んで受け入れる場合だけです。

 

 だからイスラムのジハードとは違うと言ったのです。

 

 

ちなみに:

 

 あなたはしきりに「神の言葉」が「個人の信仰」だと連呼していますが、あなたが「公の信仰」と豪語する「日本の法律」の信者よりも、キリスト教の信者のほうが圧倒的に数が多いのですよ。

 

 「日本の法律」と、「聖書」とどちらが世界において知られていますかね。

 

 自分の立場が普遍的であって、「神の言葉」が局所的であるなんてのはあまりにも世界の現実を知らなさすぎるんじゃないですか?

 

 だから、旅行をしたり留学したりして見聞を広げてくださいって・・・。

 

 

 




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