安息日について

 

<ご質問>
出エジプト記20:10、11に、『七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された。』とあります。
 この律法は必ず一週間のうち一度は教会の礼拝に出席する義務、または、クリスチャンの集いを持たなくてはならない事を意味しているのでしょうか?
 都合が悪く、どうしても教会の礼拝が守れないときがあります。安息日の聖別の仕方を教えてください。お願いします。

<お答え>
今日でも安息日を厳守しなければならないと説く人々がいます。礼拝は日曜日ではなく、絶対に土曜日だ、なぜならば、聖書には安息日が変更になったという記述がないから、と。

しかし、もし安息日を聖書どおりに守る義務が今日でもあるとすれば、私たちは、古代イスラエルの暦制度をも忠実に再現しなければならなくなります。

イスラエルの最も初期の時代においては、それぞれの月の初日は、祭司が月を見て、決定されていました。新月ならば一日、そうでなければ、まだ月は始まらない、と。それゆえ、一年の始まりも、今日のように天文学的、数学的に精密なものではなく、人間の主観に左右されていたのです。また、現在の我々の暦とは異なり、安息日が同じ日付になるように固定されていました。カーティス・クレア・ユーイングは、次のように述べています。

「さて、聖書とその中に記された暦から、イスラエルの安息日は、毎年、月の同じ日に当たるように固定されていたということが分かる。」(Curtis Clair Ewing, Israel's Calendar and the True Sabbath(Los Angeles: The National Message Ministry, n.d.), p.9. cited in The Institutes of Biblical Law by R.J.Rushdoony, P&R., p.134.)

日付に安息日が固定され、それに合わせて曜日が決定されていたので、当時の土曜日は今日のように循環的に7日に一遍やってくる土曜日とは質的にまったく異なっていたのです。

また、もし安息日が土曜日であることをそれだけ固執するならば、その他の暦に関する規定も厳守する必要があるでしょう。そうしなければ首尾一貫しているとは言えませんから。安息の義務は、毎週だけではなく、月の初日も、七年に一年の安息年もありました。これらの日や年は、会社を休み、いっさいの仕事を控えて、聖別の時としなければならないのでしょうか。

農業を営んでいるわけでもないのに、収穫祭や種入れぬパンの祭りも守る必要があるのでしょうか?サラリーマンは八百屋に行って野菜を買ってでも収穫物を持ってこなければならないのでしょうか。

旧約聖書の暦や祭りは当時の人々の農業生活と密接に関わっています。なぜならば、旧約律法は、「農業の民」であるユダヤ人に与えられたからです。

このような時代的・民族的に特殊な規定を、その他の時代、民族にそのまま適用することがいかに愚かしいかは、それほど頭を使わなくても分かります。

神が望んでおられるのはこのような字義拘泥的解釈ではありません。私たちは、祭りや時に関する教えの本質を学び、その原理を適用すればよいのです。

旧約律法の適用の仕方は、新約聖書そのものによって教えられています。

パウロは、「穀物をこなしている牛にくつこをかけてはならない、という律法は、牛についてのきまりなのか。そうではない。これは、『労働者が報酬を得るのは当然だ。』ということ、さらには、『神の教えに携わる牧師や教職者が教えから報酬を受けることは当然だ』ということを表しているのだ。」と述べたのです。

「それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」(1コリント9・6-11)

もちろん、これは時や暦についても言えることです。

時間に関する規定も含めて、すべての領域のことに関して、聖書は、「時代的・民族的に特殊な旧約聖書の規定については、超時代的・超民族的な経綸の下にある新約時代のクリスチャンは、それを字義通り守る必要はなく、その本質を尊び霊的に守るだけでよい」と教えているのです。

私たちは、旧約聖書の犠牲がキリストにおいて成就したことを知っています。それならば、どうして旧約聖書の時間や暦がキリストにおいて成就したと考えてはならないのでしょうか。なぜ、安息日だけは字義通り守らねばならないのでしょうか。

暦における安息は、キリストの救いを指し示しているのです。私たちは、キリストにあって安息の中に入ったのです。キリスト御自身がそのことを述べておられます。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)

今日、ある特定の日が聖日であり、他の日は俗日であるという区別はありません。

もし日曜日に礼拝が守れなければ、火曜日にすればよいのです。もし土曜日や日曜日が特別の日であるというならば、そのように主張する人々は、その理由を聖書から示さねばなりません。

しかし、そのように示すことのできる人はいないでしょう。なぜならば、すでに述べたように、現在の曜日と、イエスの時代の曜日とはまったく異なる暦制度のもとにあるからです。

私は、日曜日に固執する人も土曜日に固執する人も裁きません。それぞれが確信をもっているならば、それを守ることをお勧めします。なぜならば、「人の信仰を裁いてはならない」からです(ローマ14章)。

ただ、特定の日に固執するのと、イエスにおいて曜日の制限は撤廃されたと信じるのと、どちらが合理的か考えていただきたいのです。

さて、今日、集会を持つべきであると書いてありますので、クリスチャンは教会に出席すべきでしょう。しかし、どうしても礼拝を守ることができない場合は、自分の家で礼拝すればよいでしょう。もしくは、牧師に頼んで特別に礼拝をもってもらえばよいでしょう。

自分の所属以外の教会において絶対に礼拝を持つべきではない、と言う教会がありますが、聖書のどこにそのようなことが書いてあるか知りたいものです。もしそうなら、パウロは伝道旅行の旅先から週末になれば、アンテオケに戻ってこなければならなかったのでしょうか。こういう聖書に書いていないことに拘泥することが律法主義、パリサイ主義の特徴なのです。戒めに忠実になろうとする自分の姿を鏡に映して自己陶酔するのは、イエスが最も嫌われたパリサイ人の姿なのです。このような欠点は、律法を説く教会に共通して見うけられます。注意したいものです。

まず、旧約聖書においても、新約聖書においても、聖日の中心目標は、「安息」であり「救い」だったことを忘れないようにしましょう。「安息日」は、まず第一に、「憩いの日」であり、「休息の日」です。安息日は、神がエジプトにおける奴隷の状態から救い出してくださったことを記念するために設けられた制度です。エジプトからの救いは、もちろん、キリストによる罪からの救いの予型です。私たちにとって安息日とは、キリストによって罪から解放され、もはや奴隷ではなく自由人であることを感謝する日なのです。その日が苦痛となるような聖日の守り方が本来の意義から離れていることは言うまでもありません。

 

 

02/04/15

 

 

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