真の平等社会とは?

 

今日の税制は、不労所得は悪であるということを当然の前提にして成り立っている。しかし、不労所得が悪であることは、誰も証明できない。

そもそも、神は人間を同一のスタートラインには置いておられない。ある人はお金持ちの家に生まれ、ある人は美人に生まれる。ある人は才能を持って生まれる。
またその逆もある。

しかし、これが世界の現実であり、神はそのように世界を創造された。

親から譲り受けた財産によって暮らしているのは、不労所得だ、けしからん。という理屈が成立するならば、美人かどうかによって就職を差別されるモデルのような職業は成立しなくなる。モデルのオーディションに落ちた人は、「生まれながらの資質によって就職を差別された。」と言って文句を言うことはできない。

人間は、誰でも大なり小なり不労所得を得ているのだ。所得がことごとく労働によって得なければならないという理屈は聖書には存在しない。聖書は、相続財産を認めている。いや、むしろ、救いの中心的原理は、「不労所得」にあるのだ。人間は神の前で功徳を積むことができない。人間の行為には常に偽善と慢心がつきまとうからだ。何かよいことをすると、「俺ってなんていい人間なんだろう!」と誇り高ぶる。

そこで、神はキリストに功徳を積ませて、それをそっくりそのまま、人間に相続させようとされた。人間は、キリストの功徳を信仰によって相続する。

だから、我々が受けた救いは、「不労所得」なのだ。

現在の体制は、マルクス主義の「不労所得罪悪論」に基づいて成立しているので、個人が遺産を相続するのではなく、その代わりに国が相続すべきだと考えるわけである。

不労所得を悪と見る人々は、妬みに取り付かれた人々である。

彼らは、人の幸福を素直に喜ぶことができない。「あいつは、仕事もしないで親の財産で豪勢な暮らしをしている。それに対して、俺達は、毎日汗して働いても少しの稼ぎしか得られない。不公平だ。なんとかあいつらの財産を横取りできないものだろうか。」と考えたのが革命家である。

このような恨みつらみに取り付かれると、人の足を引っ張ることしか考えることができない最低の人間になる。

我々が目指すのは、「人の足を引っ張る社会」ではなく、「裕福な人々も、そうではない人々も、同一の基準によって同等のチャンスを与えられる社会」である。

しかし、実際は、有力企業は、自分の権利を守るために、政治家を動かして自社に有利な法律を作らせる。最近までなぜか地ビール、自家醸造が許可されていなかった。日本は、平等の社会だと言いながら、新しく企業を興そうとする者に幾重もの制限をくわえて、競争を排除し、有力企業に有利な体制を作ってきた。

すなわち、スタートにおいて差別を作ることを当然とする不平等社会なのだ。しかし、これらの有力企業が愚かなのは、「スタートに差別をつけると、後々自分に跳ね返ってくる」という事実を無視している点である。競争を排除したいという気持ちは、自分が楽をしたいという願いから出ている。しかし、楽をするならば、当然のことながら、体力は劣ってくる。事実、政治力に頼る企業は、国際化の波の中において外国企業と渡り合うことができないことが判明したではないか。日本国を鎖国状態にする時代は終わった。競争を排除できるという幻想はもはや許されない。

我々は、平等社会そのものに反対はしない。しかし、偽りの平等社会に反対する。平等という言葉の定義が問題なのだ。

真の平等とは、妬みによって作られるものではない。人の成功に対する羨みや反感から生まれるものではない。

人が得た成功には手をつけてはならない。神が与えた才能、美貌、機会を奪ってはならない。彼が努力して得た財産には手をつけてはならない。また、親から相続するものについてもそれを先天的機会と見、手をつけてはならない。相続税や累進課税は撤廃すべきである。

余剰に生まれた利益に手をつけてはならない。マルクス主義は、余剰利益を罪悪視するが、企業家は余剰利益を得るまでに通常、大変な努力をする。何度も失敗し、地獄を経験しながら、ついに利益を得るまでになる。もちろん、そうではない人もいるかもしれない。しかし、そのようなことはどうでもよいことである(人が成功したら同じように喜べばよいではないか。人の成功を憎らしく思う気持ちから生まれた経済学は、そもそも根っこからねじ曲がっているのだ。)

企業家が成功によって手にする余剰利益は、彼の勇気とリスクをものともしない進取の気性と絶え間ない努力に対する報酬と考えればよいのだ。もしこのような余剰利益を不労所得として罪悪視するならば、誰も企業など起こそうとしないだろう。

真の平等社会とは、オリンピック競技のようなものだ。
その国や人が手にできるチャンスには手をつけない。その人が素晴らしい才能をもっているからというので、ハンディをつけてはならない。例えば、ブブカだけには、砂袋をつけさせて飛ばせるとか、父親から優秀な遺伝子を相続した室伏選手だけには、投擲サークルを10cm狭くする、というようなことはしない。

競技場においては万人を平等に扱うことだ。

真の平等社会を作るのは、相続税や累進課税ではない。真の平等社会を邪魔しているのは、族議員である。彼らは売国奴である。

国の税金を特定の地域住民や企業に有利になるように配分させ、その見かえりに票や献金を得るというような腐った人々を認めてはならないのだ。

我々は、ターゲットを間違えていないだろうか?
マルクスが教えた平等社会とは、マルクス自身の妬みや恨みの反映であり、不健全である。競争を排除しようとするのは、怠け者の仕業である。

健全な社会とは、競争の機会を均等に与える社会であって、結果を均等に与える社会ではないのだ。

 

 

02/03/28

 

 

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