利息を取ることは罪か?

 

<質問>
聖書に利息を禁止している章があるのでしょうか?
レビ記の35は見つけたのですが、一般的とは言えないようです。
イスラムが利息を禁止している根拠が知りたいのです。

<答え>
聖書において、利息は「兄弟(つまり、イスラエル人)に対して」禁止されていますが、異邦人には禁止されていません。

「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。 外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。」(申命記23:19)

それゆえ、利息全般を禁止することはできません。

イエスは、「だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。 」(マタイ25:27)といい、利息そのものを悪としておられません。

これは、そもそも、同信の友に対して「格別の愛の配慮」をすることを目的とした律法であって、経済活動全般についての規則ではありません。

もし、経済活動一般において利息が禁止されれば、経済は立ち行きません。

お金を預けたら、そこにおいて金利が発生します。なぜならば、手元にある自由なお金は、力だからです。それを利用して、借り手は、いろんなことができます。

お金を貸すという行為は、相手に利益を与えることなのです。

商品を売るという行為が相手に利益を与え、力を与える行為であれば、当然お金を貸した人は、相手から代償を求めることができます。

経済活動は、このようなギブ・アンド・テイクで成立しているのであって、相手に対する一方的な利益供与では、与えた方が死んでしまいます。商品を売った人々は、代価としてお金をもらい、それで生産したり、生活します。与えるばかりでは、商品を再製造することすらできず、経済活動はストップします。利息についても同じように、相手に利益を提供する者として、貸し手は、当然の利益を受ける権利があります。

聖書律法において利息を取ることが禁止されているのは、同信のクリスチャン(新約時代のイスラエル人)に対して、「相手を利用する行為」が悪だからです。

クリスチャンの間では、互いに無私の愛で接するべきであり、経済的利用の対象としてはなりません。クリスチャンは、そもそも、神の無償の愛によって救われた者同士であり、この神の無償の愛を互いの間で表す責任があります。神が罪の中にあって苦しんでいた我々のために命を捧げてまで救ってくださったように、貧困にあえいでいる同信の友のために、無償の愛を行為によって示さねばなりません。

あくまでも、聖書律法で定義されているのは、「慈善的貸与charitable loan」だという点に注目する必要があります。

「わたしの民のひとりで、あなたのところにいる<貧しい者に>金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。 」(出エジプト記22・25)


それゆえ、相手が極度に金銭に困って首が回らなくなっているわけでもなく、通常の経済活動の一環として、利息を払うと進み出ている場合にはそれを受け取ることができるのは明らかです。

また、商品の売買について、通常の商取引において、クリスチャンは同信の者に対してただで商品を提供しなければならないという規則はないということもここからわかります。

中世におけるキリスト教会及び、初期のプロテスタント教会は、あらゆる種類の利息を禁止していましたが、聖書からの理論というよりも、アリストテレスの経済理論に基づいていたからでした(Gary North, Tools of Dominion, ICE, p. 719)。

イスラム教国において、利息は表面的に禁止されていますが、それでは経済が立ち行かないので、実質的に利息を取るシステムがあります。

 

 

02/10/14

 

 

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