割礼と幼児洗礼

 

たしかに聖句として幼児に関するバプテスマの記事はありませんが、しかし、ディスペンセーショナリズムと違って、契約神学は、旧約聖書と新約聖書の連続性を認めるわけですから、旧約聖書において、契約加入の儀式が幼児にも与えられていたならば、新約聖書においても同じことが言えると述べても無理ではありません。
旧約聖書において、イスラエルは、他の異邦民族と異なり、その本質は宗教共同体でした。異邦民族は生まれると自動的に「ペリシテ人」「ローマ人」「アッシリア人」…となったのに対して、イスラエル人は生まれながらにイスラエル人にはなれませんでした。イスラエル人になるには、生後8日目に割礼を受けなければなりませんでした。成人であっても、イスラエル人になるには、割礼を受ける必要がありました。
割礼とは、神がアブラハムと結ばれた「恵みの契約」への加入儀式でした。
このことは、生まれながらの人間は、恵みの契約の中にいないということを象徴しています。生まれながらの人間は、「業の契約(アダム契約)」の中にいます。つまり、すべての人間は、「律法を完全に守る義務を負った者」として生まれてきます。しかし、人間はアダムにおいて堕落して、生まれながらに罪を犯すので、このままでは契約の刑罰を受けます。そこで、神は、人間を業の契約から救い出し、恵みの契約の中に入れることをよしとされました。神は、アブラハムと契約を結び、「行いによるのではなく、信じることによって義とされる道」を提供されました。
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世 15:6)
そして、この契約の中に入っている印として、割礼を御与えになりました。それゆえ、割礼を受けていない者は、民の中から追放されました。
「包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。…包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創世記17・11,14,23)
このように、旧約聖書において、神の民イスラエルにつながれるには、割礼が必須条件でした。
新約聖書において、クリスチャンは、「神のイスラエル」(ガラテヤ6・16)と呼ばれています。そして、このイスラエルにつながれるには、イエス・キリストを信じることによる新生、新しい創造、生まれ変わり、または、罪に死んでいた状態からの復活が必要です。
「…大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」(ガラテヤ 6:15-16)
「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』」(ヨハネ 3:3)
そして、この生まれ変わり、復活を象徴するのが、バプテスマなのです。
「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2章12節)
それゆえ、バプテスマが、新約時代においては、旧約聖書における割礼の役割を果たすと考えることができるのであり、割礼が幼児に与えられたように、バプテスマも幼児に与えるべきだと考えることができるわけです。

 

 

02/09/11

 

 

 ホーム

 




ツイート