「新キリスト教辞典」(いのちのことば社)で紹介された後千年王国説の解説について

 

「新キリスト教辞典」(いのちのことば社)においてポスト・ミレ(後千年王国説)に関する解説がある。これについて後千年王国論者の立場から批判したい。


2千年期後再臨説。この考え方によると、神の国は現在、福音の宣教を通し、また個々人の心の中での聖霊の救いをもたらす働きを通して、この世に行き渡りつつある。今の世におけるキリストの御支配のゆえに、再臨の時まで世界は着実に改善されてゆき、千年期と呼ばれる義と平和の長い祝福の後に再臨がある(参照マタイ13:31-33)。
「長い目で歴史を見るならば、各時代を通じて偉大な進歩が成し遂げられてきた。世界が明らかに、より良い方向に向かって進んでいることは、誰も否定できないと思う」(L・ベットナー)。千年期後再臨論者は、黙示録20章を、無千年期論者ほど象徴的にはとらない。けれども細部に関しては、必ずしも字義通りのものとは考えない。
それゆえ、殉教者の復活や、千年期にキリストがからだをもってこの地上に存在されるようなことが、実際に起こるわけではない。来るべき世は、この世と本質的に変わるものではない。さらに多くの回心者が起こされて、キリスト者の霊的、道徳的影響が増し、キリストの再臨の時が近づけば近づくほど、内在的な神の力は、神のもろもろの敵に対してより強力な形で発揮される。そのような教会の黄金時代(千年期)の後に、短い背教、つまり善の力と悪の力との間の恐るべき抗争があり、次いでキリストの再臨、死人の中からの復活、最後のさばきといった一連の出来事が続く。

この説への反論としては、a聖書も歴史も、人間の状況が絶えざる改善の過程にある、と考えられるような根拠を示しているとは思われない。人間の罪の実態は、むしろその逆の方向に進んでいるようにさえ見える。b再臨の前に黄金時代が来るという思想は、この世の終わりと関連した聖書の破局的な描写と矛盾する。c悪魔は今も、極めて活発に活動を続けている(参照。ペテロ5:8)。


<聖書も歴史も、人間の状況が絶えざる改善の過程にある、と考えられるような根拠を示しているとは思われない。>

聖書は明らかに人間の状況が絶えざる改善の過程にあると教えている。

「更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものだ。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」(マルコ 4:30-32)


神の国が時間とともに発展することはこの一箇所からだけでも明らかである。もしこれが歴史内における神の国の発展を指していないとすればどのような解釈が可能なのだろうか。

また、イエスは次のように語られた。
「神の国は次のようなものだ。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ 4:26-29)


神の国は、植物の成長にたとえられている。そして、その働きは人間の知恵によるのではなく、「ひとりでに」だ。神の国の発展を心配し、それを主導しておられるのは神御自身である。神御自身が主導しておられることが失敗することなどあるだろうか。人間が自分の主観に頼って「世界の現実を見るとどうしても、人間の状況が改善しているようには思えない」といくら叫んでも、神御自身が「成長する」と言っておられるのだから、神の僕である人間は、「はい。そうです。」と言わねばならないのだ。

実際、世界の現実を見ても、人間の状況は改善されている。
医学の進歩により、不治の病は次々と治され、科学の恩恵によって人々は少ないエネルギーで多くのことを行い、快適な生活を送ることができているではないか。
2000年前イエスがおられた時代に、インターネットを通じてメールのやりとりができただろうか。
「いや、技術的な問題ではなく、道徳の面において進歩しているとは言えない」と言うだろうか。
それでは、2000年前の道徳的状況と現在のそれとを比較してみよう。
当時いたおびただしい数の奴隷たちは今どこにいるのだろうか。
ローマの闘技場で、人間と野獣が今もなお闘っているだろうか。
今日、犯罪者は十字架につけられ、見世物にされ、殺されているだろうか。
今日自治体や建設会社が橋梁などの建築物の予定地に若い女性を生き埋めにして工事の安全を祈願するだろうか。
人々は、家柄によって、成功のチャンスと政治的・経済的な権利を奪われているだろうか。

「人間の状況は悪くなっている」と考える人々は、世俗的な西洋文明批評家と文化相対主義者の謬説に惑わされているのだ。2度の世界大戦の後に、西洋の伝統的な進歩史観は力を失った。アウシュビッツにおける未曾有の殺戮と原子爆弾の威力と惨状の前に人々は、「本当に世界は進歩しているのだろうか。」と疑いの目を向け始めた。
彼らは、「たらいの水だけではなく、赤ん坊も一緒に捨ててしまった」のだ。
眼前に広がる無数の文明の進歩の証拠を無視して、ごくわずかな惨状を誇大に取り上げて未来を悲観している。我々は、歴史を正当に評価しなければならない。キリスト教文明が築き上げてきた無数の価値と財産を、過小評価してはならない。

<人間の罪の実態は、むしろその逆の方向に進んでいるようにさえ見える。>

人間の罪の実態は、不変である。いつの時代においても、人間は生まれながらにして罪人であり、堕落している。
問題は、その人間に内在する罪の性質をどのように発現させないようにするか、また、たとえ発現したとしてもどのように抑制していくかである。
それが教育と政治の務めである。
教育は正しい知識を伝え、正しいものの考え方を教えるべきだ。国家は、犯罪者を厳しく裁き、法と秩序を守るべきだ。
人間の罪性そのものを変えるには、キリスト信仰による再生に頼る以外にはないのであって、罪の性質そのものが時代とともに悪化しているなどということはないのだ。
今日人間の状況が悪化しているように見えるならば、それは、人々が福音を拒否し、偽りを信じて、人間的な解決を求めているからだ。聖霊の力は、人間の性質を内側から改善する。そして、聖書に示された正しい教えは、人間の生活を外から正しく維持する。この二つの解決を拒否しているから、人間の罪の性質は改善されず、また、罪の性質の発現を許しているわけである。
クリスチャンは、世の光として福音を伝え、再生の道を示すべきだ。また、聖書から正しい統治の方法を教えることによって、外的な秩序を維持する方法を世の人々に教授すべきなのだ。これを妨害するような終末論を教えているから、ますます、人間の状況は悪化しているのだ。

<再臨の前に黄金時代が来るという思想は、この世の終わりと関連した聖書の破局的な描写と矛盾する。>

まず、「世の終わりと関連した聖書の破局的な描写」というのが本当に「世の終わりについて」なのかどうか厳密な釈義を行う必要がある。
例えば、マタイ24章の破局的状況は、世界の終末についてではない。イエスは、「これらの前兆はすべて『この時代に起こる』」と明言されているのだ。この前兆は世界の終末についてではなく、イスラエルの終末についてである。マタイ24章は、マタイ23章の「エルサレム崩壊預言」の続きとして語られているのであって、あの個所から全世界の終末を唱えることはできない。
ペテロが唱える「万象が焼け崩れる」(2ペテロ3・10-12)という破局的終末についてもこのことが言える。
「天が消えうせる」とか「自然界の諸要素は熱に溶け尽くす」とか「滅び去る」という表現は、旧約聖書の預言の中において数多く使用されている。イザヤはエドム人への裁きの預言の中において「天は巻物のように巻き上げられる」(イザヤ 34:4)と述べている。士師記5・5では、「山々は、…イスラエルの神、主の御前に溶け去った。」と述べている。もちろん、こういった個所を文字通り「天の消滅」や「山の溶解」と解釈できない。
ならば、なぜペテロの手紙だけを文字通りに解釈して、「天が消滅し、天体が溶解するのだから終末についての記事に違いない」と考えなければならないのだろうか。
ペテロは、ここにおいて旧約聖書と同様に、象徴的表現方法を用いているのだ。
彼は、ペンテコステの日に、ヨエルの預言「太陽は暗くなり、月は血に変わる」が成就したと明言した(使徒2:20)。
現代日本人の我々の常識によって、聖書を読んではならないのだ。我々がペテロの手紙を読むには、ペテロの言葉の使い方を知らなければならない。ペテロが「太陽が暗くなり、月は血に変わる」と述べたら、文字通りに解釈してはならず、何かの象徴だろうと考えなければならない。彼は、旧約聖書の預言者にならって、天や天体の崩壊を政治勢力の崩壊の象徴として描いているのだ。
ペテロは、近々イスラエルの終末が到来すると信じていた。なぜならば、師であるイエスが「『この時代に』神殿は崩壊する」と預言されたからだ。これに対して「破局の約束はどうした。何も変わらないではないか。」(第2ペテロ3・4)と嘲る人々がやってきた。その言葉に動揺したクリスチャンたちがいたからペテロは第2の手紙を書いたのだ(3・1)。ペテロの関心は、遠い世界の終末にあるのではなく、当時のイスラエルにおける体制の崩壊にあった。だから、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません」(3・9)と、自分の預言の成就を近未来のこととしているのだ。
「実現が切迫している」と警告されているのは、紀元1世紀に地中海地方に住む手紙の読者である。我々ではないのだ。釈義において時代性を無視してはならない。この点において失敗しているから、今日の終末切迫論者はこの個所を正しく解釈できないのだ。

<悪魔は今も、極めて活発に活動を続けている(参照。ペテロ5:8)>

悪魔が活発に活動しているからと言って、神の国が進展していないとは言えない。神の国は、「苦しみの中で」進展するのである(使徒 14:22)。人間は、サタンとの戦いの中において苦しみながら御国を建てるように定められているのだ。それとも、「人間の状況が絶えざる改善の過程にある」というためには、サタンの活動はいつの時代においても抑圧されていなければならないとでも言うのだろうか。イエスは、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ 11:20)と言われた。神の国と悪霊とは再臨時まで共存するのだ。
サタンの活動が活発だからと言うので神の力や計画を疑うならば、それは不信仰である。毒麦は成長するまで放置される。だから、熟しきったサタンの文化を見たならば、それを我々の敗北と考えてはならない。むしろ、それは刈り取り前の姿だと考えるべきである。神の国は必ず勝利する。サタンは陰謀を巡らしてクリスチャンを攻撃するが、「我々のためにすべてを益としてくださる神」によって我々は常に勝利者になる。十字架においてイエスを殺すことに成功して得意になっていたサタンは、すぐに自分が敗北したことを悟った。なぜならば、贖いが達成されたからだ。神は常にサタンの上手を行くのだ。神はサタンの陰謀を逆手にとってそれを御自分の計画の成就のために利用される。サタンは常に神の道具であって、神と互角に渡り合っていると考えることはできない。

 

 

02/08/25

 

 

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