アダムとエバはサタンと姦淫したのか?

 

<ご質問>

 素晴らしい答えをありがとうございます!感激致してしまいました!!教授もしくは、牧師様でいらっしゃいますか?真に敬服致します。
 そこで、新たな観点から再度ご意見頂けないでしょうか?

 天使は間違いなく霊的存在ですが、私は、人間は肉体だけでなく霊体も持っていると解釈していたので、サタンと人間の(霊との)性関係が可能だと思ったのですが。神が人間を形造った後、神の息により命を吹き込まれた事、人は死ねば肉体は塵に、霊は神に戻る、といった聖書の引用からです。「食べれば死ぬ」と神は言われたのに、アダムとイブは実際生き続けました。ここから堕落が肉的なものでないと判断されます。「死人は死人に葬らせよ」(マタイ8:22)のイエスの言葉において、死には肉的霊的の両方があり得ると推測できる事を根拠としています。つまり、堕落が霊的であれば、サタンと人との姦淫は可能であると。実際、創世記6章の初めにも、神の子達が人の娘をめとり子を産ませる、という行為が起こっています。

 堕落という最初の罪について、後に聖書が触れている個所が見られない、とおっしゃいましたが、サタンとなった天使の罪について述べている、ユダ書をどのように解釈されますか?6-7節にかけて、主はまず身分不相応な行為をした御使いを闇に閉じ込められた。ソドム、ゴモラや周囲の町々の同様で、同じように淫行にふけり不自然な肉欲に走ったので、刑罰を受けるに至った。ソドムやゴモラは淫行の町ですが、天使がそれと同じ罪で罰せられたんですよね?

 堕落の経路において、もし性交渉なら、サタンとイブに続きサタンとアダムも関係を持ったと解釈しかねない、と言われましたが、このような町ではフリーセックスどころか同性愛的傾向も多々見られる事は事実ですね。しかし私もやはり、堕落はサタンとイブ、イブとアダムの間で起こったとみています。ですが、第一に、サタンと人間の関係を語ったイエスの言葉「あなた方は自分の父、悪魔から出てきた者であって」(ヨハネ8:44)「へびよ、まむしの子らよ」(マタイ12:34、23:33)から、この2組は同じ罪的行為を行ったが、一方は霊的でもう一方は肉的だったのではと考えます。霊的存在であるはずのサタンの血筋が、人々の中に実体的に現れているからです。 第二に、カインとアベル、エソウとヤコブ、ゼラとペレツといった兄弟間にみられる非常に似通った相違点から長男と次男の使命のようなものを推測してみた結果です。この第二の点については、キリストまたはユダヤ教でない立場で聖書を読みました際、神はなぜそんな行動を取られるか、と疑問でなりませんでした。読み下すうちに自分としては面白い、エデンの園の堕落に結びつく発見があったのですが、他のキリスト/ユダヤ教宗教者の方に尋ねても、その中に意味など無く、ただそういうものであると受け入れるのだと言われた方が大半でした。それには納得が行きませんでしたが。

 日々、ご多忙であられると存じます。お時間の許される範囲で、そちらのお考えを聞かせて下さい。

 YUKA




<お答え>

再び、非常に本質をついたご質問をありがとうございました。
以下お答えいたします。



(1)

「天使は間違いなく霊的存在ですが、私は、人間は肉体だけでなく霊体も持っていると解釈していたので、サタンと人間の(霊との)性関係が可能だと思ったのですが。神が人間を形造った後、神の息により命を吹き込まれた事、人は死ねば肉体は塵に、霊は神に戻る、といった聖書の引用からです。」


たしかに、人間は肉体と霊から成り立っています。その意味において、霊においてサタンと姦淫を行ったというのは事実だと思います。なぜならば、神の意見よりも、サタンの意見を聞いた時点で、エバは、神への忠誠を捨てて、サタンに従ったからです。人間は、サタンと「霊的姦淫」を犯し、サタンと契約を結んだと考えられます。



(2)
「「食べれば死ぬ」と神は言われたのに、アダムとイブは実際生き続けました。ここから堕落が肉的なものでないと判断されます。「死人は死人に葬らせよ」(マタイ8:22)のイエスの言葉において、死には肉的霊的の両方があり得ると推測できる事を根拠としています。つまり、堕落が霊的であれば、サタンと人との姦淫は可能であると。実際、創世記6章の初めにも、神の子達が人の娘をめとり子を産ませる、という行為が起こっています。」


「食べれば死ぬ」と言われたとおりに、アダムとエバは肉体的に死にました。


「アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」(創世記5・5)



人間は、全人的に堕落しており、肉体も堕落しました。それゆえ、人間には病気や死がつきまとうようになりました。もし、アダムが罪を犯さなければ、神は、「永遠の命の木」から取って食べることを許し、ある時点で、永遠に生きる体を与えられるはずでした。しかし、彼は失敗したために、キリストが、第2のアダムとなって肉体を取り、神の戒めをすべて守ることによって、復活し、永遠の肉体を与えられました。キリストと契約を結ぶ者(クリスチャン)は、すべてこの永遠の肉体を与えられ、復活します。


「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6・5)



(3)

「堕落という最初の罪について、後に聖書が触れている個所が見られない、とおっしゃいましたが、サタンとなった天使の罪について述べている、ユダ書をどのように解釈されますか?6~7節にかけて、主はまず身分不相応な行為をした御使いを闇に閉じ込められた。ソドム、ゴモラや周囲の町々の同様で、同じように淫行にふけり不自然な肉欲に走ったので、刑罰を受けるに至った。ソドムやゴモラは淫行の町ですが、天使がそれと同じ罪で罰せられたんですよね?」


サタンとなった天使の罪とは、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」ということにあります。つまり、彼らは高ぶって、神の配下にいることを捨て、宇宙の中に、もう一つの主権を立てたのです。これは、革命であり、契約違反です。天使は、神によって創造されたのですから、創造の契約(創造者と被造物の主従契約)の中にいるべきでした。しかし、その契約を捨てて独立し、神の敵となったのです。これは、ある意味において、「霊的姦淫」ということもできます。すでに述べましたように、「姦淫」とは「結婚という契約に対する違反」であり、結婚とは、「配偶者以外のいかなる者とも性的交わりをしない」という誓約のもとにのみ成立します。これは、単なる肉体的な交わりだけではなく、「配偶者以外の人を肉欲の対象として見、欲しがる」という心の問題でもあります。



「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5・28)


サタンの罪は、忠誠・貞潔を尽くすべき神に対して不実を行ったのですから、「霊的姦淫」と言えます。



(4)
「堕落の経路において、もし性交渉なら、サタンとイブに続きサタンとアダムも関係を持ったと解釈しかねない、と言われましたが、このような町ではフリーセックスどころか同性愛的傾向も多々見られる事は事実ですね。しかし私もやはり、堕落はサタンとイブ、イブとアダムの間で起こったとみています。ですが、第一に、サタンと人間の関係を語ったイエスの言葉『あなた方は自分の父、悪魔から出てきた者であって』(ヨハネ8:44) 『へびよ、まむしの子らよ』(マタイ12:34、23:33)から、この2組は同じ罪的行為を行ったが、一方は霊的でもう一方は肉的だったのではと考えます。霊的存在であるはずのサタンの血筋が、人々の中に実体的に現れているからです。」


たしかに、サタンとエバは「霊的姦淫」を行ったということが言えますが、エバとアダムは配偶者同士なので姦淫罪は適用できません。しかし、アダムがエバの誘惑に乗り、神に対して不実の罪を犯したという意味において、両者の間に「霊的姦淫」があったと言うことはできます。

「まむしの子ら」と言われている人々は、サタンの霊的子孫であるということは確かです。人類には、2つの系統――女の子孫とへびの子孫(創世記3・15)――があるというのは聖書全体の主張です。

しかし、肉体的に見れば、どちらの系統もエバから生まれた人々であり、全人類は「女の子孫」なのです。

それゆえ、この二つの系統の区別は、肉体をもとにして考えることはできず、それは、あくまでも、神の側の選び(*)をもとにしてしか区別できません。



(5)

「第二に、カインとアベル、エソウとヤコブ、ゼラとペレツといった兄弟間にみられる非常に似通った相違点から長男と次男の使命のようなものを推測してみた結果です。この第二の点については、キリストまたはユダヤ教でない立場で聖書を読みました際、神はなぜそんな行動を取られるか、と疑問でなりませんでした。読み下すうちに自分としては面白い、エデンの園の堕落に結びつく発見があったのですが、他のキリスト/ユダヤ教宗教者の方に尋ねても、その中に意味など無く、ただそういうものであると受け入れるのだと言われた方が大半でした。それには納得が行きませんでしたが。」


聖書では、長男には次男の2倍の財産が与えられると定められています。長男は、神の所有であり、特別の祝福を受けます。



「『イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものだ。』」(出エジプト記13・2)
「あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。」(出エジプト記22・29)
「父は言った。『おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。』エサウは言った。『彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。』また言った。『あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。』」(創世記27・35-36)

「きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものだ。」(申命記21・17)



そのため、本来ならば、長男が次男よりも祝福を受けるはずなのですが、聖書では、逆転の現象が多く記されています。ご指摘のカインとアベル、エソウとヤコブ、ゼラとペレツなどがそれです。イスラエルは世界の諸民族の長子でしたが、福音から遠ざけられ、異邦人に救いが及びました。

この逆転の記事は、「人間は、生まれによって誇ることがあってはならない」ということを教えています。人間は、「血筋」とか「生まれ」によるのではなく、「神の純粋な好意による選び」によって祝福されます。

聖書は、一方において、「血筋」や「生まれ」を尊重していますが、他方において、それらを軽視しています。このパラドクスは、人間が自分の固有の性質や価値を誇り高ぶる性質を持っているからです。背が高く、誰もがみとれる容姿を持っていたサウル王がしりぞけられて、見栄えのしない末っ子のダビデが選ばれました。

イスラエルが選ばれたのは、「有力民族」だったからではなく、むしろ、「弱小民族」だったからです。


「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」(申命記7・6-7)


神がクリスチャンを選ばれたのは、優秀だったからではなく、もっとも「取るに足りない」人々だからです。


「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(1コリント1・27-28)



ユダヤ人一般のように、神の予定とか選びを誤解して、選ばれたことを誇り高ぶる人々がいますが、それは、まったく神の御心と逆の態度であり、神は人間の固有の力とか才能、優秀さを無にし、人間の傲慢を砕くために、あえて、弱い者、無視され見下されている人々を選ばれるのです。




(*)

一方は、世界の基が置かれる前から神に選ばれている人々であり、他方は、神に選ばれていない人々です。



「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1・4-5)



神に選ばれている人々は「尊い器」「あわれみの器」「救いの器」であり、選ばれていない人々は「卑しい器」「み怒りの器」「滅びの器」です。



「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」(ローマ9・21-22)



 

 

03/02/15

 

 

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