女性性器と聖霊

 

<ご質問>

僕の聖書には他人の妻を下心で見てはならないとありますが、他の翻訳には全ての女性を下心で見てはならないとあります。どちらの翻訳が正しいですか?


<お答え>
他人の妻をはじめ、(自分の妻以外の)全ての女性を下心で見ることを禁じる戒めは、第十戒です。

「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(申命記5・21)

聖書において、未婚の女性は、その女性の父親の契約の中にある人ですから、「あなたの隣人のもの(=隣人に属する存在)」にあたります。

「下心で見る」ことは、「欲しがる」ことであり、貪欲の罪です。

聖書では、「性欲の対象として女性を見ること」そのものを非難していません。自分の妻の裸を見ることも罪であると言う人々もいますが、それは明らかに間違いです。(*)



(*)
ちなみに、聖書において、女性の性器は「泉」と呼ばれています。

人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現わした。ふたりはその民の間から断たれる。 (レビ20・18)

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。
愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5・18-19)

これは、配偶者とのセックスを祝福として奨励する言葉であり、聖書が禁欲を教えているのではないことは明らかです。

パレスチナ周辺の荒野において「泉」は文字通り「潤い」を与えるものであり、女性性器の潤いや生理は、花婿を迎えるために必要な油(マタイ25章)と同様に、聖霊の象徴となっています。

エデンの園の水源、エゼキエルの神殿の中の泉、クリスチャンの腹、「女の泉」は、すべて聖霊の源の象徴であり、それゆえ、すべて神聖なものです。

性や性器を汚らわしいものと見る見方は、聖書にはなく、今日我々がそれらのもの自体を卑しむ傾向があるのは、ギリシャの霊肉二元論の影響からです。聖書には「霊は貴くて、肉体やそれに属する欲望は卑しい」という発想はありません。(**)




(**)
先日、ICにおいて、聖書考古学者ロン・ワイアットが撮影したビデオの上映会がありました。出エジプト記の民の行程を記述どおりにたどり、映像に記録したものです。

紅海を渡ったと思われる場所は、細い谷の道から出た扇状の砂地でした。民は、両側に高い山を見ながら、この細い道をたどって紅海の岸辺にたどりついたのです。前には海が広がるだけで、ほかに逃れる道がありません。後ろに戻ろうとしても、エジプトの軍隊がこの一本道を通って迫っているので引き返すことができません。

聖書は、この絶体絶命のピンチのときに、モーセが海を杖で叩くと、海が割れて道ができた、と述べています。

事実、この地点の海底図を見ると、民が渡ったと思われる部分の下は、そこだけ海底がせり上がっており、天橋立のような砂州の地形になっていました。ダイバーが潜ったところ、この場所から、古代の戦車の車輪が発見されました。

メリバの岩と思われる岩石が映し出されましたが、それを見て非常に驚きました(この地は、現在サウジアラビア領で立ち入りが困難であり、また人に知られていない場所であるため、ほとんど人の手付かずの状態にあります)。

この岩は小高い丘の上に立っており、女性器の形をした大きな自然石でした。神秘的なのは、それから少し離れたところに男根の形をした自然石が立っているのです(この石は、画面の中に一瞬の間、偶然に映っているもので、それについてはいかなる解説も、画面の中において取り上げられてもいません)。

これを見て、我々が男女の性器を見る見方と、神がそれをご覧になる見方とがまったく違うことを感じました。

性器を含め、我々の肉体のあらゆる部分が神を象徴していることに驚くと同時に感謝しました。

 

 

03/04/15

 

 

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