病と死の原因

 

<ご質問>
病と死の原因は罪ですか。

<お答え>
病気や死は、もともと人間にはなかったものです。
創造は完全でしたから。
アダムが完全に契約を守れば、神はアダムに永遠のいのちを与えるはずでした。
しかし、堕落したために、永遠の呪いを被ることになりました。
神は世界の秩序を回復するために、キリストを送り、キリストにアダムが失敗した試験に合格するように戒めを完全に守らせ、その功徳を人間に受け継がせました。
また、人間が犯したすべての罪の責任を取らせるために、十字架につけて刑罰を受けさせました。
私たちは、この二重の恩恵(1)契約の完全遵守による功徳の継承(2)十字架による罪の完全赦免によって、永遠の生命を受ける権利を得ました。

キリストを信じる人々は、この神の恵みによって、死と病から完全に解放されました。

(1)病

今日、クリスチャンでも病を体験しますが、意味はまったく違います。もはや病に刑罰の意味はありません。それは、訓戒と警告と訓練のためです。

クリスチャンでも、罪の残滓がありますので、堕落の性質から逃れることはできません。自分の心には聖霊がいらっしゃいますので、善を行いたいという願いが常にあります。しかし、肉は罪の性質を帯びているので、その善を行わずに罪を行ってしまいます。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」(ローマ7・15-21)

クリスチャンには、この内的分裂が生涯付きまといます。

それゆえ、クリスチャンには訓練が必要であり、罪に安住しないように訓戒や警告が必要です。

神は、病を通して我々に訓戒や警告を与え、正しい道に帰してくださいます。また、ヨブのように、さらに高いレベルの信仰に導かれるために病におとされることがあります。病を経験することによって、信仰が深められることがあります。

(2)死
クリスチャンは死にません。ノンクリスチャンと同じように肉体は滅びますが、それは死ではありません。新たな生命への入口なのです。もしそれが死と呼べるとしても、死にはもはや刑罰の意味はありません。もし刑罰の意味があるならば、キリストの罪の贖いは不完全であったということになります。死は、人生の完成であり、完全な生命への入口です。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(ヨハネ11・25-26)

それでは、クリスチャンでも刑罰の意味しかないような死に方がありますがどう考えたらよいのでしょうか。
例えば、アナニヤとサッピラの例(使徒5・1-11)です。
それは、2つの可能性があります。

(1)新生しておらず、そもそも救われていなかった場合

彼らは、そもそも新生していなかったのです。なぜならば、彼らは神を欺き、聖霊を欺いたからです(3節)。クリスチャンは、イエスの主権を認めている人々です。口先で「イエスを信じます。」と告白していても、イエスの主権を認めず、人の前でイエスを否む者は赦されず永遠の刑罰に定められます。

「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12・8-9)

神を欺き、聖霊を欺く人々がイエスの主権を認めているはずはありません。欺くという行為そのものが主への恐れが欠けていることを示しています。彼らは、偽クリスチャンでした。

(2)それ以上罪を犯させないため
パウロは、コリントの教会で姦淫を行っている人のことについて述べています。

「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主{イエス}の日に救われるためです。」(1コリント5・1-5)

パウロは、その罪を犯している人を裁き(つまり、「除名し」)ました。それは、「彼の肉が滅ぼされるため」でした。除名された人は、サタンの領域に入ります。教会の外においては、人々はサタンの支配下にあるからです。サタンは、彼を自由に扱い、病に落とし、場合によっては彼の生命を取り去ることがあります。しかし、それは、彼が病や死の危機に瀕して、不品行を悔い改め、「彼の霊が主{イエス}の日に救われ」るためです。もし死に瀕しても悔い改めないならば、そのまま地獄に行くしかありませんが、悔い改めれば肉体は滅んでも霊は救われて永遠の生命にあずかります。

 

 

02/04/06

 

 

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