神を疑ってはならない

 

近代哲学は、「我思うゆえに、我あり。」とのデカルトから始まったといわれています。
この認識の方法は、人間から出発するので最初から間違っていたのです。
近代以降、人間は、神すらも評価の対象とするようになりました。
現代の教会や牧師、教師たちが「バルト主義」や「無律法主義」などの誤謬に陥りやすいのは、この認識方法が間違いであることに気づいていないからです。
彼らは、平気で、聖書と異なる教えを言います。聖書すらも自分の目で評価できると考えているのです。
世界が無から造られ、基準も何もかも神から出たのであれば、神や御言葉を裁くことはできません。
もし、神が「○○は悪である。」と述べられたのであれば、人間は「いや、それは違いますよ。」とはいえません。御言葉を聞いたら、ただひれ伏して「わかりました。」と言わなければならないのです。
人間同士の間において、互いに評価し合うことは可能です。なぜならば、人間は、基準の下にいるからです。
「△△さん、あなたの言っていることは間違っている。」ということは可能です。
しかし、神に対して「神よ、聖書においてあなたはこう述べておられるが、それは違うと思います。」とは言えません。
神は基準をも創造されたので、基準の上におられるからです。
もし、神や御言葉に対して疑いをかけたり、異議を唱える人がいるならば、その人は、「神の創造の前に永遠の基準が存在していた」という異教の考え方を表明していることになります。彼は、知らずに、「無からの創造はなかった」と表明しているのです。
それゆえ、人間が神に対する場合、「信仰」しか選択はないということになります。
人間は、神が存在すること、そして、神が述べられたことはことごとく絶対の基準であると信じなければならないのです。
それに対してわずかでも疑いをかけることは許されないのです。

神や御言葉は、評価の「基準」であって、評価の「対象」ではありません。
ノンクリスチャンが、我々に向かって、「それでは盲信ではないか。」と問い掛けてきても、「そうです。創造者に対しては、盲信以外に選択肢はありません。」と答えねばなりません。

そして、むしろ、我々は、彼らにこう尋ねなければなりません。

「あなたは、1mの原器(1mを定義する基準器)を前にして、『これは1mか?』と疑いますか?」と。

19世紀から20世紀にかけて、教会は、神をも評価の対象とするという、ノンクリスチャン哲学の誤謬に飲み込まれました。
世界におけるキリスト教の退潮の元凶は、この「不信仰」にありました。進化論の登場などにより、クリスチャンが聖書の記述に疑いを抱くようになりました。信仰の土台を破壊されたクリスチャンの間には動揺が広がり、次第に力を失い、自分の子供たちをヒューマニストに奪われてしまいました。

本当のリバイバルとは、神と御言葉に対する絶対信頼から生まれるものです。もし、これからも、教会がこの誤謬の中にとどまるならば、我々は、キリスト教の再興を期待できません。

 

 

02/09/27

 

 

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