死後のセカンドチャンスについて4

 

聖書は、「生きている人々が、キリストを信じて、救われて、神の民となり、この地上において神の栄光をあらわすにはどのようにしたらよいか。」ということを主題として書かれており、「死後についての『自然科学的もしくは形而上学的知識』を提供し、人間の知識欲を満足させるために記されているのではない」ために、詳細な記述がないと考えられます。

死後のセカンドチャンスについて詮索したり、聖書の終末預言、聖書の暗号などについて興味をもって記述している現在の聖書研究者たちは、この聖書の主題を見失っているため、大きな間違いを犯しているのでしょう。
聖書を神の御言葉としてではなく、ノストラダムスの大予言とか、秘密の古代文書に対するような気持ちで扱っているため、本来のテーマから大きくずれてしまっているのでしょう。

聖書が、このような主題で書かれている以上、「幼児において亡くなった人々」、「堕胎によって殺された人々」などについては、原則として「触れられていない」と考えるべきと思います。
「人間は信仰がなければ滅びるのが当然」という聖書の主張を徹底すると、「これらの人々が滅んでも当然」という結論が当然のことながら導き出せるのですが、しかし、神がこれらの人々の運命について彼らの死後、どのように対処しておられるかは記されておらず、それゆえ我々には不明なので、この原則から演繹的に結論を導き出して断言するべきではないと考えます。もしかして、夭折した児童、堕胎児については、特別の救いが用意されているかもしれません。誰もこれらがないとは断言できないでしょう。

ラザロと金持ちのたとえにおいてはっきりと言われているのは、福音を聞いた成人がその福音を拒絶した場合に救いは残されていない、ということだけです。ですから、ユダにも救いの可能性はあるということは間違いなのです。

死後の世界について私たちには、聖書以外に検証する手段がまったくないのですから、救いがあると言うにしろないと言うにしろ、聖書を越えて述べることは一切許されていないと思います。このような知識は、「神にのみ属する」ことであり、我々には知る必要がないこととして、神が啓示されなかったと考えるべきだと思います。私たちが天に召された時に、すべてのことは明らかになるでしょう。

私たちが知らなければならないことは、「神の民として身分を回復するためには、キリストを信じなければならないこと、そして、キリストを信じた人々は、世界のすべての民族を弟子化し、万物を神中心の秩序に回復するために働かねばならないこと」だけです。

現代流行の神学は、人間中心主義に影響されているため、教会人の意識は「人間の救い、人間の幸せ」を中心に回っています。そのため、人間の気持ちを満足させるということに目が奪われてしまって、知らなくてもよいことまで知ろうとするのです。今日の全体的な風潮を一言で言えば、「的外れ」ということになると思います。

 

 

02/09/09

 

 

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