教会は二重予定説を受け入れるべきである

 

<ご質問>
このカルヴァンの二重予定説はいただけない。

<お答え>
これは、「カルヴァンの」ではなく、「聖書の」二重予定説なのだ。聖書はハッキリと永遠の昔から救われる人々と滅ぶ人々は予定されていた、と述べている。

そもそも、原理的に考えて、もし救いが予定されていないならば、神は絶対者ではないということになる。神が、福音を伝えて、その伝えられた人々がどのように反応するかを、神があらかじめ決定されていないのであれば、神は人間の行動によって影響を受けることになる。神は、伝道集会の結果に一喜一憂するのだろうか。

「ああ、よかった。今日は決心者がたくさんいた。」

「残念だ。この場所ではあまり成果は期待できそうにもないな。」

と。

このように思うのは、人間である。

神も一緒になって、招きの時間になると、そわそわするはずはない。

影響されるものは、相対者であり、絶対者は、いかなるものにも影響されない。絶対者は不動の基準である。

絶対者は、絶えず能動的である。自分が決めたこと以外のことが予期せずに起こることはない。

神は、永遠の昔に、この世界において起こる一切のことをあらかじめ決定された。現在我々の目の前において起こることは、ことごとく神の計画に従っている。素粒子一つの運動ですら神の計画によらずに起こることはない。

これと異なる神は、すべて、それがどのような名前がつこうとも、「偶像」である。神を救いの予定者としないことは、神を非絶対者とし、被造物化するからである。

我々は、被造物を礼拝することを許されていない。

二重予定説を否定するキリスト教は、本当のキリスト教ではない。その本質は偶像礼拝である。神を非絶対者とし、被造物化することによって、アルミニウス主義は、偶像教になった。教会が、アルミニウス主義から離れなければ、真のリバイバルは起こらない。教会は二重予定説を受け入れるべきである。

 

 

02/05/29

 

 

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