霊の見分けを!2

 

> しかし、按手で倒れるのを十把一絡げにして、悪霊とかサタニストというのもどう
か、と思います。
>「角笛企画」のお話だけで即断するのは良くないと思います。

たしかに、そうですが、按手して「倒れる」という形態に異様なものを感じてしまう
のです。
聖書の中に、按手して倒れるということが行われたのを読んだことがありません。
ダニエルやイザヤ、弟子たちが、神の威光に出会って、倒れて死んだようになったと
いう記事はありますが、按手は倒すためではなく、人をある御国の働きに遣わし、
「立たせる」ために行われます。
また、「誰にでも軽々しく按手をしてはならない」(1テモテ5:22)という警告もあ
りますから、手当たり次第に按手しているのを見ると、少なくとも聖書的ではないと
思います。

> トロント・ブレッシングは、少なくとも私が知る限りにおいては、聖霊様の御業で
あり、TACFの教役者
> の先生方は愛の器であると思います。讃美でも、「神の基準を世の人に示そう」と
か「神の御国の建
> 設に力を注ごう」というのが増えていました(ポスト・ミレ??)
> 私もTACFに何度か行きましたし、日本での聖会にも参加しましたが、私の病は快方
に向かい、家内
> のあちらこちらの痛みは癒され、家族の絆が強くなりました。

あのビデオは、かなり以前に私のHPを読んだ方からビデオCDでもらったのです
が、再生機器がないために中身を見ることができませんでした。
しかし、Eric Wright の"Strange Fire"(Evangelical Press, Durham, England,
1996)を読んで、そこで起こった、以下の異様な現象に強い違和感を覚えておりまし
た。

<笑い>
「聖なる笑い」を始めたロドニー・ハワードブラウンは次のように述べています。

「ある晩、私が地獄について語っていると、会場全体から笑いが起こった。地獄がど
のような場所かについて語れば語るほど、その笑いは大きくなって行った。」
(p.83)

地獄について語ると笑いが起こる、というのは、明らかに異常です。
神は「秩序の神」である以上、本当の聖霊に満たされた人々は、神の聖なる裁きにつ
いて畏怖を覚えるはずです。

聖霊の現われは、あくまでも「常識的」に現れるはずです。「常識的」と述べたの
は、真の聖霊の現象は、非カリスマ・ペンテコステ派のクリスチャンや、ノンクリス
チャンが見ても、「異様さ」を感じず、むしろ、「秩序」と「聖さ」を感じさせるは
ずだからです。

パウロは、第1コリント13・5において、「愛は、礼儀に反せず」と述べています。こ
の原語oukh aschmonewという言葉は、"not act unbecomingly" すなわち、「無作法
をしない、見苦しい行いをしない」ということです。

クリスチャンは、他人が見て、「見苦しい」と感じるような行動を取ってはならな
い、ということなのです。

しかし、トロント・ブレッシングでは、際限のない笑いが起こったといいます。
メッセージが行われている間でも笑いが止まらず、「少しトーンを下げてください」
といわなければ話を続けることができないほどだったといいます。これは、明らかに
「混乱」です。

ある牧師の娘さんは、ヴィンヤードの「預言者」マーク・デュポントから指さされた
だけで「ハッ、ハッ、ハッ!」と笑い出し、その場に倒れました。彼女は、その後
も、23時間ぶっ通しで笑い続け、時々突然発作的に眠りに落ち、起き上がるとまた笑
い続けました。彼女はあるクリスチャンスクールの教師をしていたのですが、彼女が
あまりにも笑うので、秘書や生徒たちまでもがつられて笑い出し、それが全校に波及
し、ついに休校にせざるを得なくなったそうです(p82)。

これが聖霊の働きでしょうか?

「聖霊に満たされると喜びに満たされる」というは正しいのですが、その喜びが、コ
ントロール不可能な笑いになり、日常生活を不可能にするほどになれば、「行き過
ぎ」といわねばなりません。(*)


<泥酔>
その他にも、トロント・ブレッシングには、「聖霊による泥酔」の現象があったとい
います。

その影響でしょうか、ベニー・ヒンが日本に来た際に、講壇の脇に座っていたある指
導的牧師が「聖霊に酔っ払」い、ふらふらになってまっすぐに歩けなくなりました。

「酒に酔うな。聖霊に満たされよ」との聖句は、「聖霊に酔え」という意味ではな
く、「聖霊に完全に支配されなさい」ということです。聖霊の思いに完全に服従でき
る状態を指します。

そして、この聖霊は、人間の意志と不調和に働くのではなく、あくまでも秩序正しく
働かれるのです。人間を引きずりまわし、自分の思いとは無関係に勝手に働くことは
なさいません。

「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。 それは、神が混乱の神で
はなく、秩序の神だからです。」(1コリント14:32)

ペンテコステの日に、使徒たちは、「酔っ払いのように」なったと考える人がいます
が、ペテロは、整然と、数千人の人々の前でメッセージをすることができました。ど
こにもあのような混乱があったとは記されていません。


<動物の鳴き声>
また、トロント・ブレッシングでは、動物のように吠えたける人が現れました。

「2人の人が犬のように吠えはじめた。狼の遠吠えや月に向かって吠える犬の吠え声
も時折混じった。」(Nick Needham, 'Have we gone mad?,' Bannner of Truth
magazene reprinted with permission in Jaiza, May 1995, p.4. cited in
'Strange fire?, p.34.)

ロバート・フーは、Toronto Life Magazine で次のように述べました。

「私の隣に座っていたカリフォルニアから来たドウェインという名前の男は、手負い
のライオンのような吠え声を上げた。…彼らは、狼のように吠え、ロバのようにいな
ないた。反響板の側に立っていたある若者は、野生の鶏のようにコッコッコッと鳴い
た。」(Cited by Beverley, Holy Laughter and the Toronto Blessing, p. 12,
from Robert Hough, 'God is Alive and Well and Saving Souls on Dixon Road,'
Toronto Life Magazine, Feb 1995, p. 31., cited by 'Strange Fire', p. 88.)

このような現象は、聖書が教える「神の似姿としての人間」の尊厳と矛盾します。

聖書の中で、聖霊に満たされた人間が動物のように鳴くなどという記述はありませ
ん。むしろ、神が人間を祝福される時に、人間は、キリストの身丈にまで達するほど
に本来アダムが持っていた人間の尊厳を回復してくださると述べています。

私には、これは、「悪霊の現象」としか見えないのです。
悪霊に憑かれた人が、動物のまねをすることはよく知られています。森本師は、悪霊
に取り憑かれて、狐のように跳びはねる女性から除霊しました。


<最後に>

「預言、病気の癒し、除霊、奇跡の能力は、その術者の信仰の証拠にはならない」と
いうことを聖書は述べています。

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなた
の名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇
蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう
宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから
離れて行け。』 」(マタイ7・22-23)

つまり、私たちは、その教師や伝道師の本性を、「預言や神癒、除霊、奇跡の能力」
によって見分けることはできないのです。

ある働きを評価するならば、あくまでも、聖書が示した基準による以外にはありませ
ん。



(*)
トロント・ブレッシングの影響なのでしょうか、デイブ・デュエルというメッセン
ジャーも同じような笑い方をしていました。彼は、講壇から「イエスはハッピーなお
方でした。アハハ、アハハ、と笑っておられたのです!」と言いました。これを聞い
た時に、私は、非常に嫌〜なものを感じました。

「聖書のどこにそんなことが書かれているのだろう。」

あの集会は、なんとも言えないよどんだ霊が会場に漂っているようで、一刻も早くこ
の場から立ち去りたいと思いました。

 

 

03/01/27

 

 

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