感謝!

 

<ご質問>
富井様

ホームページの上の方から読ませていただき、質疑応答・エッセイ集のバックナンバーをやっと読み終えた所です。結構なボリュームでした。あれだけのものを続けてまとめられるのは大変な努力を要されたものと思いますが、おかげさまで再建主義がどのようなものであるか少しでも理解が深められたような気がします。

以前より現在のキリスト教の姿が聖書にあるものとはどこか違うかもしれないことに気づいてはいましたが、ようやく納得のゆく答えを見つけることができたと思います。

どうも多くの教会は単なるサービス産業の一種のようになっているようにも見えます。あまり魅力を感じません。日本のクリスチャンが1%をなかなか超えないのは教会が騙され、本来の働きを封じられてしまっているためであると思っております。最初の教会が持っていたダイナミックなパワーはどこへ行ってしまったのだろうかとよく考えます。勝利を約束されたものの歩みとは見えないのが寂しいです。

私はイエスの弟子のそのまた弟子の何代目かであると自負しており、決して福音を恥とすることがないものですが、今の教会の現実の姿をみると自分が教会に加わっていることを公に宣言することをためらいたくなるときさえあります。教会は変えられてゆく必要があると思います。いままで一人の信徒として活動してきましたが、神学や聖書解釈の面で教会や教団そのものに影響を与えてゆくことができる立場の者になってゆこうと思っております。腐ってしまったように見える文化や芸術、経済や政治がクリスチャンの手によって神が意図された本来の姿に塗り替えられてゆくのを今の時代に是非見て体験したいと思っております。

そういうわけで、私は今後神学校や聖書学校で学んでゆこうと計画しておりますが、神の御心よりも神学や教団や牧師のプライドなどを優先するようなところでは学ぶつもりはありません。そのため慎重に学校を探しております。現在の日本では難しいかもしれませんが、再建主義に立った講師がいらっしゃるような神学校や聖書学校をもしご存じなら日本海外を問わずお教えいただきたく思います。特に聖書の律法について本質を学び直す必要を感じており、そのことがこれからの教会にとって必要不可欠なものになるだろうと思っております。

それから『現代に生きるための旧約律法』(G・バーンセン著床田亮一訳 聖恵授産所刊)を入手しようと試みたのですがどうも入手が難しそうです。日本語訳でなくてもかまわないのですが入手する方法はないでしょうか?こちらもおしえていただければ幸いです。

<お答え>
大変貴重なお証しを感謝いたします。
まさに、私がこの働きをしていた甲斐があったというものです。
主に感謝します。

神は、現在のキリスト教を正しい道に帰そうとしておられると思います。そして、そのために、残りの民をとっておかれ、次の世代のリーダーとする計画であろうと考えます。

私が大学時代に体験した聖霊の働きのダイナミズムを、今日教会において見ることはできないように思われます。当時、牧師先生たちは真心から人々の救いを求めて純粋な福音を説いていたように思います。

しかし、教会成長学や心理学などが教会の中に侵入し、教職者たちが大教会の建設に色めきたち、教えを薄め、この世の基準に合わせ、相対主義を受け入れるようになって、次第に地の塩としての役割を失っていったように思います。

正統的な教理を否定したために失った力を得ようと、超自然的な体験、恐らく暗示によると思われる「卒倒」、聖書に基づかない主観的預言、オカルトまがいの霊の戦い、ヒューマニズム心理学の受容など次から次へと流行を受け入れ、次第に本来の福音から遠ざかり、サタンの手中に入ったのが、ここ十数年の流れではないかと思います。

私たちが人を愛する場合、相手の立場に立ってものを考えるものですが、もし本当に神を愛するならば、神の側に立ってものを考えるべきです。

私たちの希望とか願いではなく、神の願いを中心に考えるべきです。そうするならば、クリスチャンは、当然のことながら、聖書に何が書かれてあるかに注目するはずです。自分の主観を捨てて、聖書そのものを真摯に学ぶはずです。

しかし、今日の教会は、聖書が何を言っているかよりも、「どうやったら我々は恵みを受けられるか」ということだけに注目しているように思えるのです。だから、聖書の大きな流れ、本筋というものを無視するのでしょう。

預言を強調するというある集会に出席したことがあります。信徒が次々と立って、あたりさわりのないことを次々と「預言」していきます。私は、このような預言を聞いても空しさしか感じませんでした。なぜ、聖書に書かれた神の言葉に対する飢え渇きがないのか?なぜ、どうしたら神の御心を成就できるか、に関心を示さないのでしょうか。

私にとって、これは非常に不思議です。本当のクリスチャンならば、「神は私たちを通して、大きなことをするとおっしゃっています。」という言葉よりも、「神は聖書においてこのように言っておられます。」という言葉を聞きたいと思うはずです。

異端の特徴は、聖書に書いていないことを言うだけではなく、聖書が強調していないことを特別に強調し、聖書が強調していることを強調しない、というところにあります。例えば、エホバの証人が、「血を食べてはならない」という言葉をやけに強調するように。

私は、今日の教会が異端化した大きな原因は、救済論の過度の強調だと思います。本来の救済とは、「魂」だけではなく、「あらゆる非聖書的なもの」からの救済です。人間は、全人的に救済されなければなりません。あらゆる異教的なもの、サタン的なものから聖められることが真の救済です。

そして、その救済とは、けっして人間が中心にあるべきではなく、あくまでも「神の栄光を表すための救済」であるはずです。なぜならば、私たちは自分が幸せになるために創造され、生命を与えられたのではなく、(語弊はありますが)神が幸せになるために創造されたからです。

もし、このように神を本当に愛するならば、神の御心の中心にある、「御名があがめられ、御国が来、御心が天で行われるように地上でも行われる」ことを第一の目標として生活を整えるはずです。

キリスト教は、異教と完全に決別する時代に入ったと思います。あらゆる異教的なもの、ヒューマニズム、非神中心的キリスト教から脱却し、本物を求めなければなりません。

そのためには、我々が常識としていること、我々が受けてきた教育、現在の思潮がどのようにそれらの教えに影響されてできたかについて詳しい分析をする必要があるのです。

ヒューマニズムの心理学などをそのまま受け入れたために、教会に無律法主義がはびこりました。ある有名な牧師は家庭内暴力をする息子について相談されたときに、「殴らせておきなさい」と言いました。聖書は、「父母に手を挙げる者を処刑せよ」と述べています。「手に負えない非行を働く息子を裁判にかけろ」とも述べています。

今日の教会は、このような御言葉を聞いたときに、「こんなひどい教えには耐えられない」と言うのです。では、私は、彼らに聞きたい。

「あなたは、聖書を神の言葉と信じますか?」と。

「聖書信仰」を標榜するならば、創世記から黙示録まで丸ごと神の権威として敬わなければ、それは敬ったことにはならないのではないですか、と。

私たちは、神よりも賢いはずはありません。

まずへりくだることです。へりくだって、神の御言葉に全的に降伏することです。

もし私たちが神を「主」と呼ぶのであれば、神がこうだ、と述べられたら、ただ平伏して「ごもっとも」と言うしかないのです。

聖書が強調するように強調し、聖書が強調しないように強調しない、という従順な姿勢がなければ、これからも、教会は分裂を繰り返し、我を張りとおして力を失い、この世にいかなるインパクトも与えることができず、サタンに漁夫の利を与えることになるのです。

正しい教えを聞いたら、それを無視してはならないのです。神はそれほど多くのチャンスを下さるわけではないからです。

私は、真に献身をしている少数のクリスチャンだけでこの世は変わると考えているので、どれほど我々とともに立つ人々がいるかは問題にはしていません。貴兄のお証しを聞くことができて、今日は本当に感謝しました。

さて、再建主義の神学校や聖書学校として推薦できるのは、バーンセン神学校です。インターネットでも受講できます。修士の資格が得られます。http://www.scccs.org/

教授陣には、ケネス・ジェントリーや、ジョセフ・モアクラフトなど著名な再建主義者が含まれます。

『現代に生きるための旧約律法』は、恐らく福音総合研究所(http://berith.com/)で注文できると思います。もし邦訳がなければ、"By This Standard"(Greg L. Bahnsen, Institute for Christian Economics, Tyler, Texas)で、http://www.amazon.com/で注文できると思います。また、http://www.freebooks.com/sidefrm2.htmから無料でダウンロードできます。

今後のご活躍を大いに期待申しあげます。感謝。

 

 

02/04/19

 

 

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