割礼と洗礼の連関

 

私は、バプテストの中のバプテストと呼ばれる派において洗礼を受け、何年か通っていました。私の信仰のルーツはバプテスト派にあると言ってよいと思います。
私の記憶では、バプテスト派の人々が幼児に洗礼(彼らはバプテスマと呼ぶ)を授けない理由は、子供の間はバプテスマの意味、救いの意味について頭で理解できないから、ということです。
幼児洗礼を授ける改革派系の教会において、現在児童に聖餐を与えないのも同じ理由からです。(それゆえ、契約的取り扱いという一貫性から言えば、受洗した幼児にも聖餐を授けるということは当然といえます。洗礼が契約に入る儀式であり、聖餐が契約更新の儀式であるならば、契約に入った者に契約更新の儀式に参加させないということは明らかに矛盾しており、首尾一貫性を欠いております。)

割礼は、神の恵みの契約の中に入るための儀式です。新約聖書においては、それは、洗礼になりました。
ですから、もしクリスチャンを神の契約の民とみなすならば、旧約聖書の割礼が新約聖書の洗礼に代わったとするのは当然といえます。そして、もちろん、パウロは新約のクリスチャンを霊的イスラエルと呼んでいるわけですから、かつてイスラエルに与えられていた地位は、現在、クリスチャンに与えられていると考えるのは当然といえます。
イエスは、「神の国は、実を結ぶ国民に移される」と言われました。
今日において、もはやイスラエルだけが神の契約の民とは言えず、誰でも信仰によってイエスを主とする者は、神の民であり、恵みの契約の中に入っています。もはやユダヤ人もギリシャ人もないのです。

 

 

02/09/10

 

 

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