超自然と人間の常識

 

何かのメッセージを聞いて、「この教えは、おかしい」と我々が感じるのは、一つに聖霊がうちにあるからである。

聖霊は、「真偽」を判別する力を我々に与えてくださる。

しかし、聖霊だけですべてが分かるわけではない。

なぜならば、人間の肉には、聖霊を打ち消して自分の思いを優先する堕落性が残っているからだ。

もし人間の常識が幅をきかせてもよいということになれば、復活など信じられなくなる。

「え〜!死人が復活した?? 冗談でしょう!」と。

人間の判断を究極とすることによって、2つのタイプが現われる。

(1)超自然を徹底拒否する。
(2)超自然を無制限に受け入れる。

奇跡や超自然を完全否定する人々も、それらを何でもかんでも受け入れる人々も、どちらもバランスを欠いており、間違いを犯している。

我々は、聖書を最高権威とし、聖書の制限に従って、超自然現象や奇跡を受け入れるかどうかを判断する以外にはない。

「昨晩、私の枕元に天使が現われて、私にこう言いました。」という人の証言を、正しいとするか間違いとするかは、絶対に人間の常識によってはならない。

もし常識に頼ることが正しいのであれば、聖書記者は、御使いによる受胎告知の証言を否定しただろう。彼らは、このマリアの証言を「ばかげた妄想」として退け、それを聖書の中に記さなかっただろう。

もし常識に頼れば、イエスの復活の出来事も、記されなかっただろう。

なぜならば、当時の人々ですら、これらの超自然は「ばかげたこと」だったからだ。アテネの人々は、パウロが復活について話し出すと、「その話はまたの機会に聞こう」と言って相手にしなかった。もしキリスト教を世界宗教にしたいのであれば、文明国の人々向けに、これらの超自然の記事を除くのが自然である。

また、人間は、超自然を無制限に受け入れるという弱さも持っている。テレビで宜保愛子の霊視を見ると、「やっぱり先祖供養をしなければ!」と彼女の発言をまるまる受け入れる。占い情報があると、それに聞き耳を立てて、一日をそのアドバイスに従って送る。

このように、人間は、超自然のことについては、ほとんど無知なのであるから、それについては、厳密な制限を与えられて、それに従う以外にはない。

超自然の徹底否定も、無限受容も誤りである。

我々が超自然の世界について正しい健全な理解を得るには、超自然の世界について完全な知識を持つ神が人間に啓示してくださったこと、すなわち、聖書に全的に依存する以外にはない。

「天使が…」と言う人々のことを馬鹿にするのも間違いだし、また、聖書を調べずにその証言を受け入れるのも間違いである。

どちらの極端に傾くのも自らに滅びを招く。

だから、死者のセカンドチャンスについて、正しく判断する唯一の方法は、聖書を調べることである。それ以外に方法はまるでない。

もしそれを主張する人々が、「あの立派な人々は福音を聞かずに死んでしまったのです。彼らが、永遠の地獄で苦しむなんて耐えられません。」という根拠だけから、それを唱えているならば、まったくもって人々を惑わす偽預言者といわねばならない。

そのような「人間的良心、憐憫」に頼っているのは、まだ自我が磔殺されていないからである。

神によってへりくだりに導かれていないからである。成功者の器にまで成長しないうちに成功を与えられたからである。

自分の常識、判断、理性に対する徹底した絶望がなければ、我々は真の聖書信仰になることはできない。

歴史上、異端者の多くは社会的に立派で、成功した人々であった。

人間は成功すると、自分の判断がなにもかにも最高だと誤解する弱さを持っている。

「勝って兜の尾を締めよ。」

 

 

02/05/09

 

 

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