契約の制度的側面と実質的側面

 

聖書において、洗礼を与えるべき者とは、イエスを主と告白し、罪を悔い改めている者である。
この条件がそろえば、誰でも恵みの契約のメンバーになれると記されている。
それでは、次のような疑問が起こるだろう。
「その人がただ感情的になって救いを受け入れているだけの場合もあるのではないか。そのような人に洗礼を授けてもよいのだろうか。」と。
そこで、ある教派では、牧師が、本当に受洗希望者が回心し、生まれ変わり、聖霊を受けているかどうかを、その様子から判断する権威を持つとしている。
しかし、これは、聖書のどこにも記されていない。
人間は、他人の内面がどのようなものであるかを知らない。
もちろん、ある程度の察しはつく。しかし、その察しが本当に正しいのかどうかはわからない。
人間に与えられている権威とは、あくまでも聖書に記されている「契約のメンバーになる条件」を満たしているかどうかを「外面的にチェックすること」だけである。
だから、我々は、この条件を満たす人々を新しいメンバーとして受け入れなければならない。
そこに、我々の主観的判断が介入してはならない。
「この人は本当に救われているのだろうか。」という疑問を抱いてはならない。
もし、その受洗希望者が、誰の目にも明らかな罪を犯して、口で悔い改めを唱えてはいるが、行いにおいてそれと正反対のことをしているのが明らかな場合には別である。
しかし、外面的にいかなる問題もなければ、彼を受け入れるべきである。
彼が本当に回心しているかどうかを詮索してはならない。
「この人は口では信じますと言っているが、どうも怪しい。私は彼を受け入れない。」と言ってはならない。
なぜならば、我々に与えられている権威は、人間の内面にまで踏み込むことができないからである。

この限界を超越することができると考えるときに、教会は「新しい神」となる。
人間の内面に踏み込んで、誰が救われているか誰が救われていないかを人間が決定できるとするのは僭越の罪である。
このように限界を踏み越えた教会では、牧師が教祖になっていることが多い。
聖書に記されていない権限が次々と牧師や教師に加えられていく。

そこである人はこう言うかもしれない。
「厳密に人を評価していかないと、洗礼を受けたけど、離れていく人が多くなりませんか。」と。

それは、仕方がない。
我々は、あくまでも「人間の外面しか見れない」からである。

ある教派の牧師が、ある、まったく何の問題もない兄弟に向かってこう言った。
「○○さん。あなたは自分が救われていると思いますか。」
そこで彼はこう答えた。
「はい。私は、イエスを主と信じていますから。」
「そうですかねえ。」

このような発言は、牧師として絶対にしてはならない。
もし、その兄弟が罪を犯しているのが明らかになっているのであれば別である。しかし、そうではなく、いかなる外面的な問題を持っているのでなければ、牧師にしろ、信徒にしろ、兄弟姉妹の救いについて疑ってはならない。

また、あるアルミニアンの牧師が、説教壇からこう言った。
「この教会員の中で、いったい何人が救われて天国に行けるでしょうか。」

これもおかしい発言である。
主イエスを告白し、洗礼を受けて、教会が取り扱う種類の罪をまったく犯さず、教会に出席している人は、全員クリスチャンであり、神の民である。永遠の御国を受け継ぐ資格をもつ人々である。
神の民に向かって「あなたは救われるか?」と尋ねてはならない。
我々は、教会員を神の民として扱い、ともに永遠の御国を受け継ぐべき人々として扱い、互いに愛し合うべきである。
それを、牧師の判断によって「どうも怪しい」といってはならない。
たしかに、表面に出てはいないが、背後の生活において何か罪を犯しているような感じのする人々はいるかもしれない。
しかし、これは、あくまでも「印象」の領域であって、その印象を根拠に、兄弟姉妹に対して何かの言動を行うことは我々には許されていない。
イエスを信じて、彼が主であると告白し、罪を悔い改めているならば、全員兄弟姉妹である。それが、1日だけの新しいクリスチャンであっても、我々は兄弟姉妹として扱わねばならない。どんなに変な印象を与える人であっても、彼または彼女をクリスチャンとして受け入れるべきである。

ちなみに:アルミニアンは、人間は半分だけ自分の力で救われると考える。救いは神と人の共同作業だと。
だから、救いについても人間主導でそこから落ちることもある、と考える。しかし、カルヴァン主義者は、人間は自分の力によって救われたのではなく、神の選びによって、100%の恩恵によって救われたと考える。だから、一度救われた者が、救いからもれることは絶対にない。これを『聖徒の堅忍』の教理という。
アルミニアンの牧師が、クリスチャンに対しても、救いを疑うような発言をするのには、このように『聖徒の堅忍』の教理を信じていないからでもある。

イエスが、「我々に互いに愛し合いなさい。」といわれたのは、「内面をチェックした上で」という条件付ではない。

外面的に信仰を告白して教会員になっているすべての人を例外なく愛さねばならない。

神は人の内面をよくご存知である。しかし、我々は、それについてほとんど何も知らない。

日本の文化は、人が扱える領域についてはっきりとした区別をしない。人間の内面と外面を区別して扱わない。
だから、クリスチャンでも、人の内側にずかずか入り込んで説教する人が多い。
「私はあなたのことをよく知っている。あなたは、傲慢だ。」などと。
日本文化は、「内面を扱うことができるのは、神お一人しかいない」ということを知らない。
我々が人を訓戒できるのは、ただ、その人が外面的に明らかな罪を犯した場合だけである。

キリスト教は、「公開契約」の宗教である。オカルトや秘密結社のように、「秘密の契約」を結ばない。
だから、キリスト教において「言葉」や「具体的行動」は重要なのだ。
人のしぐさとか、様子、感じ、印象などは、二次的なものだ。
キリスト教において、「腹芸」は禁物である。

我々が扱わねばならないのは、その人のしぐさとか、様子、感じではない。
「言葉」と「具体的行動」である。
その人が実際に、何を述べているのか、何をしているかが重要なのだ。

このような区別をしないために、日本人は、互いに恐れを抱き、人間を神の座に座らせている。

風通しのよいストレスの少ない社会にするためには、クリスチャンが率先して、この二つの側面を明確に区別することである。

 

 

02/10/14

 

 

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