割礼と幼児洗礼2

 

>以上の部分は逆にバプテストの主張をサポートするものではないでしょうか? 
>回心、生まれ変わり、信仰が必須条件となっています。
>コロサイ2章11節では、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない
>割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」と
>あります。このことばからも新約時代以降は人の手による割礼は廃棄されたことが
>分かります。しかし、幼児洗礼を主張することは「人の手による」割礼をある意味
>において主張することではないでしょうか?

少し意味を誤解されているようですが、バプテスマが信仰を土台として行われなければならないということについて意見の違いはないと思います。
幼児洗礼においては、父親の信仰によって、子供は契約の中に入るというわけですから、幼児洗礼も「信仰によるバプテスマ」なのです。
違いがもしあるならば、父親の信仰によって子供自身の契約の状態が決定されてもいいかどうか、というところではないかと思います。恐らく、バプテスト派の人々は、「父親の信仰は父親のもので、子供の信仰は子供のもの」だから、父親がどんなに信仰深くても、子供の救いとは無関係である、だから、子供は自覚的に信仰を受け入れるまで洗礼を授けるべきではない、と考えるのだろうと思います。

そこで、私は、この問題について今まで説明してきたつもりでしたが、御理解していただいていないようです。
まとめて言いますが、旧約聖書においてと同じように、新約聖書においても、神が契約を結ばれる場合に、集団の長と結び、その結ばれた契約がグループメンバー全体に有効になる、という原則は通用すると考えます。

アダムが神と一対一で結んだ契約と、その失敗の影響は、直接的にその失敗を犯していない我々にまで及んでいます。
アブラハムが神と一対一で結んだ契約は、その家族の者全員にとって有効でした。
モーセがイスラエルの代表として一対一で結んだ契約の効力は、民全員に及びました。
イエスが神との契約を完全に守ったことによって、全人類、全宇宙に救いが及びました。

ただし、それでは、契約のメンバーは「自覚」、「無自覚」を問わず、その契約の効力を受けられると聖書は教えているかというとそうではありません。家がクリスチャンホームで、幼児洗礼を受けたからと言って、放蕩三昧して死んだ息子がそのまま救いにあずかれると考えられません。そこには、神と自分との個人的、自覚的な契約的服従が伴なわなければなりません。
ここに、契約のメンバーシップの二重の側面があります。つまり、

(1)制度的側面――代表者の権威の下もしくは近くにいる者はその立場ゆえに、契約に加えられ、その恩恵を受ける
(2)実質的側面――自分の個人的決断による契約への自覚的服従によって、 〃 (*)

聖書はこのどちらも述べています。
(1)については、旧約聖書において、神と人との恵みの契約は、民族的な恩恵でした。ユダヤ人は生まれながらにユダヤ人だからというので、神に近い立場に置かれました。異邦人は、「神から遠く」「この世において望みも何もない」存在でした。ユダ王国は、神がダビデに与えた恩恵によって、格別の扱いを受け、イスラエルよりも長らく生き延びました。
「しかし、主はその僕ダビデのゆえに、ユダを滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである。」(2列王記 8:19)

生まれとか家柄など、「理性主義」「個人主義」から見ると、不合理な集団的側面を、契約は持っています。幼児割礼はこの側面に属します。

(2)については、パウロは、「外面的な印である割礼が問題ではなく、信仰が問題だ。」と言いました。家柄とか生まれなどがどんなにクリスチャン的であっても、本人が自分の意志によって信仰を拒否するならば、その人には救いはありません。このような信仰本位主義は、旧約聖書にもありました。
霊的に鈍くなった民に向って、「どんなに肉に割礼を受けていてもムダだ、心に割礼を受けよ」と預言者は叫びました。

旧約聖書においても、新約聖書においても、契約のメンバーシップは、この「一」と「多」の要素から成り立っていました。それゆえ、私たちは、この「一=外面的集団的要素」と「多=内面的個人的要素」を、そのいずれかを選択するというのではなく、どちらも究極のものとして受け入れる必要があります。

幼児洗礼は、(1)の要素ですが、しかし、それだけでは不充分で、いずれ成人した時に本当に信仰を持っているかどうかが問題なのです。クリスチャンホームの子供たちは、その両親の信仰によって格別な恵みを受けています。しかし、だからといって、彼らが自動的に御国の相続者になれるというわけではありません。心において本当に回心した人々だけが真のクリスチャンなのです。


(*)人間世界における、どのような法律や契約でも、この二つの側面を持たないものはなく、人間の共同体が扱うことができる領域が(1)だけであるということを忘れると混乱や、人間的権威の肥大が起こります。

例えば、交通規則において、「不注意」で取り締まることはできません。
警官が、車を止めて、「今不注意運転しましたね。」とは言えません。
具体的な事故を起こし、その原因が不注意以外に考えられない場合にのみ、この違反が適用されます。

教会において、牧師は人の顔を見て、「あなたはいやらしい顔をしているから除名。」といえません。
具体的な罪、例えば、姦淫を犯して、その罪が明らかになった場合にのみ、問題にできます。

パウロは、自分は(1)の面について素直に悔い改め、完全に罪を処理しているので、人の前で恥じるところはない、しかし、神は(2)の面を取り扱うので、神の前で無罪を主張できない、と言いました。

「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」(1コリント4・3-4)

 

 

02/09/12

 

 

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