イスラエル建国をどのように評価すべきか?

 

新約時代のユダヤ人は、もはや旧約聖書が述べる「選民」ではありません。
今日、選民とは、「主イエスを信じる者」であり、非選民とは「主イエスを信じない者」です。
イエスは、はっきりと「新約時代においては、神の恵みの契約は、特定の民族や土地に限定されない」と述べておられます。

「…私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。…しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 (ヨハネ4・20-24)

神殿が崩壊する前の時代、すなわち、旧約時代において、礼拝は、特定の民族(ユダヤ人)、特定の場所(パレスチナ)に限定されていました。しかし、神殿が崩壊して、新しい時代がやってきた時に、このような制限は撤廃され、「あらゆる国民、民族が弟子」(マタイ28・19-20)となり、だれでも霊とまこととをもって父なる神を礼拝する人々は、契約の民となり、神殿とはもはやエルサレムの神殿ではなく、クリスチャンの体こそが神殿となったのです。

それゆえ、今日、ユダヤ人は、他の民族と比較して何か特別な高い地位が与えられると考えるべきではなく、彼らも我々と同じ立場で恵みの契約の中に加えられる必要があります。

神の国、教会において、ユダヤ人が一級市民になり、異邦人が二級市民となる、というような差別はありません。

前にも述べましたが、ローマ11・23-29においてユダヤ人を「栽培種」、異邦人を「野生種」とパウロが述べているのは、「ユダヤ人は、昔聖書によって訓練された民であったので、『栽培種』が『野生種』よりもはるかに接木されやすいように、福音を一番受け入れやすい民族である。」ということを述べているに過ぎません。

同じノンクリスチャンであっても、クリスチャンホームで育ち、福音を飽きるほど聞いた人々は、(少数の例外を除き)霊的に心が整理され、馴らされているので、ノンクリスチャンの家庭に育った人々よりも、はるかに福音を受け入れやすいのと同じです。

また、クリスチャンホーム出身の人々が教会に加わったとしても、ノンクリスチャンホーム出身者よりも偉くなるとか、価値が上であるということがないのと同様に、ユダヤ人がクリスチャンになっても、異邦人のクリスチャンの上に立つとか、価値が上であるというようなことはないのです。

この点において、ディスペンセーショナリズムは、旧約聖書の民族的経綸が、千年王国時代において復活すると考えるので、再び「ユダヤ人は上で、異邦人は下」というような区別が「不可避的に」できてしまうのです。

それゆえ、メシアニック・ジューは、ディスペンセーショナリズムを捨てなければならないのです。

それでは、イスラエル建国はどのような意味を持つのでしょうか。

私は、ユダヤ人は、長い間放蕩をして教会を離れていたクリスチャンホーム出身者と同じと見ています。

つまり、クリスチャンホーム出身者は(少数の例外を除き)、たとえ長い間福音から離れていたとしても、両親の信仰のゆえに、神の恵みの中におり、選びの中にいます。

それゆえ、一見すると、ノンクリスチャンのように見えますが、神の選びは確実なので、その恵みによって再び教会に復帰します。

ユダヤ人の回復を否定する置換神学は、このたとえで言うならば、「彼がクリスチャンホーム出身であるかどうかは関係ない。彼は完全に捨てられてしまったのだ。もはや彼の回復を望む必要はない。」と宣言しているようなものです。

私は、このような考え方は、聖書的ではないと思います。

救いは、人間の努力とかインスピレーションのようなものではなく、神の側の一方的な恵みであり、選びであると考えていますので、アブラハムを先祖とし、一度救いに選ばれた民族が、完全に捨てられてしまうというようなことはあり得ないと考えます。

「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。 」(ローマ9・16)

神は、ユダヤ人を選び、必ず救いに回復されます。

さて、神は、新約時代においても、民族と国語と土地という概念を残しておられるので、彼らは昔の姿を回復するでしょう。

神は、ベン・イェフダという人を起こし、彼に不屈の努力をさせて、2千年間死語同然であったヘブライ語を復活させました(『ヘブライ語の父ベン・イェフダー』ロバート・セント・ジョン著・島野 信宏訳、ミルトス出版)。

アフリカのウガンダあたりにユダヤ人の国を再興するというような計画もありましたが、神は、ユダヤ人を2千年ぶりに祖先の地パレスチナに連れ戻されました。

このような出来事をまったく無視し、切り捨ててしまう置換神学はどうしても受け入れることはできません。

置換神学は、近年の改革主義が受けた「グノーシス的影響」から逃れられていません。

あらゆることを「霊化」「普遍化」してしまうことはできません。

神は、民族、国語、土地を重視しておられます。

 

 

03/02/16

 

 

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