吉井春人牧師の批判に答える6

 

制度そのものに正常化される可能性があるならば、その制度を残し、その体制の枠内において改革を行う、というのは聖書的であろうと思います。
フランス革命やロシア革命が、際限のない流血地獄に陥ったのは、制度を変えるならば社会は改善されるとの「法による救い」の幻想によります。枠組みを変えても何もならないということはないけれども、枠組みを変えるとすべて変わるということでもない。
天皇がクリスチャンになり、社会体制もそれに合わせて変革する余地があるならば、その可能性にかけるのがクリスチャンとしての責務でしょう。天皇を廃位させても、残るのは無神論的共和制や民主制だけです。問題は解決しない。社会の根幹に存在するあらゆる非聖書的なものを取り除いて、そこに聖書的原理を据える。「あらゆる場をキリスト礼拝の場と変えること」こそ人間の目的であると語ったヴァン・ティルの言葉を重視したいと思います。
こういった意味において、まともに頭を働かせることのできる人ならば誰でも、ヴァン・ティルの理論を発展させると、セオノミーとポスト・ミレの密接な結合が起こる、ということに気づくはずです。

「すべてをキリスト礼拝の場所と変える」→「万物は聖書の原理によって統治されるべき」→「世界の王キリストは勝利される」→「万物は聖書の原理によって統治される運命にある」

きわめて単純な論理です。この程度の理屈、誰でも理解できる。では、なぜ理解できない人が多いのか。
それは、他人の目を気にするから。
キリストに全的献身をしていないから。教派などの内部政治に気を取られているから。
「自分を捨て、自分の十字架を負い、<そして>私について来なさい」
自分を捨てず、自分の十字架を負う気概のない人間は、キリストに十字架を負わせる仕事をして一生を棒にふる。
再建主義のレッテルを貼られるとホームスクーリング社会の内部において疎外されるならされてもいいじゃないですか。
神の力は、そんなハンディを吹き飛ばしてくださる。
大切なのは、結果ではなく、方法です。
結果に目を奪われるのは、非聖書的市場中心主義。
真理にのみ頼れば、結果はいずれ現われる。結果が現われるまでの間は辛抱しなければならない。しかし、その辛抱はかならず報いられる。
神を味方につけるかつけないか。
その選択を迫られているのではないですか?

 

 

02/06/17

 

 

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