黙示録の解釈―過去派・未来派

 

> 質問0・未来派、過去派というふたつの終末預言の解釈があると言うことですが、終
> 末に関する聖書預言をどちらか一方に決めて理解することが正しいことでしょうか?


過去派と未来派の分け方は、「聖書預言が過去に起こったものと捉えるか、それとも、まだ起こっていないとするか」を基準とする分類法なので、いずれか以外に解釈の方法はなく、それゆえ、どのような議論も、そのいずれかに落ち着くと思われます。

過去派には、パーシャル・プレテリストと、フル・プレテリストとの2つがあります。
フルが、黙示録の新天新地、再臨を含む聖書預言のほとんどすべてが紀元1世紀にすでに成就したと考えるのに対して、パーシャルは、マタイ24章、黙示録などのほとんどがすでに成就し、現在は、黙示録20章千年王国の時代であり、千年王国は現在進行中であり、カルヴァンが述べたように、この千年紀は「地上において戦う教会の時代」と解釈されます。歴史の最後の段階において、異邦人の数が満ち、イスラエルは回復し、イスラエルと異邦人の合体された神の国が実現し、世界は復活(回復)し(ローマ11章)、世界のすべての民族がキリストの弟子となり、黄金の時代が到来し、その絶頂においてキリストが再臨されると考えます。
しかし、マタイ24章の大患難や神殿崩壊などは、すでに紀元70年に完了したと考えますので、未来派のように将来、大患難がきて、反キリストの圧制のもとに教会は弱体化するとは考えません。それゆえ、過去派は、楽観的終末論といわれるのです。

未来派は、マタイ24章の大患難、神殿崩壊預言もこれから起こると考えます。反キリストの圧制のもと、大患難の前または後にキリストが再臨され、至福千年紀が訪れます。教会は反キリストによって蹂躙される運命にあるとしますので、宣教の勝利を訴える論理的正当性を持たないので、悲観的終末論と言われます。

> 過去派にたつなら以下の質問は意味をなさないかもしれません。
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> 質問1・イスラエル建国は預言の成就か?
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> イスラエル建国は終末のしるしとしての歴史を御支配なさる神のご計画の業とみるこ
> と、すなわち預言の成就と見ることは間違っているのか? 

過去派でも、イスラエル建国に対して、2つの解釈があります。
イスラエルは将来完全に回復し、不従順を止め、キリストを主として受け入れるとする人々と、すでにイスラエルは消滅し、今日ユダヤ人には聖書的にいかなる役割も与えられていないとする人々です。

過去派に立つピューリタンは、イスラエルの回復を強烈に信じていました(http://www.path.ne.jp/~millnm/jew.html)。再建主義の中で、ゲイリー・ノースはこの立場に立ちます。

しかし、ラッシュドゥーニーは、完全な置換神学で、イスラエルは、新約時代において、完全に教会に置き換えられたと主張し、イスラエルの存在を認めず、イスラエルの回復も主張しません。


> 質問2・わたしは,新約聖書の完結をもって,神の直接啓示の時代は終わったと教え
> られてきた。すなわち、もはや奇跡,神癒,預言,異言は今日では廃れたとの立場
> を,改革派教会はとっているということから、イスラエル建国は預言の成就とは関係
> ないと言うことなのでしょうか?

神の聖書啓示は完結していますが、神の直接啓示の時代が終わったと考えるのは、聖書的ではありません。もし直接啓示が完全に終わったのであれば、祈りは一体何なのでしょうか。もし、直接啓示が終了したのであれば、祈りの中で、神の御心が分かると主張することはできません。牧師のメッセージを通して、自分の個人的な導きが得られたと主張することもできなくなります。我々は、日々、神の直接啓示を受けているのです。

聖書啓示は完結したとするのは正しいでしょう。なぜならば、新約聖書は、イエスの御業の直接の目撃者(使徒)による証言書だからです。これを越えた権威は存在しません。聖書は絶対の真理であり、神の御言葉です。それゆえ、我々が祈りや説教の中で受ける直接啓示は、聖書による吟味(疑い)の対象であり、聖書を越えることは絶対にできません。

聖書が聖霊の著作であるならば、聖霊が示してくださると今日預言存在論者の人々が主張する「直接啓示」は、聖書の御言葉に矛盾したり、それを越えたり、それに追加することはできないはずです。

奇跡,神癒,預言,異言は今日では廃れたとする立場は、明らかに行き過ぎであり、聖書から論証することは不可能です。これは、一方の極端です。

また、今日流行している「奇跡,神癒,預言,異言肯定論者」のように、それらが御言葉を越えたり、矛盾したり、追加されたと主張することも、もう一方の極端です。

聖書は、「直接啓示は完全に廃れた」とする説も、「直接啓示は聖書啓示を超越してもよい」とする説も、どちらも否定しています。(*)


すでに述べましたように、過去派には、イスラエル回復預言を将来のものと考える人々がいます。

「一六四九年ピューリタン革命の最中に、後千年王国説神学者ジョン・オーウェンは、下院議院において次のように演説しました。『人々は、まことの栄光を求めて、何世代にもわたって恵みの御座の前に祈りを捧げてきました。[神は]この幾百万もの祈りに答えて、いにしえの御民をその故国に帰し、完成された異邦人と合体して一つの群れとされるでしょう。』 かつてオーウェンの教会の会員だったサミュエル・リーは、一六七七年に出版された有名な著書 "Israel Redux" において、『ユダヤ人はいつの日かパレスチナの地に帰ってくるだろう』と述べています。」(同上)

それゆえ、過去派イコール「イスラエル建国預言否定」という図式は成立しません。


(*)パウロは、「…御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。…それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。 」(1コリント14・1,39)と述べ、直接啓示を否定しない一方で、「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(1コリント14・29)と述べ、その直接啓示に制限を設けています。ここで、「吟味」という言葉は、「疑い」という意味を持つ言葉diakrinwが使われています。

つまり、「預言」は、「霊感を受けた絶対の真理」である聖書啓示と区別すべきであり、「教会で行われる預言」は、「疑われるべきもの」、つまり、「絶対の真理ではない」とされています。それゆえ、この吟味とは、「絶対の真理である聖書啓示」によってテストされるべきもの、とされているのです。

再建主義の中で、改革派の「直接啓示否定論」は主流です。ラッシュドゥーニーも、ケネス・ジェントリーも、預言の存在を否定しています。その根拠は、従来のカルヴァン主義者のように、第1コリント13・8-12です。

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。…今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

ここで、彼らは、「完全なもの」を「完結された正典聖書」と考えています。

しかし、 「完全なもの」が完結された聖書啓示を示しているということを証明する聖句は一つもありません。
ここでパウロは、「顔と顔とを合わせて見る」時のことを述べているのです、その時、我々は、「完全に知ることにな」るのです。では、それはいつなのでしょうか。カルヴァンは次のように言います。

「パウロは、完全なものがやってくれば、不完全なものを補うあらゆるものは廃れる、と言う。しかし、その完全なものとはいつ来るのだろうか。それは、まさしく、死とともに始まるのだ。というのも、我々は死ぬ時に、肉体を脱ぎ捨てるだけではなく、多くの欠点をも脱ぎ捨てるからである。…それゆえ、我々の信仰は、現在、神を不在者として見ている。なぜだろう。我々の信仰は、神の御顔を[直に]見ているわけではなく、鏡の中にその御姿を映すことで満足しているからである。しかし、我々がこの世を去って、神の御許に行く時には、神を間近に、目前に見ることになるのだ。」(Calvin, John, Calvin's Commentaries: 1 Corinthians, (Albany, OR: Ages Software, Inc.) 1998).

つまり、我々の個人的な死こそが、「完全なもの」の獲得なのだ、と言うのです。

他の権威ある注解者も同様の解釈をしています。

「肉体を離れた霊や、天の世界に住む人々は、この知識を得ている。そして、我々がそこに行くならば、我々は、もはや、遠くから眺め見るのではなく、またぼんやりと見るのでもなく、真理を明瞭かつ公然と知るようになるのだ。」(Albert Barns)

「…我々の時代と力が天の生活、永遠の生活と比較されている。天において、我々は、神御自身を現前に見、その完全な光によって照らされる。」(Geneva)

ケネス・ジェントリーは、この「完全なもの」を「聖書啓示の完結」と解釈しており、それゆえに、「聖書が完結した今日において、預言は廃れ、異言は止んだのだ」と主張しています。
このような解釈が今日一般的ですが、これは、非常に教会生活を制限し、信仰をいわゆる現象面の出来事に限定してきました。教会から、預言、幻、神癒、奇跡、ほとんどの霊的な事柄が取り去られ、「霊的戦い」という考えすら廃れてしまいました。

私は、このような傾向は、霊に属する世界を切り捨てる近代哲学の影響だと考えています。




>  ウェストミンスタ−信仰告白第一章6項は
>
> 「神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神
> のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書
> から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっ
> ても、どのようなときにも何一つ付加されてはならない。」
>
> と述べられていることが、この主張の根拠となっているのでしょうか?

ウェストミンスタ−信仰告白は、聖書啓示に対して、新しい啓示を付加することはない、と述べているだけで、「直接啓示」がまったく存在しないと述べているのではないと思います。

改革主義が、霊に属することを全面的に切り捨てるようになったのは、恐らく、アブラハム・カイパーからだと思います。そのことを記した論文を読んだことがあるのですが、どこに書いてあったか忘れてしまいました。見つかったら、紹介させていただきたく存じます。


> 質問3・新約時代には異邦人クリスチャンは新しいイスラエルまた霊的イスラエルと
> 言われるが、いわゆる置換神学が言うようにユダヤ民族は神の人類救済の歴史におい
> て新約時代にはその役目は終わったのでしょうか?
>
> ユダヤ人がイエスを主と信じるならば、教会の民として旧約の律法を廃しユダヤ人で
> なくなるのでしょうか。すなわち、選民ユダヤ人は異邦人が救われるために、完全に
> 遺棄されたのでしょうか?
>
> メシアニック・ジューの存在について、また彼らが忌避する置換神学についてはどの
> ように考えるか?われわれは今日のイスラエルやユダヤ人にたいしてどのように関わ
> るべきであるか? 
>
> ウ大教理問191には終末における「ユダヤ人の召し」を挙げているが、このことと
> 今日のイスラエル再建とはまったく無関係だろうか?

今日のイスラエル再建は、聖書がはっきりと預言していることだと考えます。ユダヤ人は、歴史が終わるまでその存在を止めることはないでしょう。ユダヤ人には、今日でも存在意義があるとパウロははっきりと述べているからです。

ローマ11章では、ユダヤ人が捨てられたのは、異邦人に救いが行くためであると述べられています。そして、ユダヤ人が捨てられることが世界の富となったのであれば、彼らが回復することは、「世界の復活」であると述べられています。

「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」(ローマ11・12)

「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中からの復活でなくて何でしょう。」(ローマ11・15)

しかし、注意しなければならないのは、再臨されたキリストがイスラエルの神殿から世界を統治される、と考える未来派の説は間違いであるということです。

今日、神殿は、キリスト及びクリスチャンの体です。

もはや石造りの神殿は不要です。

もし石造りの神殿がエルサレムに再建され、犠牲制度が復活するならば、「それではキリストの犠牲はどうなったのか?」という深刻な疑問が起こるからです。

神殿が再建され、聖所と至聖所を隔てる幕が再び設置されたならば、キリストが十字架にかかったときに、幕が真っ二つに裂かれたのは無駄だったのか?ということになるのです。

幕が裂かれたことは、「キリストの犠牲によって、神と人との間に完全な交わりが回復した」ということを意味しているのですが、神殿が再建され、幕が設置されるならば、再び神と人の間には隔てが設けられたと宣言することになります。

未来派の人々は、「神殿で犠牲制度が復活する」と述べていますが、動物を犠牲として捧げるならば、キリストの犠牲を無にすることになります。

 

 

03/01/30

 

 

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