死後の救いについて 1−2 by starman氏

 

(2)さばき

●聖書には、人間は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まってると書いてあります。(ヘブル3:27)

さばきには、1)罪に対するさばき、2)報いを受けるさばき、3)不信者に対するさばき、があります。
1)の罪に対するさばきはイエス・キリストの十字架において実現しました。これによって私たちの罪の許され、永遠のいのちが与えられるのです(ローマ8:1〜)。2)はクリスチャンがそれぞれの働きに応じて受ける報いのことを指します。忠実に主に仕えた者は報いも大きいでしょう(第1コリント3:10〜15)。3)はあらゆる時代のすべての人間は、主の御前に立ち、いのちの書に書き記されているところに従って、自らの行いに応じてさばかれます。いのちの書に名の記されていない者は火の池に投げ込まれることになります。(黙示録20:11〜15)

●聖書は生きている間の行いに応じて裁きがあると繰り返して述べています。

◆ユダ:15 すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」
◆ローマ2:1〜15
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

●死後にも救いのチャンスがあるのならば、以下の聖書箇所に出てくる「不義な者ども」にもセカンドチャンスがあるということになりますが、果たして聖書はそのように主張しているのでしょうか?

1)マタイ21:41では、悪党どもは情け容赦なく殺されることになりましたが、これら悪党どもに、死後救いのチャンスが与えられるということを裏付けられる聖書箇所はありません。

2)マタイ22:7には人殺しどもは滅ぼされるとあります。さらに、22:13には、礼服を着ないでやってきた者は外の暗やみに放り出され、泣いて歯ぎしりしたと書いてあります。これら人殺しどもと礼服を着ないでやってきた者に、死後救いのチャンスが与えられるとは書かれていません。さらに、14節では、招待される者は多いが、選ばれる者は少ないと書かれてあります。この「招待」は生きている間になされたことであり、死後にも「招待」されるとする聖書箇所はありません。

3)マタイ25:42以下の呪われた者達は、生きている間の行いについて裁かれています。もし、死後に救いがあるのなら、『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにした=40節』という行いは黄泉に下ったあとに行ったことになりますが、聖書にはそれを支持する箇所はありません。むしろ、よみには「働きも企ても知識も知恵もない」(伝道者の書9:10)とされています。

◆伝道者の書9:10
あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。

4)ルカ19:12〜27には、ある身分の高い人が王になるのを望まなかった者たちは、やがて王になった方の目の前で殺されることになった、とありますが、これも生きている間の行いによって裁かれていると考えられます。死後にも救いがあるのならば、生きている間は「王になることを望まなかった」者に、死んだ後に「王になることを望む」機会が与えられるということになりますが、ここからそのように解釈することはできません。

引用聖書箇所
1)マタイ21:33〜41(平行記事〜マルコ12:1〜9、ルカ20:9〜16)
もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

2)マタイ22:1〜14
イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

3)マタイ25:31〜46
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

4)ルカ19:12〜27
それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」

 ヨハネ5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 

 

02/05/29

 

 

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