死後の救いについて 3 by starman氏

 

3.各論

(1)ユダも救われる?

人の子を裏切るような者は生まれてこなかった方が良かったとイエス様は言いましたが、これは死後の裁き〜永遠の刑罰を受けねばならないから、という意味が含まれていると考えられます。もし、ユダに死後救いのチャンスがあるのなら、ユダにとってみれば生まれてこなかった方が良かったとは言えません。さらには、聖書にユダが死後憐れみを受けたと記されている箇所もないのです。それどころか、イエス様御自身がユダは滅びた(ヨハネ17:12)と言ったのです。
死後ユダに救いが与えられるというのならば、なぜイエス様は「滅んだ」とおっしゃったのか、まったく意味不明です。聖書にはユダが死んだ後で救われたと書かれておらず、逆に、ユダは「滅びの子」であり、「滅んだ」と明確に書かれてるのです。それにもかかわらずユダにも救いのチャンスがあるというのは、明らかに行き過ぎた聖書解釈だと言わざるを得ません。

◆マタイ26:24、マルコ14:21
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
◆ルカ22:22
人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」
◆ヨハネ17:12
わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。


(2)自殺はいけない?

●自殺は罪だからいけない?
死後に救いがあるならば、自殺を選択することをいけないとは言い切れません。なぜなら、罪である自殺をして黄泉に降っても、結局は救いのチャンスが与えられるのですから、自殺は生き方の選択肢のひとつとして成り立ってしまいます。そうなると自殺してはいけないと規定することは出来ないでしょう。

●自殺は仕方がないこと?
自殺に至るには、ほとんどの場合よほどの理由があり、多くの場合同情すべき境遇がある。中にはあまりに不幸な境遇に耐えきれず、精神錯乱をきたして自殺するケースもあり、自己責任は薄いので、神は黄泉にいる自殺者の霊を憐れみをもって取り扱って下さるはずだ、といいます。しかし、聖書はすべての人は罪を犯した(ローマ3:23)と主張します。人として来られたイエス・キリストのほかに例外はいません。自殺者も神の前に罪人であって、裁かれる十分な罪を犯しているのです。たった一度でも罪を犯したならば、地獄へ落とされて当然だと聖書は言っているのです。自己責任は薄いとか、可哀想だというのは、あくまでも人間の情に基づいた主張に過ぎません。神の救いが提示されたにもかかわらずそれを拒否して自殺した者には、神の基準に従った裁きが下るのです。


(3)福音を知らないで死んだ者は?

これについて、私たちには確かなことは知らされていません。
聖書によると、たとい福音を知らなくても、神について知りうることは明らかである(ローマ1:20)と書いてありますし、また、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。」(ローマ2:12)とも書いてありますありますので、神様の基準に従ってさばかれることは確かです。神様のさばきは正しい(ローマ2:2,11)のですから、一度も福音を聞かないで死んだ者が救われるか滅びるかは、神様が正しくさばかれていると信じ、委ねるしかないでしょう。

◆ローマ1:19〜22
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
◆ローマ2:12〜15
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ――


(4)死後に福音を聞く機会があるというのならば、それはいつ聞くのか?

全世界レベルで考えると、数千年にわたって数え切れないほど多くの人が、神に従わず、キリストを受け入れないで死んで行きます。

●今もよみにおいてキリストが福音を語り続けているとする説
死後にも救いがあるという説のひとつに、死んで黄泉に下った者たちに対して、“黄泉をも支配しているキリスト(黙示録1:17,18)”は、永遠のあがないをなされた(ヘブル9:12)のだから、キリストは一時的に黄泉から救い出された多くの霊魂をつれて天国に凱旋された(エペソ4:8〜10)だけではなく、十字架以後もキリストの救いのわざは、この地上においても、地下(黄泉)においても圧倒的に継続しているといいます。それは、キリストが救いのわざを成し遂げたのは、「それはイエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:10,11)からだと。
しかし、これだけで黄泉において今もなお救いのわざがおこなわれていると結論づけるのは無理があります。なぜなら、第一に、今現在も継続してキリストが福音を語っているとすることを裏付ける聖書箇所はありません。第二に、ここで引用されている御言葉(ピリピ2:10,11)をもって、今もなお救いの技が継続しているというのは、死後にも救われた者がいるという前提からくる結論だからです。
みことばはそれぞれ真理なのですが、このようにつなげてみても、聖書全体にある永遠のいのちと滅びの教理に調和しない以上、採用することはできません。

●キリストはよみ下りの時にノアの洪水以前の死者に福音を語ったとする説
ある説によると、キリストが十字架で死なれ黄泉に下った時には、ノアの大洪水以前の死者に福音を語り、大洪水以後に死んだ者は、世の終わりの時に遣わされる二人の預言者(黙示録11:3〜11)が殺されて3日半の間に黄泉に下ったその時に福音を聞くというのです。しかし、そうなると、ノアの大洪水後に死んだ者は世の終わりの時まで何千年も苦しむことになり、世の終わりの直前にキリストを信じないで死んだ者は、黄泉にいる時間が少ないためほとんど苦しまないで福音を聞くというケースが考えられます。神の愛は、生前に福音を拒否した者を死後に救うほど大きいものであるならば、このような不公平なことをなさるとは考えにくいことです。また、死後にも救いのチャンスを与える“愛の神”が数千年もの間、黄泉において苦しみを与え続けているというのは矛盾しています。
それから、世の終わりの時に遣わされる二人の預言者が殺されて3日半の間に黄泉に下って福音を語ったなどとは聖書に書いていることではありません。これは憶測に基づく解釈であり、ここまで言うのは行き過ぎです。

やはり、キリストが今も黄泉に赴いて福音を語り続けているということを、聖書から結論づけることは非常に困難だと思います。


(5)第1ペテロ3:19の解釈

◆第1ペテロ3:18〜20
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

●この箇所については種々の解釈があります。

1)捕らわれの霊たちに宣教したのはキリストではなく、エノクだという説。
2)ノアの時代に、受肉以前のキリストが聖霊によって宣教したとする説。(アウグスティヌス、トマス・アクィナス、J・B・ライトフット)。
3)キリストは黄泉に下り、そこで福音ではなく、悪霊たちに対する「断罪」を宣告したという説(スティブス、セルウィン)。
4)使徒達が聖霊によって罪に捕らわれている人々に宣教したとする説。(グロティウス、Gトマス)
5)ノアの時代に神に従わなかった人々にキリストが第2のチャンスを与えるためにハデスに下ったとする説。
6)新しい恵みの時代が始まったので、キリストはノアの時代に従わなかった人々の霊に宣教し、悔い改めの機会を与えた。(フロンミユーラー)
7)キリストは、不信仰のために死に、ハデスで苦しんでいる霊に罪の赦しがあることを伝えたとする説。(黒崎幸吉)
8)旧約時代に敬虔な生活をした人々に福音がキリストの福音がもたらされたとする説。カルヴァンは、「捕われ」には「物見櫓」という意味があり、救いを待ち望んでいた人々のこと指すという。キリスト黄泉に降り、復活を待つ義人の霊たちに福音を伝えたと解する。
9)「捕らわれの霊たち」というのは、死人の霊ではなく堕落した天使、即ち悪霊たちのことであるという説。
10)キリストが十字架の死の後に黄泉に降って福音を宣べ伝えた相手はノアの時代に死んだ人々の霊に対してだけであって、キリストのは死後約三日間のみ黄泉に滞在したとする説。

1)は19節の原文がエン・ホー・カイ〜で始まっているので、「エノク」を誤って写したとしますが、文脈からいってこのように解釈するのは無理があります。
2)この説によるとキリストは十字架の後黄泉に行かなかったことになる。
3)わざわざ「断罪」を宣告しに行く必要はないとする反対意見もある。
4)この説は宣教をノアの時代に当てはめず使徒の時代に当てはめるが、文脈からすると無理がある。
5)6)7)は、死後に救いのチャンスがあるとする立場の意見です。
8)旧約時代に生きた人々は、キリストの福音を見聞きする機会はなかったので、そのような解釈が成り立つように思いますが、今ひとつ根拠に欠けます。
9)この説は「捕らわれの“霊”」は人ではないとするので、前後関係から見て無理な解釈だと思います。
10)聖書をそのまま読めばこのような解釈になりますが、他説に比べて特に有力とは言い切れません。

上記のように様々な解釈がありますが、他の聖書箇所から矛盾なく説明できない限り、この箇所をもって即、死後にも救いのチャンスがあると断定することはできません。


(6)第1ペテロ4:6の解釈

◆第1ペテロ4:6
というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。

●死後にも救いのチャンスがあるとする立場では、ここを死んだ後に福音が宣べ伝えられたと解釈します。しかし、ここは第1ペテロ3:19と同様に難解な箇所であり、様々な解釈があります。

1)霊的に死んだ人々と解する。(アウグスティヌス、エラスムス、ルター)
2)すべての死者を指す(バークレー)。福音を拒否した人にも再度機会が与えられる。
3)福音を聞く機会がなかった人々を指す(ビッグ)。最後の大審判の前に福音を聞く機会が与えられる。
4)今この手紙が書かれている時には死んでいる人々。(スティブス)
5)迫害に遭って死んだ人。

1)については、5節とのつながりから文字通り死んだ人々と解するのが自然です。死後にセカンドチャンスが与えられるとする2),3)は、7節に「万物の終わりが近づいたので、祈りのために心を整え身を慎みなさい」と言われているのですから、死んだあとにも福音が語られると解するのは無理があります。4)は今は死んでいるが生きている時には福音を聞いたことを指すという解釈ですが、これは無理のない説明だと思います。5)は根拠がありません。

このように、ここから「死んだ後に福音が語られるとはっきり書いてある」、と断言するのは早計だと言わざるを得ません。断言するためにはやはり他の聖書箇所からさらなる裏付けが必要です。


(7)天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものとは?

◆ピリピ2:10,11
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
◆黙示録5:13
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

死後に救いがあるとする立場では、地の下にあるものというのは、よみ、あるいは、捕らわれの霊(すなわち生前キリストを信じないで死んだ者)のことを指し、これらの者たちは、死んだ後黄泉においてキリストから福音を聞き、“回心”し、黄泉で神を賛美していると言います。しかし、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの〜」というのは、有形無形の全被造物を現すユダヤ的慣用句であるということ、さらには、聖書によると、黄泉において神をほめたたえることはないとされている(イザヤ38:18、詩篇6:5、詩篇115:17)ことから、ここは、全被造物がイエス・キリストは主であると告白し、賛美する、と解釈するのが自然です。

◆出エジプト20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。)
◆イザヤ38:18
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
◆詩篇6:5
死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。
◆詩篇115:17
新改訳:死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ。
口語訳:死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない。
新共同訳:主を賛美するのは死者ではない/沈黙の国へ去った人々ではない。


(8)伝道上不都合だから死後に救いがないと言っている?

あくまでも、聖書を見る限り、死後に救いのチャンスはないだろう、ということを主張しているのであって、伝道上の不都合を思ってのことではありません。「死後にも救いがあるならば、生きている間は好き勝手に暮らして死んだ後回心すればよいと考える人もいるだろう」と言っているのです。伝道に不都合だから死後に救いのチャンスはないと言っているのではないのです。

 

 

02/06/06

 

 

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