マルコーシュへの提出原稿

 


死後セカンドチャンスはあるのか?(2)

富井 健

はじめに
肯定論の著者は、私が実質的に否定論を述べたと言っておられるが、最初に断り書きをしたように、私は、肯定も否定もしていないので私の議論を「否定論」とされたことは、問題の本質を誤解しておられるわけであるから残念であった。私の主張の中心は、「聖書が明確に触れていないことを、聖書の制限を越えてまで述べることは危険である」ということであって、否定の見解を述べることは私の本意ではない。繰り返すが、我々クリスチャンは、預言者として召された者であり、神の御言葉をまっすぐに、しかも、「過不足なく」語る責任がある。聖書を越えた権威はこの世に存在しないのであるから、聖書の教えに人間の知恵を介在させることは、クリスチャン、とくに教師として召された者は、まっさきに回避しなければならないことなのだ。私は、死後の救いについて尋ねるクリスチャンやノンクリスチャンに対して、「死後に救いのチャンスがある」というつもりがないのと同じくらいに、「死後に救いのチャンスはない」というつもりもない。このような聖書が漠然としか教えていない難解なテーマについては、我々は、どのような論を唱えるにしても、御霊によるセルフコントロールを十全に発揮しなければならない。それは、我々が扱っているのが、単なる文学作品でも、ビジネス文書でも、考古学的文献でもなく、創造主なる神が語られた永遠不滅の御言葉だからである。神の御言葉に人間の意見を付け加えたり、そこから取り去ることが、自分と教会にいかに大きな災いを招くかを十分に自覚し(黙示録22・18-19)、聖書の教えについて語る時には、神の御前に恐れ慄きつつ、細心の注意を払わねばならない。

以下、この著者が私の論を「T論」と呼んだのにならって、彼の肯定論を「K論」と呼び、紙面が許す限り反論を試みたい。

パラダイスと陰府の違い

残念ながら、K論は、私の議論を一方的に知識不足から来ると速断し、「まず対論の相手の議論を知るように」と諭しているが、検討不足の感を否めない。とくに死後の中間状態(シェオル)と最終状態(ゲヘナ)との区別をしていないという指摘については、若干の驚きを禁じえなかった。というのも、この知識はとりたててこのような議論の場において扱うべきものではなく、どの聖書信仰の神学校でも教え、どの組織神学の著書にも書かれているような基礎的教理だからである(私は、学生の時に、教会の入会準備会で学んだ)。

注:本稿では、新約時代、信者の中間状態(個人死から再臨までの間の住居)をパラダイス、最終状態(最後の審判後の住居)を天国と呼び、不信者の中間状態を陰府、最終状態を地獄と呼ぶ。旧約時代においては、すべての人が陰府に下ったとする。

K論が念を入れて扱うべきなのは、むしろ、パラダイスと陰府との違いについてである。それは、ルカ16章26-31節の理解において、私が、「金持ちとラザロのいた二つの場所、すなわち、陰府とパラダイスの間では互いに行き来ができないと言われている(26節)ので、死後の救いのチャンスは否定的に述べられている」と述べたことを、K論は「パラダイスと陰府の区別をしていないがゆえに」聖書の「曲解的解釈」であると指摘しているからである。曲解的解釈とまで言うからには、批判された者は当然のことながら、K論が、これら両者の間にどのような違いがあるか、そして、その違いがどのように「死後の救いのチャンスの可能性」を裏付けるかについて明確に説明してくれるだろうと期待する。しかし、この期待は見事に裏切られた。K論は、「陰府は『下』にある世界であり、その中のいずれの場所も『パラダイス』ではない。カルバリーの丘でキリストが盗賊に言われた言葉は、これから陰府にくだっても、ご自身と共に行くのでそれはパラダイスにも等しい、という意味だった。陰府の場所自体がパラダイスという意味ではない。」という宣言で終わっている。これでは、こちらがどのように「曲解的解釈」をしたのかまるで分からない。「パラダイスと陰府は区別すべきだ。区別することによって、こうこうこのように死後のセカンドチャンスを証明できる」と具体的に述べなければこちらは議論を返すことはできない。

そこで、こちらとしては8月号におけるK論の主張と久保師が著作やインターネットで発表しておられるいくつかの文章から、この問題に関するK論の主張を次のようにまとめてみた。
「旧約時代すべての人は陰府に下った。陰府には『慰めの場所』と『苦しみの場所』があって、ラザロは前者に行き、金持ちは後者に行った。これらの両者の間において行き来はできないので、キリストが『捕われ人』を連れてパラダイスにのぼられるまでの間、金持ちは『苦しみの場所』から出る機会はない。もし金持ちが悔い改めるならば、キリストの昇天とともにパラダイスに昇ることができただろうし、キリストの昇天時までに間に合わなくてもそれ以後に悔い改めるならば、最後の審判の時に天国に入るだろう。なぜならば、陰府とは、刑が確定するまでの間の『留置場』のような場所だからだ。留置場にいる間は、まだ裁判が行われていないので、悔い改めの機会があり、救いのチャンスは残されている。」

陰府は「留置場」か?

もしこの要約が正しいならば、いくつかの疑問が生じる。
(1)K論は、「…陰府において、神の恵みはすべての魂の上にある。」と述べ、「それは人を本心に立ち返らせようとする、懲らしめ的苦しみなのだ。」と述べている。もし、陰府の「苦しみの場所」が本当に「留置場」のような場所で、反省をするための場所であるならば、人々を「火炎」の中に置くとはあまりにも扱いが過酷ではないか。この世において、どこの国の留置場で容疑者を火炎の中に放り込むところがあるだろうか。「苦しみの場所」が炎によって表現されているのは、そこが反省の場所というよりも、むしろ刑罰の場所であることを示しているからではないだろうか。聖書において、しばしば「火」は刑罰の象徴として使用されている。ソドムとゴモラは火で滅ぼされ(創世記19・24)、偶像の金の子牛は火で焼かれた(出エジプト32・20)。コラとともに罪を犯した250人の男が火で焼かれ(民数記26・10)、神に反逆した国々が火で焼かれると預言された(アモス1・4、7、10、12、14、2・2、2・5)。たしかに、陰府の苦しみは地獄の苦しみほどではないにしても、やはりそれは、指先に水を浸して舌を冷すことを願わせるほど耐え難い苦痛を与える場所である。これが、裁判の前に、まだ刑が確定しておらず、反省を促されている人々が収容されるべき場所なのだろうか。
(2)火炎の中で舌が乾き、指先に水を浸して舌を冷すことを願うほどの苦痛の中に置かれた人間の中で誰が悔い改めを拒むだろうか。死後の伝道がこのような脅迫的なものであるならば、それは、「信仰による救い」という聖書の基本原理と大きく矛盾しないか。聖書は、一貫して、人を救うのは信仰であると述べている。目に見えるものに頼るのではなく、目に見えぬものを、聖書の証言だけに従って受け取ることが、救いの条件なのだ。目に見えるものに頼る傲慢な魂は、神の栄光を捨てて十字架にかかるほどにへりくだられたキリストの本質を見ることができない。「神がいるなら見せてみろ」というような者の前に神は姿を現されない。幼子のように自分の身を低くする者しか御国に入ることができないのであれば(ルカ18・16)、どうして神の御存在と御力がはっきりと現われ、誰もがその威光を目撃する陰府の中において悔い改めをした者が御国に招かれることがあるだろうか。
金持ちは、「炎の中で苦しくてたまりません。こういうことが私の5人の兄弟に起こらないように、死人の中から誰かを遣わして、彼らに警告してやってください。そうすれば彼らも悔い改めるに違いありません。」と述べたが、アブラハムは、「モーセと預言者(つまり、聖書)の教えに耳を傾けないなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」と答えた。「目に見えないもの」への信仰を持たないがために「苦しみの場所」に来る者たちが、「目に見えるもの」によってそこから脱出できるとするのは、明らかに不合理ではないだろうか。
(3)陰府が「最後の審判の時まで、未信者が一時的に留め置かれる所であ」るならば、炎の中において悔い改めた人々は、最後の審判の時までそのまま炎の中で苦しめられるということなのだろうか。聖書は、「神は砕かれた魂、悔いた心を蔑まれない」と述べている。また、「悔い改めた罪を思い出さない」とも述べている。神は赦しに富む御方である。このような御方が、悔い改めた者たちをそのまま火炎の中に放置されるだろうか。
それとも悔い改めをした時点ですぐにパラダイスに移行するのだろうか。もしそうならば、K論がピリピ二章一〇節〜十一節、黙示録五章一三節について述べているような「地の下」からの賛美はないはずである。悔い改めと同時に、パラダイスに行くのであれば、陰府には悔い改めた人々はいなくなるからである。それとも、悔い改めた者たちは、「慰めの場所」に移動するのだろうか。そうならば、「苦しみの場所」から「慰めの場所」への移動はないというイエスの御言葉と矛盾するのである(ルカ16・26)。それとも、新約時代において「苦しみの場所」と「慰めの場所」の間に横たわっていた「深い淵」は埋められたのだろうか。もしくは、「慰めの場所」ではない他の場所に移動するのだろうか。しかし、こういったことについては、聖書は何も触れていない。

ピリピ二章一〇節〜十一節、黙示録五章一三節

K論は、私がピリピ二章一〇節〜十一節、黙示録五章一三節について触れていなかったことが何か決定的なミスであるかのような書き方をしているのであるが、これらの個所については、文章の中において引用聖句として提示し、それらについて私がどのような意見を持っているかを明らかにしている。見落とされたか理解されていないようで残念である。この二つの個所は類似しているので、ピリピ二章のほうを代表として解説しよう。文脈を見るために、その少し前から引用することにする。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(ピリピ2・6-11)

ご覧のように、この個所は、死後の救いの可能性を主題としていない。この主題は、「謙遜と従順の後にあらゆる被造物の上に主権者として置かれた栄光のキリスト」ということである。K論が提示する他の証拠聖句も、これと同じように、死後の救いを主題とする文脈の中に置かれていない。これは、決定的なウィークポイントである。教会の礼拝や伝道に大きな変化をもたらす恐れがある重要な教えにしては、証拠聖句があまりにも貧弱ではないか。創造、義認、復活、審判、伝道のような主要教理には、「それ専用の」文脈が存在する。パウロは、ローマ書やガラテヤ書において、信仰義認についてかなりのスペースを割き、それを主題として詳述している。しかし、死後の救いについてK論が提示している証拠聖句はすべて、それを主題としない文脈の中に置かれ、しかも、明示的ではなく、かなりの深読みをしなければ理解できないような曖昧さを含んでいる。このアンバランスは何だろう。もし神がその教えを重要と考えておられるならば、それに相応しい量と質の言葉を聖書の中に織り込まれるはずではないか。聖霊を受けている誰もが誤解することのないように、それ専用の文脈を用意され、それとしか考えられないような明確な言葉で説明されるはずではないか。しかし、死後の救いを示すと言われる個所は、どれをとっても議論の余地を残しており、一意的に解釈できるものはほとんどない。

さらに、K論は、「地下のもの」が礼拝を捧げるのだから陰府において救われる者がいるはずだ、と主張するが、聖書では、礼拝を捧げることと救いとは必ずしも一致しない。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。…すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある。』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。ベルはひざまずき、ネボはかがむ。…彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。」 (イザヤ45・22-46・3)

ベルとはへブル語「バアル」に相当し、バビロンの主神マルドゥクを表す。ネボは、バビロンの学問・農業の神である。ひざまずいたり、主と告白したり、たたえる行為が、必ずしもその味方や属民とは限らないのはこの個所から明らかである。もし「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてイエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」という言葉を字義通り解釈して、「だから天上のもの、地上のもの、地下のものの中に救われる者がいる」ということが言えるならば、「すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある。』と言う」という言葉から、「ベルやネボという異教の神も救われて主を賛美する」と結論づけてもよいということにならないだろうか。1コリント10章20節では、異教の神々の実体は悪霊である、と言われている。もちろん、聖書において、悪霊が救われるとは述べられていない。ローマ皇帝が被征服民に皇帝崇拝を強要したように、古代において、王が捕虜や被支配民に自分を崇めさせたり、たたえることを強制することはけっしてまれなことではなかった。
神は、御自身の敵を打ち負かし、彼らをキリストの足台とすると聖書において繰り返し述べておられる。

「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」(ルカ20・43)
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1・22)

クリスチャンが喜んで礼拝するのとは異なり、神の敵であるサタンや悪霊、背神者たちは、征服された者として礼拝と賛美を強いられる。現在反逆の中にある世界は、歴史において部分的に、そして、終わりの日に完全に、その秩序を回復し、堕落前の創造時のように、すべての被造物が神の主権に「自発的に」だけではなく「強制的に」も服するようになるということを、ピリピ二章一〇節〜十一節と黙示録五章一三節は教えている。

金持ちの愛

前述の金持ちの話に関し、K論は、「金持ちが示した温情と愛に深い感動を覚える」と述べている。もちろん、隣人が苦しむことのないように願う無私の心に動かされないクリスチャンはいないだろう。しかし、この個所における金持ちの役割は、このような無私の愛の素晴らしさを示すことにあるのではなく、生前「モーセと預言者の教え」を無視した者に、死後どのような運命が待ちうけているかを示すことにある。この記事全体の主張から離れて特定の部分に固執し、そこから本来のテーマとは無関係な教訓を引き出すことは、それこそ聖書の「曲解的解釈」である。金持ちの愛が、もしこの個所から学ぶべき主題であり、それを学べない者は「陰府に行くことすらできない」ほど重要な教えであるならば、なぜこの譬には、金持ちのその後の救いについて記されていないのか。「…キリストは旧約時代に天上から陰府の様子をご覧になり、金持ちの心を目撃して、深い感動を覚えられた。だから、それを私たちに語ってくださったのである」というならば、なぜ、「金持ちはその愛の心のゆえに救われた」という趣旨の文章が追加されていないのか。それがなければ、この譬には、もっとも大切な部分が欠けていることにならないだろうか。

ユダの救いについて

K論は、イスラエルの罪を見て全員を滅ぼそうとされた神が、モーセのとりなしによってさばきを思い直された(出エジプト三二・14)ように、ユダへのさばきをも思い直されるだろう、と語っている。しかし、聖書においてさばきを思い直すと言われているのは、すべて生者の罪についてである。これらイスラエルの人々は生者であった。死者の罪についてさばきを思い直されたと記してある個所は一つもない。死後に救いはあるかという議論の中において、生者の例をいくら出しても無意味である。生者ではなく、死者について神がその罪を思い直されたという例を引いてこなければまるで意味がない。ユダの救いだけではなく、死者の救いの可能性一般について人々を説得しようとするならば、聖書の中で、具体的にそのような者の罪が死後神によって容赦された個所を出さなければならない。しかし、すでに述べたように、残念ながらそのような個所は聖書の中に一つもない。
また、イエスは、ユダのことを「生まれてこなかったほうがよかった」と言われた。もし陰府において救われるチャンスがあるならば、ユダも最終的に救われる可能性のある人間であるということになる。最終的に救われる可能性のある人間について「生まれてこなかったほうがよかった」という形容は不適切ではないだろうか。

「罪人は滅びて当然」の意味

K論は、私が神を「罪人は滅びて当然」と考える「冷酷」な方として描いていると言う。これは、救済における法的側面と情緒的側面を混同した初歩的な誤解である。ここにおいて、私は、犯罪を行った人間が刑に服することが法律上当然であるように、罪を犯した人間が滅びるのは「法的に」当然のことだと述べたのであって、神がその罪人に対してどのような「情緒的」対応をされるかについては述べていない。神は、義のゆえに、罪人を法的に罰しなければならないが、愛のゆえに、その刑を赦免することを望まれる。救いとは、滅びるのが当然の代価である人間に対する神の「一方的な恩恵」である。神の恵みとか愛とは、「罪人は滅びるのが当然」という事実を背景としてのみはじめて際立つ。

ちなみに、予定論についても、誤解しておられる方がおられるので、一言触れておきたい。
予定論とは、「もうすでに予定されているのだから伝道しても無意味だ」という結論を導き出さない。あらゆる人間の救いは神がすでに決定しておられるが、人間はだれが救われて、だれが滅びるかについて知らないのであるから、予定された人々を探し出すために「あらゆる造られた者に」伝道しなければならない、と考える。予定論は、論争の対象にならないほど明確で、しかも、多数の証拠聖句を持つ確立された聖書的教理である。予定論がリバイバルを阻害するということが事実であるならば、16世紀から20世紀初頭に至る宣教の主役が予定論を信じる人々であったという事実をどう説明するのか。韓国の民族的リバイバルが予定論者に主導されたことをどう説明するのだろうか。

結論
以上示したように、陰府を「留置場」と考え、そこにおいて反省の機会が与えられ、悔い改めのチャンスが与えられると考えることによって、多くの、しかも致命的な矛盾や疑問が生まれ、聖書が啓示していない事柄について数々の推測を行わねばならなくなってしまう。我々は、これだけ多くの曖昧さが含まれている教えが教会の礼拝や教理、伝道や、クリスチャンの死生観を大きく変えることを許してよいだろうか。死後にセカンドチャンスがあると明言することによって、教会は大きな変化を強いられるだろう。K論は「人々のとりなしによっては、神が彼(ユダ)の行く末を思い直されることも、全くあり得ないことではない」と述べているので、死者のための祈りが礼拝に加えられたり、仏教の追善供養のような行事が追加される可能性を完全には否定できない。事実、死後にセカンドチャンスがあると信じる既存の教派においてこれらのことは現実に行われている。教会は、カトリックの免罪符のように、追善供養に伴なう聖職者の堕落と戦わねばならなくなるかもしれない。他界した親族の運命を左右する権能を生者が持つとすれば、生きている間にさんざん冷たくしておいて、死んでしまうと仏にして崇めるという在家仏教徒が陥った怠惰の過ちをクリスチャンも犯す恐れは十分にあるだろう。また、これまで背水の陣を敷いて真剣勝負で戦ってきた伝道者や宣教師は、死後のセカンドチャンスに頼る誘惑と絶えず戦わねばならなくなるだろう。
K論は、日本文化のルーツについて貴重な情報を提供しておられ、私がつとに尊敬している論者によるものであるがゆえに、このような場において真っ向から対論することになり残念でならない。日本のリバイバルのために共通の働きと理解に進ませていただくよう切に願うものである。

 

 

02/07/16

 

 

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