置換神学は間違った神学である

 

イスラエル問題について、
http://www2s.biglobe.ne.jp/~aguro/_private/meth1124.htm
において、下記のような指摘があったのでコメントさせていただきたい。

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ウィリアム・ヘンドリクセン「死後と終末」つのぶえ社、1983、pp.214-219

第32章 「こうしてイスラエルはみな救われる」 ローマ11:17,22−27

この箇所の誤った理解

誤った理解とは次のようなものです。

福音をもたらすにあたって、神は二つのグループを扱っていて、その一つは異邦人であり、もう一つはユダヤ人である。今まで長い間、主は排他的ではないにしても、特に異邦人を扱っているが、もう一度ユダヤ人を取り扱い始めるときが来る。その結果、ユダヤ人の「大勢」が回心するであろう。「彼らの大部分」、あるいは「ユダヤ人が国民として」とさえ言う者もいます。

それは、ローマ11章の文脈とは正反対のことです。

私たちの主は、どこにもユダヤ国民全体の回心を予告をしたことはありません。パウロの首尾一貫した教えによると、この国民とかあの国民、この民族、あの民族…というような者たちに対する特別な約束や特権は、この新しい契約時代においては存在しません。

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これは、典型的な置換神学である。

この説は次の一箇所によって徹底して粉砕できる。

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。」(ローマ11・1-2)

「アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身」という文言から分かることは、ここにおいて、「イスラエル人」と呼ばれているのは、「霊的イスラエル人」ではなく、「民族的イスラエル人」であるということである。

そして、この民族的イスラエル人は「退けてしまわれたのではありません」と明言されている。

置換神学者は、この個所をどのように解釈するのだろうか。

歴史的に、ピューリタン神学は、民族的イスラエル、ユダヤ人の回復を主張してきた。

ユダヤ人の回復を否定したのは、近年の改革主義神学の大きな失敗である。

ウェストミンスター神学校のジョン・マーレー教授は、ローマ書注解の11章において、この解釈を否定し、イスラエルの回復を唱えた。

近年の改革主義神学が置換神学に傾いたことは、「ア・ミレ」および「霊・奇跡・預言等」の否定と相伴って、その勢力を弱体化させる原因となったと考えられる。

私は、近年の改革主義神学の弱点は、カント以降の近代哲学の「霊肉二元論」つまり「キリスト教は霊界の事柄であり、地上界についてうんぬんすべきではない」という棲み分け理論に毒され、ヒューマニズム化、グノーシス化されたためだと考える。新約時代において、イスラエルはことごとく霊的イスラエルになり、民族的要素は、完全に排除されたと考えることはできない。

ディスペンセーショナリズムの「新約時代においても選民=ユダヤ人と非選民=異邦人の民族的経綸が存在する」という考えは間違いであるが、神が、ユダヤ人を一民族として神の家族に回復されるということを重要なテーマと考えておられることは、ローマ11章を見れば明らかである。

私は、次のように考える。

全世界のすべての民族を弟子とせよ、とイエスが命令されたように、聖書は一貫して民族を重視している。神は、この全世界の民族の回復の過程において、ユダヤ民族の回復を特別視しておられる。

もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。(ローマ11・12)

ここにおいて、「彼ら」とは、「民族的イスラエル」のことである。なぜならば、一つに、ローマ11・1-2において、パウロはこの個所において述べているイスラエルとは民族的イスラエルであると断っているからであり、もう一つは、「彼ら」は「異邦人」と対照されているからである。

もし、ここで「異邦人」とは「民族的異邦人」のことではなく、「霊的異邦人=ノンクリスチャン」の意味であると解釈できるならば、

「クリスチャンの違反が世界の富となり、クリスチャンの失敗がノンクリスチャンの富となる」などと解釈しなければならなくなり、聖書全体の主張と大きく異なる「異端的見解」になってしまう。

さらに、次の個所においても、「彼ら」を「霊的イスラエル」と解釈すると、とんでもないことになる。

もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。 (ローマ11・15)

「クリスチャンの捨てられることが世界の和解である」などとどうして言えるだろうか。

イエスは、「私はあなたがたを捨てて孤児とすることはしません」と明言されているではないか。

このような解釈こそ、「誤った理解」である。

ローマ11章において「イスラエル」とは「民族的イスラエル」のことであることは、誰の目にも明らかであり、それゆえ、置換神学は誤謬の神学である。


もしこれに対して反論があるならば、置換神学者は、自説を合理的に説明してほしい。

 

 

03/03/30

 

 

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