死後の救いについて 2 by starman氏

 

2.大宣教命令と死後の救い

◆マタ28:19,20
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


(1)大宣教命令は無効か?

死後にも救いがあるならば、福音をのべ伝え、あらゆる国の人々を弟子とする必要は必ずしもありません。なぜならばキリストがすべての人々の身代わりとなって十字架かかり、死んで、よみがえったという事実があるので、生きている間にキリストを信じても信じなくても最終的に救われる可能性が極めて大きいのですから。
いいえ、そうではない。生きている間に回心しなければ神の栄光を現す祝福された生き方をこの地上ですることができないので、生きているときに信じるのが一番いいのだから、死んだ後信じてもいということにはならないという意見があります。もっともらしい意見に聞こえますが、人間は堕落しており、神から離れた生き方を好むものです。この世の楽しみに浸っている者に対して、死んだ後にも救いのチャンスはあるけれど今信じた方がいい。神の栄光を現す素晴らしい生活ができるから、と伝道しても、説得力に欠けます。今、やりたいようにやっているんだからあとで信じればいいじゃん、ということになりはしないでしょうか。
この地上で、神を排除し好き勝手に楽しんだ生活を送ったあげく、死んでのち救いのチャンスがあるのなら、生きている間に命をかけてまで伝道しなければならないとする積極的な理由はないと思います。


(2)脅迫的伝道=効果的伝道

生前福音を拒否した者が黄泉に下った時、神様はルカの福音書に出てくる金持ちが受けたような苦しみを与えておいて、キリストが福音を語り、救うというのは脅迫的伝道といえます。
これは生前キリストを信じなかった罰だと言って拷問を加えながら、その拷問者自身が「我が愛とキリストの身代わりの死を受け入れよ。信ずるならばこの苦しみから解放されるぞ!」と迫っているようなものじゃないでしょうか。ルカの福音書に出てくるあの金持ちは、苦しくてたまらないと言ってましたが、死後にキリストから福音を聞き、信じることでこの苦しみから解放されるなら、多くの場合この救いを受け入れる選択をするでしょう。
生前キリストを信じなかったがために黄泉で苦しんでいるまさにその所に、イエス様が現れて福音を語るならこんな効果的な伝道はありません。不完全な人間が世の楽しみや誘惑の多い環境の中で伝道するより遙かにマシです。完全な神様から伝道される方が救われる可能性は遙かに高いのですから。

※ルカ16:19〜31にあるラザロと金持ちの話しからすると、生前にモーセ(律法)と預言者の言うことを聞くべきであり、それこそが、救いの要件であるということを示しています。そして、モーセ(律法)と預言者の言うことを聞かなかった者は、この金持ちのように苦しむことになるのです。さらには、第2ペテロ2:9によると、不義な者どもを、さばきの日まで懲罰のもとに置くとあるのですから、この金持ちはさばきの日まで苦しみ続けると考えるのが無理のない解釈でしょう。

引用聖書箇所
◆ルカ16:19〜31
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」


(3)茶番劇

神様は宣教師達に命懸けで伝道するのを許しておいて、そこで福音を聞いたにもかかわらず信じなかった者に対しては、死後、ご自身が直接福音を語って救うというのでしょうか?もし、神様はそういうことをされるのなら、命の危険を犯してまで伝道する必要はないのではないでしょうか。苦労してジャングルの奥地にようやくたどり着いて福音を伝えても信じない者はいます。その信じない者は後で神様が救うというのなら、はじめから神様にお任せすればよいということにならないでしょうか。
神様は、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じる一方で、信じないで死んだ人間には自ら救いの手をさしのべるお方だというのならば、まるで台本を半分だけ見せてクリスチャンにに芝居をさせている脚本家のようです。命を懸けて伝道している者達は喜劇役者といえないでしょうか。
永遠のさばきは人間が罪を犯したために受けるものですが、そこから救われるために「主イエスを信じなさい」というのが福音です。この福音を拒否してもなお死後において信じる者に救いを与えるというのならば、そもそも「アダムが罪を犯した。〜すべての人は罪を犯した。罪を犯したものはさばきを受ける。」と規定することすらナンセンスにならないでしょうか。罪の贖いのために捧げられたおびただしい動物の犠牲は無くても良かったということにならないでしょうか。
これでは聖書全体が茶番になるように思います。(もちろん聖書は茶番などではありません。)

 

 

02/06/03

 

 

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