頑迷さと不定見の解決法

 

新しいことに対する頑固と、旧いことに対する安易な否定とは、どちらも人間が避けなければならないことである。

新たな教えが出てくると、「そんなことは信じられない」と安易に切り捨て、旧い教えを主張する人々に対して「今までのキリスト教は間違っていた」と、適当な理由を示さずに否定する。これらの態度は、どちらも人々を誤謬に導く。

最近の聖霊派の出版物には、「旧来のキリスト教は間違っていた」という論調が目立つ。例えば、ある雑誌は、「予定論はキリスト教を縛ってきた」と言った。しかし、その理由を見ると、その論者が、伝統的なキリスト教の基礎的な教義に対して致命的な誤解をしていることが明らかである。

予定論を否定するならば、予定論とはいかなるものであるかをまず理解しなければならない。

どの分野についても言えることだが、新しい主張をする場合は、それまでの歴史を知らなければならない。新しい化学の理論を唱える人々は、化学の研究史を調べて、どこまで分かっていてどこから分からないのかをはっきりと知る必要がある。

例えば、ある化学者が学会で「水は酸素と水素から成り立っていることを発見した」と言えば、「あなた、顔を洗って出直してきなさい」と言われる。どの分野においても、研究史に対する無知は致命的である。

しかし、このような無知がキリスト教界ではまかり通っている。聖霊派には、改革派についてよく知っているかのように錯覚して、改革主義神学を批判する人々が目立つが、「あなたがたは改革主義神学についてどれだけ理解しているのですか?」と聞いてみたい。

こういった地道な作業を怠るから、「ポスト・ミレは、進化論の影響によってできた」などという妄想を平気で雑誌に発表して恥をかくことになる。

新しいことを主張したいなら、旧いことを学ぶべきだ。無知から生まれた運動が祝福されるはずもないし、人々から認められることもない。聖霊派の人々は、もし改革主義神学を否定したいなら、最低でも、ヴァン・ティルくらい読んで欲しい。ヴァン・ティルは、改革主義神学の基礎だから。

また、新しい教えをすべて「耳新しい」というだけで拒否することも間違いだ。聖書の中には、人類がまだはっきりと理解していない宝が隠されている。神は、教会を歴史の中において教育されるのであるから、歴史の進展の過程で明らかになる教えがたくさんあることを認めるべきである。

「旧いことに対する安易な否定」と「新しいことに対するアレルギー」はどちらもバランスを欠いている。

これらの誤謬を避けるには、聖書という絶対不変の基準を尊重すること以外にはない。聖書を軽視するから、判断基準を失って、頑迷と不定見という極端に流れる。

旧い教えを聞いて、「このような教えがあったので、キリスト教は縛られ、霊的な退潮に陥ったのだ」と言う前に、「この教えはどのような内容なのだろう。どのような歴史的な過程で生まれたのだろう。そして、聖書はこの教えを本当に述べているのだろうか。」と調べるべきだ。

新しい教えを聞いて、「そんなこと聞いたことない」と言下に否定するのではなく、「はたして聖書はそのように言っているだろうか。」と聖書をひもとくべきだ。

今日の、バランスを欠いた異教的キリスト教のルーツは、聖書の軽視にある。そして、聖書から正しい教理を築き上げてきた教会の歴史的営為に対する無理解がある。

 

 

02/08/07

 

 

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