吉井春人牧師の批判に答える13

 

<吉井先生>
繰り返しますが、使徒1:7をどのように読むのかをおきかせください。マタイの大宣教命令については、この箇所からだけでは、終末の状況が「どんな時であるか」ということまでを読みとることはできません。姦淫の女の記事から、「無律法主義を引き出すことはできない」という点は私も納得しています。もしこの箇所をもって、「姦淫を犯しても主から許される道がある」とよむなら、マタイ伝5:27以下から何も学んでいないことになります。聖書に自分の反キリスト的概念のために「読み込みをしている」ことになります。この箇所から「イエスは律法の効力を無効にされたのだ」という反聖書的な概念を引き出す事例に抗しているというなら、バンセンの狙いは正しいと思います。何もめあたらしいことではありません。モーセ律法の罰則規定が近代の社会法にも「有効」であるという主張に対して、イエスの寛容を身勝手に悪用する「無律法主義者」がいると想定してこの箇所を典型的な事例にしたいのでしょうけれど、この箇所は、当時罪人とされていた人々に対してさえ主イエスの態度は一環しておられたということが読みとれるだけで、この箇所からだけでは、無律法主義も律法主義も出てきません。

<富井>
なぜか先生の掲示板のサーバーが機能していないので、直接メールで配信します。

>繰り返しますが、使徒1:7をどのように読むのかをおきかせ
>ください。

このことについてはすでに述べたはずです。
繰り返しますが、使徒1:7は、「西暦何年何月何日に再臨がある」というような具体的時期指定を禁じているとすべきです。しかし、歴史における福音の勝利という聖書全体の主張という観点から見れば、この個所から「どのような時期限定もしてはならない」ということは言えないのです。聖書は、「ピンポイントの具体的時期指定について人間は知るべきではない。なぜならば、それによってクリスチャンが『再臨はまだまだだからのんびりやろう』とか『もうすぐだから仕事を止めて再臨に備えよう』というように慢心やあせりによって心が動いて正常な活動ができなくなるから。しかし、歴史全体の流れは、福音の勝利に向って世界は動いているし、キリストがサタンよりも強いので全的な勝利を期待しながら戦うことができる。」と述べているのです。繰り返しますが、これは私の個人的独創的な意見ではなく、古くはアウグスチヌス、宗教改革においてはカルヴァンを始めとして教会が歴史的に信じてきた意見であり、この立場は今日は忘れられているが、これによって世界宣教が進んできたという歴史的な事実があり、その歴史的事実を証明するための文献は非常にたくさんあるのです。

聖書そのものからもこのことは容易に証明できます。具体的時期指定禁止の個所がある反面において、「あなたの敵があなたの足台となるまで私の右の座についていなさい」と父なる神がキリストに向って命令しておらます。そして、「万物の回復が起こるまで天はキリストを止めておかねばならない」とも書いてあります。

これだけの証拠を挙げながら、先生はこれらについて一つも応答せず、ただ自説を繰り返すだけです。なぜまともに答えないのですか?これらの意見に対してまっこう勝負せずに、ただ他の教会の宣言文だけを根拠に述べるならば、単なる頑固者になります。先生は、頑固者には重大な裁きが下ることを恐れていますか?

「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」(ローマ2・6,8)

繰り返します。「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」(ローマ2・6,8)

真理よりも、教派の宣言だとか、他の頑固者の意見を重視するならば、神は、先生に「怒りと憤りを下される」のです。

>マタイの大宣教命令については、この箇所からだけでは、終末の
>状況が「どんな時であるか」ということまでを読みとることはで
>きません。

私が述べたことをまったく無視して結論だけ出しても理解不可能です。この文章を読んでいる読者も納得しないでしょう。
もし大宣教命令において「すべての民族を弟子とせよ。」と命令されているならば、それができると考えるのが普通ではないか、という問いかけになぜ答えないのでしょうか。
この問いに答えなければ対話にはならないのです。同じことをただ鸚鵡返しするだけでは対話は進展しません。

もう一度確認させてください。こちらの論述を無視しないように。
「すべての民族を弟子とせよ。」という命令が、ただ単に「すべての民族を弟子とするように努力せよ。最終的結果については保証しないが。」と言う意味と解釈することは、不自然であり、聖書の曲解です。
このような中途半端な命令をする指揮官がいれば、どのような軍でも勝利を期待できません。確実な勝利を期待できない人間ですら、自分の軍を鼓舞する場合には「必ず勝てる」というのであれば、どうして、全能の神がその僕たちに「できるかどうかは保証しない」と言われるでしょうか。
我々の指揮官は「天地における最高権威」であり「常に共にいて助けてくださる」キリストなのです。弟子達は、世界をキリストの王国として整え、アダムに与えられた「地を従えよ」との命令を成就する使命を再度与えられたのです。この大宣教命令と文化命令の平行性は改革主義の中核にあるので、改革主義者たちは黙示録の千年王国を「この地上で戦う教会」と解釈し、この地上において教会は勝利すると考えてきたのです。

19世紀後半から20世紀前半にアメリカン・リフォームドに侵入したダッチ・リフォームドの無千年王国説を改革主義の正統的な立場と考えるという誤解からは、何も生まれません。歴史をきちんと見据えて、このダッチ・インベイジョンの前の状況を振りかえるべきでしょう。このような歴史的発掘は、アイアン・マーレーの「ピューリタン・ホープ」を始め、ウェストミンスターのマーセラス・キックの「勝利の終末論」、ローレイン・ベットナーの「ミレニアム」などにおいて進んできました。そして、再建主義者だけではなく、現在多くのリフォームドの人々が、終末論の再考を行っています。

例えば、ジョン・ジェファーソン・デイヴィスは、「現在、保守派の間においてほとんど忘れ去られているポスト・ミレが19世紀の大部分において主要な千年王国説であったという事実に私は衝撃を受けたのである」と述べました(John Jefferson Davis, Christ's Victorious Kingdom: Postmillennialism Reconsidered (Grand Rapids: Baker Book House, 1986) p. 7, 10.)。

もちろん、キリスト教界において正統とされていたから、とか、旧い立場であるから、というだけでは問題は解決せず、問題は、聖書そのものの主張を見ることであるという点は見失ってはなりません。しかし、たとえ聖書そのものを見ることにおいても、ポスト・ミレを反駁するだけの高度の議論ができる人はまだ私の前に現われておりません。

「すべての国民を弟子とせよ」と命令されたからには、それが可能であると考えるのは自然であり、それゆえ、「終末時における状態についてこの言葉から知識を得ることは可能である。すなわち、終末時において、地のすべての民族がキリストの弟子となる」と信じることは可能なのです。

ちなみに:
このような聖書的勝利を疑う教えは、サタンの教えであることは明らかです。なぜならば、サタンの目的は、キリストの地上王国発展の阻止にあるからです。世界の諸民族の弟子化の可能性を疑う教えがどうして、クリスチャンにとって利益があるでしょうか。こんな教えを述べ伝えている人々は、自問しなければなりません。「私は、キリストの祈り『御心が天で行われるように地上でも行われるように』との祈りを成就しようとしているだろうか。」と。この祈りの実現を阻害するような教えを伝え、サタンの力を過大評価し、教会がキリストから与えられる力を過小評価することがどれほどの罪であるかを考えるべきです。教職者は、この聖書の中心的なテーマについて慎重でなければなりません。次第に世界においてキリストの覇権を失いつつある今日の逸脱した教会・教派の宣言を根拠に自説を頑固に主張することは、その教会・教派とともに自滅することを意味するのです。これは、ホームスクーリングにおいても同じです。キリストの主権と力を信じないホームスクーリングにいかなる意味があるのか。世に対して働きかけず、世に対して勝利し、文化を獲得することを信じられない人々が子供を教育すれば、敗北主義者をクローンするに過ぎず、それゆえに、その働きは早晩頭打ちになることに早く気づくべきです。主の祝福を得たいならば、今日のディスペンセーショナリズムや無千年王国説改革主義の影響から一日も早く脱却すべきです。

>モーセ律法の罰則規定が近代の社会法にも「有効」であるとい
>う主張に対して、イエスの寛容を身勝手に悪用する「無律法主
>義者」がいると想定してこの箇所を典型的な事例にしたいので
>しょうけれど、この箇所は、当時罪人とされていた人々に対し
>てさえ主イエスの態度は一環しておられたということが読みと
>れるだけで、この箇所からだけでは、無律法主義も律法主義も
>出てきません。

この発言は、先生の前の発言と矛盾します。
先生は、「この箇所を罪深い女への無条件の赦しと解釈することは、主イエスの地上での活動と矛盾しません。」と述べられました。つまり、先生は、イエスは女を「無条件」で「赦し」たとハッキリと述べられたのです。もちろん、「律法を超越した無条件の赦し」は、ディスペンセーショナリズムの「無律法主義」です。
自分の間違いを正直に認めない教職者は、信徒の信頼を失い、馬鹿にされ、捨てられるという厳しい現実に目を向けられたほうがよいのではないですか。教職者にとって、教理は、その働きの中心であり、教理的にいいかげんな教師は、人様から御金をもらうべきではない。「奥義の忠実な管理者」である人間、聖書を解釈し、それを忠実に教えるように神から召しを受けた人間がこのような逃げ方をするのは、神に対する背任であるだけではなく、信徒に対する裏切りでもあります。

 

 

02/06/20

 

 

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