無千年王国説を論駁する

 

 無千年王国説を知るには、無千年王国論者の口から説明してもらうのが一番である。無千年王国論者フロイド・E・ハミルトンがこの説について自著"The Basis of Millennial Faith"(pp.35-37(1942); cited in The Millennium by Loraine Boettner, p. 114)において語っているので、訳文を掲載し、下線部について反論を加えたい(下線強調は富井による)。

 

無千年王国説という名前を聞くと人々は、その提唱者は黙示録20章の千年間を信じていないのだろうと受けとってしまうようだが、実に残念なことだと思う。この名前は、文字通り解釈すれば、「千年王国は存在しない」という意味である。しかし、実際のところ、提唱者たちは、千年王国そのものを否定しているのではない。キリストは、最後の審判の前に文字通り地上に王国を作るわけではなく、それはあくまでも霊的・天的な存在である、と考えている。ある観点から見れば、無千年王国説は、後千年王国説の一部と見ることができるかもしれない。というのも、キリストが再臨される前に、霊的・天的な御国が千年間続くと考えるからである。聖書において、キリストの御国を千年間の王国であると限定している個所は、黙示録20章しかないが、ここでは、千年の間、「たましい」がキリストと共に支配していると言われている。無千年王国論者は、それを、天において肉体を離れた霊魂が千年間キリストと共に霊的に支配する と解釈する。完全や完成を表す数字『千』は、キリストの初臨と再臨の間に広がる完全な期間 を象徴しているのである

 

 「キリストの初臨と再臨の間」、すなわち、教会時代に、天上のクリスチャンだけが支配者であると考えることはできない。なぜならば、聖書は、地上のクリスチャンも、キリストとともに支配者であるとはっきり述べているからである。

 

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました(エペソ2・4-6)。

 

 キリストを信じて教会に加えられたクリスチャンは、キリストにおいて第一の復活を経験し、昇天した。それは実際の復活、昇天ではなく、「キリストにあずかる」復活であり昇天である。キリストが天において万物の支配者となったのであるから、キリストと一つであるクリスチャンも万物の支配者なのだ。

 

イエス・キリストは、…私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である(黙示録1・6)。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです(1ペテロ2・9)。
私たちは御使い(言語は、堕天使をも意味する’αγγελουsである)をもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか(1コリ6・3)。

 

 クリスチャンは、悪霊を裁く権能を持っている。地上歴史において、サタンや悪霊どもと戦い、彼らを徐々に地上から追い出し、最後には、キリストにあって、永遠の火の池に投げ込む。

 

 ハミルトンは、王として支配しているのは、肉体を持つ人間ではなく、人間の「たましい」であると言う。また、「天において肉体を離れた霊魂が千年間キリストと共に支配する」のはもっぱら「霊的に」であると説く。つまり、教会がこの歴史を支配できるのは、「霊的なこと」「福音伝道」に限定されると言う。宣教や教会のこと以外について、クリスチャンがどんなに努力しても、この世界はけっしてサタンの手から解放されることはない、政治、経済、芸術などこの地上における営みにおいては、神の主権を確立することなど不可能である、と。しかし、主権がある一面だけに限定される者をはたして王と呼ぶことができるだろうか。キリストはマタイ28・18において、自分には天地における一切の権威が与えられていると宣言されたが、キリストの主権が宣教などある領域に限定されており、この世界の他の領域について、キリストは主権者ではないということをこの御言葉から判断できるだろうか。もちろん、できない。それならば、クリスチャンがキリストとともに「天の所に座らされた」ということは、彼らがキリストとともに、この世界のあらゆる領域に関して、全権を与えられていると考えるべきではないだろうか。聖書は、このことをはっきりと証ししている。

 

イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた(ルカ9・2)。

 

 イエスが弟子たちに与えられた権威とは、ただ神の国を宣べ伝えるだけではなく、すべての悪霊を追い出し、病気を直すことにおいても有効だと記されている。霊と肉体の両方において、人々を癒し、回復させる権威が与えられているという。

 神はアダムに「地を従えよ」とお命じになった。ここには霊肉の区別は存在しない。世界のあらゆる領域を支配せよと命じられている。クリスチャンは、第2のアダム=キリストにつく者たちである。第1のアダムが失敗した被造物支配の命令は、第2のアダムに与えられ、クリスチャンはキリストにあってその使命を受けた。

 イエスは、弟子たちに「すべての国民を弟子とせよ」とお命じになった。ただ「宣教せよ」と命じられたのではない。「わたしが命じたすべてのことを守るように教えなさい」と言われた。キリストの命令は生活全般にわたっている。なぜならば、キリスト御自身が、生活全般において細かな指示をしている旧約聖書の律法がけっして廃棄されていない(マタイ5・17)と言われたからである。「飲むにも食べるにもただ神の栄光のために」しなさいとパウロは語った。

 クリスチャンは、この世界の霊と肉体の両方の領域において、生活のあらゆる面において支配者である。クリスチャンがすべての土地のあらゆる領域について、神の支配を拡大することを望んで、そのために努力するならば、必ずそれはこの地上において実現する。クリスチャンの王権はある領域に制限されるべきものではない。それは、主イエスの王権が制限されていないのと同様なのだ。

 

 もう一つ釈義上の問題がある。ハミルトンは、「たましい」という言葉にこだわっているが、「たましい」がキリストとともに千年間王となると言われている個所の前に、「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。」と記されていることを無視している。つまり、4節は、まず24人の長老(19・4)に王座が与えられたこととが述べられ、次に殉教者のたましいがキリストとともに王となったと述べている。王になったのは、「たましい」だけではなく、「24人の長老」もである。24人の長老とは、もちろん教会を表している(*)。キリストの初臨と再臨の間の期間、すなわち、教会時代において、教会が世界の王となったとここにおいて宣言されている。

 

終末の出来事の概略を述べてみよう(支持聖句は付さない)。前千年王国説と同じように、我々も、この世界には善と悪が共存すると考える。それは、携挙の時まで続く。我々は、全世界が進歩発展し、ついには、人類全員がキリスト教に帰依するとは思わない。キリストがものごとを矯正する終わりの時まで、戦争は無くならないだろう。選びの民は、悪の世界から呼び出されるだろう。たしかに、我々は、全世界に福音を宣べ伝えよとのキリストの命令に従うべきであり、力の限りを尽くして、キリスト教的な社会の建設に努めるべきである。しかし、たとえ我々にそのような義務や責任があったとしても、我々は、社会全体がキリスト教化されると期待することはけっしてできない。むしろ、キリスト教とクリスチャンに敵対する悪の勢力はますます強暴になっていくと予想される。だからといって、我々は、世界に福音を伝える義務や、キリスト教の原理を宣伝する責任から逃れられるわけではない。
この時代が終わりに近づくにつれて、悪の勢力は、反キリストに先導された政治・経済・宗教各勢力の強力な同盟として台頭してくるだろう。反キリスト、つまり、不法の人の支配が終わる頃になると、彼はキリストの教会をひどく迫害する(一部の前千年王国論者は、これはユダヤ人に対する迫害であると誤解している)。このひどい患難の中で、多くのクリスチャンが殺されるだろう。
しかし、ハルマゲドンの戦いにおいて、サタンとその手下どもが完全な勝利を収めたと思った瞬間に、キリストがシエキナの栄光を帯びて現われる。すべての人は復活し、死人と、その時生きている聖徒たちは、救い主を出迎えるためにとらえ挙げられる。そして、神の御怒りが注がれ、不信仰な国民は破滅に追いやられる時に、ユダヤ人は「彼らが刺し通した者を」見、悔い改め、すぐにイエスをメシアと認めるようになる…。彼らも、キリストの生ける教会とともに栄化され、携挙に加えられ、あらゆる時代の選民の教会と一体となる。これによって、救いに選ばれた者の数は満ち、救済の業は終わりを告げる。…最後の審判の後、神の永遠の御国が新天新地に築き上げられ、…そして永遠に至る。
 

 この歴史において、善と悪とはどちらも成長すると言う。それゆえ、この歴史において福音の勝利はありえないし、クリスチャンの社会改革は成功しないという。これは、まさしく無神論的歴史的悲観主義である。奥山実師は、無千年王国説と後千年王国説は兄弟関係にあると述べたが(『ハーザー』2000年12月号)、この意味においては、むしろ、前千年王国説と無千年王国説が兄弟関係にあると言える。

 

 しかし、聖書を見ると、歴史において、善は祝福されて強くなり、悪は裁かれて弱くなると言われている。旧約聖書全体を通じて、神は、悪に染まった勢力に裁きを下し、滅ぼしておられる。罪と暴虐に満ちた世界は、洪水によって滅ぼされ、ノアとその家族だけが残された。好色に染まったソドムとゴモラの町には天から火が下った。悪いイスラエルには裁きがくだって、アッシリアとバビロニアによって滅ぼされた。ダビデは詩篇1篇において次のように述べた。

 

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる

 

 新約聖書においても、預言者を殺し、最後にはイスラエルの王、イエス・キリストすらも十字架につけて殺したイスラエルに裁きが下ると預言されている。そのとおり、紀元70年にユダヤ人の国家は滅亡し、ユダヤ人は全世界に散らされた。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される(マタイ23・33-38)。
 

 聖書は、一貫して、この歴史の中において、善と悪に対する裁きは確実に下ると述べている。マタイ13・25-30の毒麦のたとえにおいて、イエスは、毒麦は必ず抜き去られて火の中に投げ込まれると言われた。このたとえが、もっぱら終末において実現するという保証はない。つまり、あらゆる「麦」も「毒麦」も終末になるまで放置されるということをここから主張することはできない。旧約時代において、裁きは歴史内において下ったように、新約時代においても裁きは歴史内に起こる。もし、善に対する報いが歴史内において起こらず、悪に対する裁きが歴史内において起こらないならば、「御国が来ますように。」「御心が天で行われるように地上でも行われますように。」との祈りはまったく空しいことになる。善も悪もさばきを受けずに、それぞれが勢力を拡大することが「御国が来ること」なのだろうか、「御心が地上で行われていること」なのだろうか。神が望んでおられることは、この歴史内において、諸国民がキリストの弟子となり、キリストが命じたことをすべて守るようになることなのである(マタイ28・20)。善悪に対する応分の報いの原理を否定することは聖書が教える因果律を否定する重大な違反であり、神はこの歴史の主ではないとする不信仰の罪なのだ。

 

 ハミルトンは、「むしろ、キリスト教とクリスチャンに敵対する悪の勢力はますます強暴になっていくと予想される」と言うが、これは、神の力に対する疑いである。聖書は、繰り返して、神の勢力は悪の勢力に対して必ず勝利すると述べている。

 

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16・33)。
子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです(1ヨハネ4・4)。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか(1ヨハネ5・4-5)。
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります(ヤコブ4・7)。
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます(ローマ16・20)。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました(コロサイ2・15)。
 

 神が望んでおられることは、神の民による勝利であり、全世界の回復である。「天の御国は、パン種に似ています。女が取ってそれを3サトンの粉に入れると、粉全体が膨らみます。」(マタイ13・33)と言われているように、御国はそれと接触するものを不可避的に変えていく。神の福音がもたらす生命と触れる者は、それによって変えられていく。この善の発酵の勢いに抵抗することはできない。「粉全体」=全世界が影響を受けることになる。

 

 聖書は、歴史の未来について楽観的である。福音の進展によって、世界が未曾有の祝福に覆われる時代が来ると聖書は繰り返して預言している。

 

(1)キリスト教が世界に広まり、全地において主が礼拝されるようになる。

 

日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ(マラキ1・11)。
主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう(詩篇86・9)。
地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう(詩篇22・27)。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ(エレミヤ31・34)。
 

(2)御国の勢力は何よりも大きくなり、諸国民は聖書の教えに従うようになり、地上に平和がやってくる。

 
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない(イザヤ2・2-4)。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る(ゼカリヤ9・10)。
 

(3)聖霊が世界を満たす。

 
彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった(エゼキエル47・1-5)。

 

(4)神の御国はあらゆる人間の帝国が滅びる中で生き残り全世界に及ぶ。

 

そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちた。…この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます(ダニエル2・35、44)。
まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。セラ 神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる(詩篇47・2-8)。
彼の代に正しい者が栄え、月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように。彼は海から海に至るまで、また、川から地の果て果てに至るまで統べ治めますように。荒野の民は彼の前にひざをつき、彼の敵はちりをなめますように。タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。…彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。(詩篇72・7-11、17、19)。
しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た(ダニエル7・22)。
 

 前千年王国説は、このような楽観的な未来図は、再臨のキリストによる軍事的専制によって可能になると言うが、神は、強制や軍事的な圧迫や、エルサレムの神殿から発せられるキリストの命令によって、神の国が到来するのではないと言われる。

 

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」(マタイ13・31-32)。

 

 神の国の出現は、弟子作りによって徐々に進む。宣教と信仰と、愛による教育と訓練によって徐々に達成されるものだ。

 

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです(1コリント 1・21)。

 

 前千年王国説が主張する、再臨のキリストによる強制的支配は、信仰を不要にする「異なる教え」である。神の御国が信仰以外のものによって築き上げられるとする個所は聖書のどこにも存在しない。

 それゆえ、「そして、神の御怒りが注がれ、不信仰な国民は破滅に追いやられる時に、ユダヤ人は彼らが刺し通した者を見、悔い改め、すぐにイエスをメシアと認めるようになる…。」というストーリーはまったく聖書的ではない。ユダヤ人がイエスをメシアと認めるのは、ただ、十字架を見上げることによる。信仰によらずに人を救いに導こうとする方法は、サタンの救済案である。サタンは、イエスを誘惑して、イエスを神殿の頂きから飛び降りさせようとした。飛び降りて無事に着地することを見せ付けるならば、人々は間違いなくイエスを神と認めるだろうからと(ルカ4・9-11)。人は、謙遜になる以外に、救いを受け入れることはできない。イエスの福音とは、「賢い者や知恵のある者」には隠され、「幼子」のように素直で謙遜な者にしか理解できないものなのである(マタイ11・25)。

 

 ハミルトンは、反キリストによる大患難について「この時代が終わりに近づくにつれて、悪の勢力は、反キリストに先導された政治・経済・宗教各勢力の強力な同盟として台頭してくるだろう。」と述べているが、このような反キリストの存在を聖書から裏付けることはできない。

 

 聖書において「反キリスト」が登場するのは、次の4箇所しかない。

 

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります(1ヨハネ2・18)。
偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです(1ヨハネ2・22)。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです(1ヨハネ4・3)。
なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです(2ヨハネ7)。

 

 他に反キリストを指すと前千年王国説が言うところの、「不法の人」、「獣」、「小さな角」は、聖書からの直接の示唆はなく、単に憶測で反キリストと同一人物であるとされているに過ぎない。

 

 実際、注意深く読むならば、ヨハネが述べている反キリストは、不法の人とか獣や小さな角とは一致しない。

 なぜならば、まず、反キリストは、紀元1世紀に存在した複数の人物を指しているからである。ヨハネははっきりと「多くの反キリスト」(1ヨハネ2・18)と述べている。そして、「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです」(19)と述べている。つまり、ヨハネがこの個所で述べている反キリストとは、教会を離れ、イエスがキリストであることを否定し、人として来られたことを否定する異端の人々を意味していた。キリストの人性と神性を否定するこのような異端者の霊を、ヨハネは反キリストの霊と呼び、「それが世に来ている」(1ヨハネ4・3)と証言している。つまり、ヨハネが生きていた紀元1世紀に反キリストは存在した、とはっきりと語っている。

 

 しかし、前千年王国説は、いかなる聖句の裏付けもないままに、反キリストについて終末に現われる一人の独裁者のイメージを作り出した。

 ジョージ・W・ベックウィズは反キリストについて次のように述べている。

 

大患難の最中に、ユダヤ人との契約を破棄したこの独裁者は、活発に活動を開始するようになる。彼はエジプトに攻め込んでこれを占領し(ダニエル11・42、43)それを皮切りに最終戦争に突入する…。彼は、エドム、モアブ、アモンを除くすべての地中海諸国を占領する(ダニエル11・41)。ユダヤ人の残りの民は、これらの国々に逃げ込むだろう。ローマの連合軍を率いる獣がパレスチナを目指しつつ地中海諸国を占領する間、北の同盟軍もパレスチナ侵攻の準備を始める。北の同盟軍については、エゼキエル書にこのように記されている。「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。」
反キリストは、東と北からの知らせに驚く。彼が率いる十カ国同盟軍は、ゴグを頭とする北の同盟軍と、エズドラエロンの谷で一戦を交えるだろう。この二つの同盟軍の目当ては、どちらもパレスチナの富である。この戦いにおいて勝利し、全世界の軍隊の司令官となった反キリストは、神の選びの民イスラエルと戦うためにハルマゲドンに向うだろう。それゆえ、この戦いは、反キリストに率いられた異邦人諸国とユダヤ人との戦いになるであろう。その時、黙示録に記された白馬の騎士イエス・キリストが天から降りてくる。彼は反キリストと戦い、彼の大軍隊を打ち破るだろう。戦死者は、ハモンゴグの谷に葬られる。イスラエルの家は、七ヶ月かけて反キリスト軍の戦死者を埋葬するだろう。
復活したローマ帝国の皇帝、反キリストの権力もついに潰え去る。…反キリストのわざを終わらせ、諸国民を裁き、御国を確立するために、キリストは天の万軍を引き連れてオリーブ山の上にに立たれる(George W. Beckwith, God's Prophetic Plan, pp. 104-106, cited in Loraine Boettner, The Millennium, pp.209-210)。

 

 聖書解釈は、文脈理解がいのちである。文脈の裏打ちがなければ、聖書を題材としてどのようなストーリーでも編み出せるからである。ペテロは、聖書預言の私的解釈を厳に禁じている。

 

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています(2ペテロ1・20-2・1)。

 

 ダニエル書やエゼキエル書、パウロ書簡、黙示録からのいかなる裏づけもないのに、ヨハネの手紙に記されている単なる「キリストの神性と人性を否定する異端者」が、「終末に登場し、ユダヤ人とハルマゲドンで最終戦争を行う復興ローマ帝国の独裁者」と同一視されている。我々は、このような言説をよくよく注意深く聖書からチェックしなければならない。「本当にヨハネが述べた反キリストは、黙示録の『獣』や、パウロが述べた『不法の人』と同一人物なのだろうか?聖書のどこにそのようなつながりが書かれているのだろうか?」と。そうでなければ、我々は、ペテロが警告した「預言の私的解釈」をしていることになる。預言の私的解釈は、「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込む」人々の専売特許である。我々がこのような人々に騙されないためには、ただ聖書を注意深く文脈にそって読むこと以外にはない。

 

 ハミルトンは、「反キリスト」を第2テサロニケ2・3の「不法の人」と同一視しているが、パウロは「不法の人」をどのように描写しているであろうか。

 

さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

この個所は、「反キリストは終末の直前に登場する」という説を立証する個所として挙げられることが多い。しかし、ヨハネの手紙の「反キリスト」とここで言われている「不法の人」とが同一人物であることを立証することは不可能なのだ。なぜならば、まず、「反キリスト」は複数の人々を指すとヨハネは述べているのに対して、「不法の人」はひとりの人物だからである。「不法の人」を表す原語は、単数形である。また、「不法の人」は、「神の宮の中に座を設け」ると言われているが、「神の宮」が何を指しているかと言えば、それは、明らかに紀元70年にローマ軍によって破壊されてしまったエルサレムの神殿なのだ。前千年王国説の人々は、終末にもう一度神殿が建つはずだ、というのであるが、残念ながら、パウロが「神の宮」と述べているのは、彼と手紙の読者であるテサロニケの人々が知っている「当時エルサレムに建っていたヘロデの神殿」のことであって、前千年王国説の人々が期待する将来ユダヤ人によって建設される神殿とは別物なのだ。

 考えてみていただきたい。手紙を書くときに、我々は、どのような目的を持って書くであろうか。もちろん、その直接の読者に理解してもらうという目的をもって書く。相手が読んでもわからないことを延々と書く手紙の送り手がいるだろうか。現代と違って当時の手紙は高価であり、送るにも今日と比べものにならないほどの危険と手間と費用がかかったはずである。そのような高い代価を払って書く手紙において直接の読者であるテサロニケの教会の人々が読んでチンプンカンプンなことを延々と述べるような愚かなことをするだろうか。どのような文書にしてもそうだが、聖書においても、その書き手と読み手の歴史的・社会的な背景を考慮しなければ、正しく内容を把握することはできない。この手紙は、第1世紀の迫害下にあったテサロニケの教会の人々にあてて書かれたものだ。だから、その中において言及されている人物は、第1世紀に生存しており、彼らの運命と密接な関連のある、彼らがよく知っているか、容易に類推できる、ある重要な人物であるはずだ。それゆえ、「不法の人」をムッソリーニだとか、ヒトラー、ロスチャイルド、毛沢東、ローマ法王、ナポレオン、または、これから登場する復興ローマの指導者などと見ることは間違いなのだ。しかも、7節では、「不法の秘密はすでに働いています」と述べられている。「背教」はすでに当時始まっていた、と。すでに始まっていると言われている以上、それが2000年後の背教を指していると考えることは到底できない。この個所を終末預言に含めることがいかに文脈から離れた解釈であるか御分かりいただけただろうか。

 

 さて、それでは、この「不法の人」とは誰なのであろうか。最もオーソドックスな理解は、ローマの皇帝である。テサロニケを支配し、彼らの信仰を圧迫していた最も影響力のある人物といえばローマの皇帝以外いない。「背教」(3)とは、ユダヤ人の背教を指すのであろう。なぜならば、当時ユダヤ人の罪はその頂点に達していたからである。キリストを殺し、使徒たちを迫害し、教会を滅ぼし、神の御心と真っ向から敵対した結果は、紀元70年の神殿崩壊に続くユダヤ国家の消滅であった。このことはパウロ自身が述べている言葉から明らかである。「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。」(1テサロニケ2・15、16)そして、このように付け加えている。「しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました」と。当時の政治や宗教の状況を考えれば、この人物をローマ皇帝以外の者と見ることは不可能である。

 

 ウォーフィールド博士は、この人物について次のように述べている。

 

我々は、ここで言われている不法の人は、使徒パウロと同時代、または、ほぼ同時代の人間を指すと考えなければならない。引きとめる力はすでに働いていた。不法の人はまだ現われていなかったが、彼の「不法」の秘密はすでに働いていた。その働きは、「現在引きとめているものが取り去られるまで」続くはずであった。彼は「神の宮」に立つだろう。これは、自然に考えれば、文字通りエルサレムの神殿を指すと考えられる…。主がオリーブ山上で言及されたあの人物(マタイ24章――パウロは読者にこの個所を暗に想起させているのは明らかである)と、パウロが描写した人物の様子とを比較するならば、次のことが明らかになる。すなわち、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」と述べたときに、パウロは、主がマタイ24章15節で語られた「聖なる場所に立つ、預言者ダニエルが語った荒らす憎むべき者」を念頭に置いていたということである。…[不法の人と荒らす憎むべき者との間に存在するこのような]明確な並行関係は、不法の人の登場の時期が間近に迫っていることを明示しているだけではなく、この人物が一体誰であるかという情報も提供してくれる。主の御言葉によれば、この人物はエルサレムの包囲と関係しているばかりか、その包囲を実行する主役でもあった。パウロの元本となったダニエル書の11章36節の内容を考慮に入れるならば、我々は、この人物をローマ皇帝と解釈してもそれほど大きく間違うことにはならないだろう、と考える。…(B.B.Warfield, Biblical and Theological Studies, pp.472-475)。

 

 すなわち、「不法の人」とダニエル11章とマタイ24章の「荒らす憎むべき者」とは同一人物である、ということなのだ。事実、エルサレムを占領したティトスは、自分の記章を至聖所に持ち込んだ。歴代のローマ皇帝は、自分を神とする者たちであるから、ティトスの軍隊が、神殿に入り込んで記章を置いたということは、ローマ皇帝がユダヤ人に自分を拝ませようとしたと考えることができる。ここにおいて、パウロの「不法の人」とダニエルやマタイの「荒らす憎むべき者」の預言は成就した。

 

 さて、最後に、クリスチャンへの「迫害」と「患難」についてであるが、終末の直前に大患難や大迫害がやってくることを示唆する個所は聖書には存在しない。いわゆる今日一般に大患難と呼ばれている出来事の聖書的根拠は、マタイ24・9-22であるが、この個所は、すでに紀元70年のエルサレム陥落、神殿崩壊において成就している。歴史家ヨセフォスはこの事情を『ユダヤ戦記』において詳しく記している。戦争や戦争のうわさ、地震やききん、裏切り、背教、大虐殺などがイエスの預言通り起こった。そもそも、マタイ24章は、23章から続く一連の文脈から判断するならば、世界の終末の預言ではなく、イスラエルの終末であると考える以外にはない。

 

 23章において、イエスは、背教のイスラエルを糾弾しておられる。神は、何度も悔い改めを迫るために預言者を遣わしたが、ユダヤ人は彼らを殺したり迫害した。そして、ついに御子までも殺してしまった。ついに神の忍耐も限度を超え、裁きを下すことにした、と言われている。すでに引用した個所をもう一度引用しよう。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される(マタイ23・33-38)。

 

 この預言に続いて、24章が始まる。24章は、弟子たちが壮麗な神殿を指し示したときに、イエスが「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」(2節)とその崩壊を預言したところから始まる。

 

古代において、国家の中心は宗教であり、国家と国家の戦いは、それぞれの国の神同士の戦いであった(**)。特に、イスラエルは、エルサレムの神殿を中心に生活の隅々まで律法によって規定された神政政治が行われていたため、神殿が崩壊することは、国家と民族の完全崩壊を意味した。それゆえ、神殿が崩壊すると預言したイエスに対して弟子たちが「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」(3節)と言ったときに、彼らが意味していた「終末」とは、イスラエルの国家的民族的終焉を意味していたと受け取れる。現代の日本人から見れば、「世の終わり」という言葉は、核戦争や地球環境の激変による人類の滅亡を連想させる。しかし、当時のイスラエルに住むユダヤ人にとって、第一の関心事は、ローマ帝国という異邦人支配に対するイスラエル民族の政治的対抗とそれによって達成される独立・復興であり、彼らが待望したメシアは、選民であるイスラエルを政治的に救ってくれ、ユダヤ王国の栄光を取り戻してくれる民族的なメシアであった。それゆえ、自分たちの目の前で数々のメシアとしてのしるしと不思議を行われた待望のメシアと思われるイエス御自身が、イスラエル民族の象徴である神殿が崩壊すると預言されたことに弟子たちは仰天した。

事実、弟子たちが用いた「世の終わり」の「世」という言葉は、「世界」を表すκοσμοsではなく、主に「時代」を表す’αιωνである。この個所を「時代(age)」と訳している聖書は数多い(新アメリカ標準聖書、新国際訳、改定標準訳、グリーン逐語訳、新ジェームズ王訳、新改定標準訳、ヤング逐語訳、ウェイマス新約聖書、そして、ジョン・ネルソン・ダービー訳までも!)。

 

弟子たちが尋ねたのは、「世界の終末」ではなく「時代の終末」の前兆であった。そのことを裏付けるように、イエスは、様々な前兆を預言した後に、このように述べている。

 

まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません(34節)。

 

ここで「時代」と訳されている言葉は、γενεαである。これは、英語のgeneration(世代)の語源ともなった言葉で、「時代」とか「世代」を意味し、だいたい30年から33年の期間を示す。さて、「これらのこと」つまり神殿とイエスの来臨の前に起こる前兆が全部起こってしまうまでは、この「世代」は終わらないというならば、それらの前兆はイエスと同時代の人々の上に起こると考えねばならない。もちろん、この前兆には、21節の「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないようなひどい苦難がある」という大患難が含まれる。つまり、大患難は、イエスが預言したときから、一世代のうちに起こるとされている。実際、紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム包囲と侵攻により、神殿が崩壊し、100万人ものユダヤ人が虐殺された。

 

 ここにおいて、前千年王国説や無千年王国説が説いている終末における大患難には聖書の裏づけがないということがはっきりとする。しかし、このことは終末にもう一度起こると述べる人がいる。預言の二重性の原理を適用しなければならない、という。しかし、並行個所を調べるならば、このことが言えないことは明らかになる。すなわち、ルカにおいて、イエスは、「あなたがたが見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。」(21・6)とはっきりと述べておられる。つまり、イエスが述べた前兆とは、「あなたがたが見ている」神殿――紀元1世紀に生きていた弟子たちが目の前にしていた紀元1世紀に建っていたヘロデの神殿――についてのものであると断言されている。ここまで時代を限定する言葉がついている預言を終末に関する預言と敷衍して解釈することはまったくできない。

 

 マタイ24章の大患難は紀元1世紀のイスラエル民族の滅亡において実現したのであり、この個所の預言が終末において実現すると考えることはできないのである(***)。

 

 

(*)聖書において、神の民を表す数字は12である。イスラエルは12部族であった。新しいイスラエルである新約の教会の長として、12使徒が任命された。教会は新しい12部族として呼ばれている(参照・マタイ19・28、マルコ3・14-19、使徒1・15-26、ヤコブ1・1)。黙示録において12は、来るべき神の民の都、新しいエルサレムの構造を表すのに使用されている。21・12-14では、次のように言われている。

 

都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。

 

つまり、新しいエルサレムは、神の民=クリスチャンのためであるということが言われている。

24は、12の倍数であり、旧約聖書においては、神の民の礼拝を表す数字として用いられた。祭司の務めは24の氏族に割り振られた。礼拝の賛美の務めも24の氏族に割り当てられた。それゆえ、旧約聖書に熟知した当時のクリスチャンたちにとって、「24人の長老」が何を意味するかは明らかだった。すなわち、彼らは神の民を代表して礼拝を司る祭司であるということである。

王座は彼らが王であることを象徴し、24人であることは祭司であることを象徴している。つまり、「王なる祭司」(1ペテロ2・9)であるクリスチャンを代表している。

 

(**)古代において、国家は神殿を中心に成立していた。国家と国家の戦争は神々と神々の戦争でもあった。第2列王記18章において、アッシリアのセナケリブの軍が、イスラエルの神をののしってこう言った。

 

国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか(33-35)。

 

 神は、セナケリブの軍隊の撃破された。

 

その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ(19・35)。
 

 そして、イスラエルの神に対して、セナケリブの神がいかに無力であるかを印象付ける出来事が記されている。

 
彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった(同36-37)。

 

(***)それでは、14節の「御国の福音は全世界に宣べ伝えられてすべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」という個所も紀元1世紀に成就したということになるのか、という疑問が起こるかもしれない。しかし、パウロは、福音は当時世界中に伝えられた、と宣言している。

 

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。…この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです(コロサイ1・6、23)。
まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。…でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」(ローマ1・8、10・18)。

 

 誤りなき神の御言葉である聖書によれば、紀元70年前に福音は実際に全世界に宣べ伝えられたのだ。聖書は聖書によって解釈するという原則を適用するならば、我々はこの点についてもイエスの預言は紀元1世紀に成就したと考えなければならない。

 

 

 

 




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