創造論と進化論は和解できない

 

<ご質問>

私は「連続創造説」ではありません。歴史の中で断続的に神の創造が行われていると考える者です。

民族の形成という出来事は原初の6日間にはありませんでした。

民族としてのイスラエルの創造がイザヤ43:1で語られています。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。 恐れるな、わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。」

これは歴史の中での創造を告げる御言葉です。

この関連で、民数記16:30には、「主が新しいことを(歴史の中で)される」ところに創造(バーラー)を当てています。

原初史ではなく、歴史の中でおこなわれる創造についてはイザヤ48:7も語っています。

「これらの事はいま創造されたので、いにしえからあったのではない。この日以前には、あなたはこれを聞かなかった。」

次の聖句も歴史の中における創造を示しています。イザヤ45:07

「光を造り、闇を創造し 平和をもたらし、災いを創造する者。 わたしが主、これらのことをするものである。」

詩篇104:30「あなたが霊を送られると、彼らは造られる。あなたは地のおもてを新たにされる。」

また、イザヤ41:18−20は歴史の中における創造を自然の救済的変化の中に見出しています。

18 わたしは不毛の高原に大河を開き 谷あいの野に泉を湧き出させる。 荒れ野を湖とし乾いた地を水の源とする。

19 荒れ野に杉やアカシヤを ミルトスやオリーブの木を植え 荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。

20 彼らはこれを見て、悟り 互いに気づかせ、目覚めさせる 主の御手がこれを成し遂げ イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。

旧約聖書は個人の新生も、単に個人の決心、悔い改めの次元でとらえるのではなく、神の創造のわざと理解しています。ダビデがバト・シェバと通じたあと、預言者ナタンがダビデの罪を告発したときに、詩篇51の12で「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」と訴えました。「創造」はヘブル語テキストでは神の創造行為に限って用いられる特徴的な「バーラー」が使われています。つまり、罪人が悔い改め、新生することは、天地創造に匹敵する創造の御業がなされる結果、可能になるという重大な理解が表明されています。

イエスの復活は原初史における創造にまさる歴史の中での神の創造行為の最たるものであります。

そして、ペンテコステにおいてキリストの教会が誕生したのも、創造者なる聖霊のみわざでありまして、土のちりでこねたアダムにルーアハ(神の息=聖霊)が吹き込まれてアダムが活ける者となった原初史に対応します。

このように見てきますと、救霊の歴史はまさに神の断続的な介入が自然の世界と人間の歴史の中で行われる創造の御業そのものであると申せます。

私は自然的進化ということは信ぜられません。つまり、神の断続的介入無しに新しい種が生まれることはあり得ないと考えます。ですから、有神進化説とは立場が異なります。

 

<お答え>

救霊の歴史は、神の創造であるというのは、まさにそのとおりです。

なぜならば、パウロは新生した人について「見よ。すべてが新しくなりました。」と述べ、新生のことを新しい創造と呼んでいるからです。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ 615

なぜ新生が創造であるかと言うと、キリストは、アダムとはまったく異なる体を持っていたからです。なぜならば、キリストはマリヤの血も、ヨセフの血も受け継いでいないからです。もし受け継いでいたら、原罪を背負うことになり、産まれながらに罪人になってしまうからです。アダムの子孫はすべてアダムの性質を受け継いでおり、それゆえに、産まれながらにして契約違反者です。それゆえ、キリストの体はまったく罪を受け継がない体でなければなりませんでした。ここに、マリヤとイエスの間には決定的な断絶があります。たしかに、キリストは、人間として産まれたのですが、しかし、それは旧人類とはまったく異なる人類としてでした。

聖霊は、マリヤの胎の中にキリストの体を新しく『無から創造』されたのです。

そして、クリスチャンは、バプテスマによってキリストの体の一部に加えられ、クリスチャンの体そのものがキリストにつながれ、その子孫になり、それゆえ、私たちの体は新しい創造物であり、古い人類のそれではなくなったのです。

だから、クリスチャンの体は、聖霊を宿すことができるようになったのです。

新しい創造となったクリスチャンは、心も聖霊によって導かれ、新しい被造物としてふさわしい考え方をするようになります。つまり、堕落前のアダムに与えられた人類の使命を自分のものとしてとらえることができるようになったのです。彼は、御国の拡大のために働くことを喜びとするようになります。

彼は、王であるキリストの主権を地上に確立するために生涯を捧げます。

そして、彼の言葉と行いによって、周りの世界が徐々にキリストのものに変えられていきます。神の新しい創造の業はこのようにして世界に拡大し、世界が更新されるのです。

更新が完了したときに、キリストは再臨されます。

「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒 321

さて、このように創造は今も拡大しており、神はたえず創造の御業を行っているということが言えると思います。

しかし、キリストの体の創造のような『無からの』創造は、他の例では見当たらないように思われます。ぶどう酒を水に変えるにしても、すでにあった物質の変化です。パンと魚を1万人に渡したのも、もとにあったものを増やされたということだと思います。イエスが、突然目の前にパンと魚を出したわけではありません。

民族や人が創造されたとする個所も、民族や人が無から創造されたわけではありません。バーラーという言葉は、「必ずしも『無からの創造』という概念が含まれているわけではない」(R. Laird Harris, Theological Wordbook of the Old Testament)わけですから、これを歴史内における無からの創造の証拠とすることはできません。

さて、進化ということになれば、種と種の間になだらかな(またはドラスチックな)変遷があったということを証明しなければならないのですが、むしろ、現在までの実験では、種とは容易には変わらないものであるということが明らかになっています。元京大教授の日高敏隆氏は、次のように述べておられます。

「種のプログラムがいかに確固たるものであるかは、実験形態学や実験発生学の研究によってますます明らかになってきた。…ニワトリならニワトリとして、雄ならどのような形になる、雌ならどのような形になるということが、前もって厳密にプログラムされている。ホルモンはこのプログラムの進行にどうしても必要なものであるが、プログラムそのものを変更することは決してできない。…実験形態学の進歩は、このような例をいくつも明らかにした。変えることを目指した実験形態学は、動物が変わらないことを示す結果になった。…こうした事例をみてくると、われわれは二十世紀前半の、つまりこれまでの生物学がわれわれに与えてきた印象とはまったく反対に、種とは変わらないものだという感じを強く受ける。種は進歩、発展を求めて次々と変化していくものであると、生物学では進化ばかりが強調されがちだが、それはむしろまちがっていたようだ。われわれは種の不変性にこそ注目すべきだったのだ。」(『動物の生きる条件』118124ページ。玉川大学出版部)

ダーウィンが生きていた19世紀の中葉は、進歩発展史観が支配していた時代でした。アリストテレスやヘーゲルの、段階発展説が幅をきかせており、神も人間も無生物も、一つの本質を共有する異なる形態でしかないと考えられ、互いの間に質的な断絶を置かず、むしろ連続性のほうが強調された時代でした。だから、人々は、下等生物と高等生物、そして、人間との間には質的な相違よりも、類似性を強調し、その結果、あたかも、それらが共通の変化発展の線上にあるかのように見なされたのです。

しかし、創世記は、神と人間との間に断絶を置き、人間と動物、そしてそれぞれの種と種の間に決定的な断絶を置いています。進化の証拠を創世記の中に見ることはできません。神はそれぞれを「種ごとに」創造されたとはっきり述べておられるのです。

「神が、『地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。』と仰せられると、そのようになった。

それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

ついで神は、『地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。』と仰せられた。するとそのようになった。

神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。」(創世記11125

この個所から、植物から海洋動物への変化、海洋動物から陸上動物の変化を読み取ることはできません。そして、これらの後に、人間をまったく彼らとは関係なく、土から直接創られたと記してあります。

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記27

動物から人間への変化をここに読み取ることはできません。

それゆえ、聖書を取るか、それとも、進化論を取るかのいずれかしかないのです。

 

01/07/19

 

 

 




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