聖書を絶対権威と認めないと矛盾に陥る

 

> プロテスタント神学は、聖書が先であり、完成したものだと説くので、「閉じた

> 系」として、聖書の御言葉をとらえます。じゃあ、どちらが本当なのか、調べて

> みる必要があると思います。

> プロテスタントはヨハネ黙示録の結びの言葉で、「閉じた系」を主張しますが、

> ヨハネ黙示録は、単一に書かれた黙示録ですよね。なにが言いたいかというと、

> ヨハネ黙示録は、それ自体の奥義の預言の言葉について「この書の預言の言葉を

> 聞くすべてのものに証する。もし、これに付け加えるものがあれば、神はこの書

> に書いてある災害をその人に加えられる・・・」と述べているのであって、この

> 書とは聖書全体を意味してはいなかったでしょう。書かれた歴史的背景を考えれ

> ば、そうなりますよね。この御言葉で、「閉じた系」を主張するのは、歴史を無

> 視した捉え方です。プロテステントは、聖書が先と主張することから、誤って、

> 歴史を無視する神学に固執しているのです。その拘泥から、抜けられないほど。

 

 たしかに、ヨハネ黙示録だけを取り出せば、「これはヨハネ黙示録だけに適用できる原則であって、聖書全体には適用できない。」ということも言えるでしょうが、わたしは、これだけを述べたのではありません。大事なポイントを逃しておられます。何度も述べたように、「使徒たちは、イエスの正式の証人として定められている。それゆえ、かれらが述べたことを聖書の正典として教会は採用した」という主張について考慮されていませんが、これについてはいかがですか?

 もし、正典として、あらゆる判断の根拠を求めるための規準が、固定的に存在せず、常に入れ替わり、新たな啓示によって書きかえられる可能性のある宗教は、啓示宗教ではなく、自然宗教になるのです。

 たとえ、自分が神の啓示であると主張しても、それが正しいかどうかどうやって判別するのですか?教皇の意見が絶対ですか?それなら、異端審問によって無実の人々を処刑したことすら、正しかったということになり大きな矛盾に陥りませんか?

 繰り返し申しますが、イエス御自身ですら、「私は、律法や預言者を廃棄するために来たのではない。」と言われ、旧約聖書(「律法や預言者」という言い方は当時旧約聖書を指した)を無謬の権威として認めていたのではないですか?「これらの戒めの最も小さいものを破るように教えるものは御国において最も小さな者と呼ばれる」と仰ったのはイエス御自身ではないですか?

 人間は誤り多きものであり、自分のワガママによって、判断を曲げてしまうため、人間には聖書という規準が与えられたのです。

 それゆえ、聖書という固定された規準がなければ、我々は、時代の風にもてあそばれ、かえって無実の人に危害を加えるようなことをしてしまいかねないという意識は聖書に一貫して流れている思想です。

 クリスチャンは、「開かれた系」の中において、時代時代において判断規準を変えてもいいと言えるほど、クリスチャンの預言能力は絶対でしょうか?それほど、我々は賢いでしょうか?

 「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。」と言われたのは主ではないですか?

 もし、聖書すらもクリスチャンの判断によって削除したり、無効にできるならば、どうやって心を尽くして主により頼むことができるのでしょうか?

 自分よりもすぐれたお方である神が記された絶対の規準があり、「閉じられた系」の中において思考するという前提があるからこそ、我々は、人間のワガママやかって気ままによって裁かれることを恐れる心配がなくなるのではないですか?

 わたしは、これまで、教会が聖書から逸脱して裁いたために、多くの正しい人々が除名されたことを体験してきました。

 教会は無謬ではない。だから、教会は、神を恐れて、聖書の規準からそれたことをやってはならないのです。彼らは、「私たちには智恵がある。だから、裁くことができる。」と言いました。「それでは、聖書から論証してください。聖書はあなたがたが述べていることが正しいと言っていますか?」と尋ねても、「教会の長に従え。我々の権威は絶対である。」と繰り返すだけで、強引にある人々を教会から追い出してしまいました。

 このような専制は、聖書の権威を否定するところから起こっているのです。

 歴史は、このような専制を証言しています。

 イギリスのピューリタンの改革は、国王ですら、神の法の下にある。というところから、法治主義を主張したのです。

 

> パウロ自身、その書の中で、自分は、不完全なものであるから、私を絶対視する

> のをやめなさいと述べていませんか?コリント信徒への手紙の中で、常に、キリ

> ストを見上げなさいと薦めているではありませんか?

 パウロは、すでに述べたように、「自分を預言者と認める人は、わたしが言うことを神の命令であると考えなさい。」と述べており、自分の意見を絶対としています。そのほかにも、「これは私の言葉ではなく、主の命令です。」とことわって、自分の言葉を絶対であるとしている個所があります。

 パウロは、自分自身がイエスと行動を共にしたわけではないが、ダマスコの途上においてイエスと出会って使徒に任じられたと自称しており、教会も彼の言葉を使徒の言葉と認め、パウロの手紙を正典の聖書の中に加えたのです。

 

> 聖書や普遍教会を、神の霊感によって、無謬無きものとするのはどうかと思いま

> す。だって、歴史が、誤りだらけだったと教えているし、聖書には、すべては網

> 羅されてはいないのです。

> 中絶の問題に関しても、事細かくなどは述べていません。ところが、聖書は、そ

> れを越える何か不思議な神の計画の中にあることは、私も信じています。

 聖書を無謬の権威であるとするのは、聖書自体がそのように述べているからです。

 また、普遍教会を絶対とする考え方はプロテスタントにはありません。

 

 あくまでも、イエスの御言葉が中心なのです。

 イエスが、旧約聖書を神の言葉として扱っておられるから、我々は、旧約聖書を神の無謬の言葉として受け取り、また、イエスが自分の証人として任命された人々(使徒たち)が記した書物であるから新約聖書を無謬の神の言葉と信じているのです。

 教会が何を言ったとしても、それは、人間の言葉であり、教会は誤り多きものです。

 カトリックはさておき、少なくとも正統的なプロテスタントの教会は、聖書を越えたことを主張しませんし、何かを述べたとしても、たえず、聖書から論証することを義務付けられています。

 もし、聖書から証明できないようなことを言い出したならば、その牧師を追い出すか、教会を退会することができます。

> 聖書論を、私は十分勉強しているわけではないので、私の知らないこともあるか

> と思いますが、私の捉え方は以上です。文字面に拘ることは、破滅をもたらすこ

> とを体験的に知っています。

> 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕

> える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

> 第二コリント3:6

 ここで「文字」と呼ばれているのは、「律法」を指します。

 パウロは、「律法によって救いを得ようとするのは、無理である。律法を完全に守ることのできる人はいないので、律法を守ることによっては誰も救われず、ただ、キリストへの信仰によって値なしに義と認められる。キリストを信じる人は御霊によって生まれ変わり、御霊によって生きる。」ということを述べているのです。

 「パウロは律法遵守を否定し、文字にこだわることを否定した。」という解釈が正しいならば、パウロが他の手紙において、「律法にあるように、・・・しなさい。」と言っていることはどのように解釈するのですか?

 パウロは、律法を捨てましたか?

 「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)はどのように解釈しますか?

 パウロは、はっきりと、「信仰は、律法を無効にしない」と断言しているのです。

 イエスもそうです。「律法を廃棄するために来たのではない。」と。

 「律法を破るように教えるな。」とはっきり仰っているのに、なぜ、「律法に拘るべきではない」と言われるのでしょうか。

 聖書は、一箇所を取り出して何かを言うことはできません。全体と調和するように引用しなければならないのです。

 告発者としての律法は、イエスが十字架にかかられたときに沈黙しました。

 それゆえ、クリスチャンは、律法から告発されることはありません。イエスを指し示して、「わたしはすでにあそこにおいて処刑されました。」と答えることができます。

 しかし、教導者としての律法は、今日においても有効です。

 律法にしたがって、歩む責任が人間にはあります。

 

 旧約聖書において啓示された神の言葉は、新約聖書において変更されているのではない限り有効であり、人間が歩む規準であり、人間が社会を運営していく上で絶対の規準なのです。

> 題しての講演の説を伝えてくれました。仙台教誨士の先生は、死刑を全面的に否

> 定したらキリストの贖罪は生じなかったと考えているようです。死刑の3つの例

> 外を認め、通常の制度としての死刑は、あるべからざることだと言っていたそう

> です。文献として「講座現代キリスト教倫理」(日本基督教団出版局)と、有斐

> 閣1991年「死刑廃止論」(団藤重光)を引用されたそうです。

>

> 私なりに、放送大学の教材等でも調べてみた結果、「教育刑論」に、心理の光を

> 見いだします。「応報刑論」を越える、「応報刑論」を廃棄するのではなく、完

> 成成就するために来たというイエス様の教えが説かれているかのようです。十字

> 架上で、「彼らの罪をお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからな

> いでいるのです」と祈られた御言葉の実現です。

 すでに述べましたように、イエスが十字架上において処刑する人々を赦されたのは、「被害者が刑を決定できる」という旧約律法の原則からでした。

 姦淫の被害者は、その配偶者に対して、処刑を求めることもできますし、無罪を求めることもできます。

> 昔、日本兵が、中国の方々の暖かい許しによって教育の機会が与えられ、悔い改

> めることができた歴史をご存じですか?死刑に値する罪人たちを、養い、教育

> し、目覚めさせてくださったのです。キムヒョンヒさん同様に。

> 刑法学的にも政治的犯罪と私利私欲の犯罪とは分けるようですね。わかるような

> 気がします。

> それでも、なぜ、宝石商殺人者は違うと言えるのでしょう。それを裁くことがで

> きるお方は、神様ではないですか?宝石商殺人者が悔い改められるかどうかはわ

> かりません。あり得なく思えます。でも、その教育の機会が与えられなければ、

> 応報刑論で死刑になってしまってからでは、だれもかれも永遠に救いの機会がな

> いではありませんか?

 これは、方法論の問題だと思います。

 拘置所において、福音を伝えることによって、彼であっても救いを得る機会が与えられるでしょう。

> 私は、神の法からいえば、死刑に値する罪人です。

 だれでも死刑に値する罪人なのです。

 だから、すべての人はキリストを信じる必要がある。

> もしかしたら、宝石商殺人者

> のような無知を犯したかもしれません。これからも無いとは言えません。

 宝石商殺人者は、無知で罪を犯したのではありません。

 彼は自分の取っている行動の是非をしっています。

 人間は、神に造られた者であり、心に神の良心が与えられているのですから。また、右も左も分からない幼児ではないのですから、無実の人を縛り上げて焼き殺すことが善であるか悪であるかも知っています。

> 神の忍耐は歴史にはっきり現れています。人間の思いを遙かに越えた計らいが見

> られるではないですか?

 人間の思いを遥かに越えている神が、「殺人者を処刑せよ」と言われているのです。

 それでは、旧約聖書を書いたのは神ではないと言われるのでしょうか?

> 人間に裁きがゆだねられているのは、間違いが取り返せる刑法まででしょう。死

> 刑で冤罪になる命を、神はどうお考えになりますか?どう取り戻せますか?それ

> でも、実際の国の法としての死刑制度を唱えられますか?神がそれを望んでいる

> とお思いになりますか?

 神は、旧新約聖書において、人間の社会は、人を処刑することができると述べています。

 人間の社会が処刑できないとするのは、神の命令違反であり、自分を聖書よりも賢いとすることです。

 冤罪は、何も人のいのちだけに限りません。人の社会的な生命を抹殺することだってできる。取り返しのつかない間違いを人の制度は犯すことがある。しかし、それでは、すべて裁判制度を廃止してしまえば、人間社会は何も裁けないということになります。

>神は生きておられます。生きておられる方の生きた裁き

> は、人間を社会を生かすことに向かっています。そして、いつも救いの実現を見

> せてくれます。

 それでは、旧約聖書を書かれた神が何故人間に人のいのちを取れと命じられたのでしょうか。

 旧約聖書に記されている神様は、生きておられる方であり、彼の裁きは、生きた裁きです。その生きた裁きをなさる方が、人間に「処刑」を命じておられるのです。

 人間に処刑を命じている個所になると、神は死んだ神になるわけではないのです。

 神は一貫して生きておられる方です。そして、その生きておられる方が、聖書を書き記され、そこにおいて、処刑を命じておられるのです。

 自分の小さな枠に神を押し込めると、神を誤解してしまいます。

 神は、我々が考えを越えた方なのです。もし、聖書啓示を無視するならば、我々の神は、人間の頭脳で想像のできる小さな神になってしまいます。

 聖書という我々の頭脳を遥かに越えた方からのメッセージを幼児のように素直に受けることがなければ、我々は、自分の頭で描いた神観で止まってしまいます。

> 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕

> える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

> 第二コリント3:6

 御霊に仕えることは、文字を無視しません。

 聖書の外的啓示と、聖霊の内的啓示の両方をバランスよく強調するところから逸脱するならば、自分の頭脳と霊が作り出した宗教を作り出すことになります。

 自分の主観が支配してもよいのだと考えると、他のクリスチャンとの間に共通の信仰は不可能になります。

 クリスチャンそれぞれが、自分の主観を聖書の上においてよいのだとするならば、教会という共同体は成立できません。百人百様の信仰があり、共通の信仰を告白できないからです。

 神はお一人であり、信仰も一つです。クリスチャンは互いにキリストの体の一部であり、一つの信仰=聖書に基づく客観的教理=により一致します。

聖書啓示よりも自分の主観のほうがすぐれていると言うならば、一つの信仰を主張できません。

 

 

 




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