基準は何か?

 

 R・J ラッシュドゥーニーの一番最初の著書の題が、By What Standard?でして、その答えとしてバーンセンのBy This Standard(「現代に生きる旧約律法」の原題)がありました。

 ヴァン・ティルは、「中立はない。」ということを生涯に渡って繰り返し主張したのですが、ということは、神的ではない政治、経済、文化は、つまり、サタン的ということになる。じゃあ、神的な政治、経済、文化とはいったい何か、という疑問が弟子たちの間から起こった。

 ドーイウェールトも懸命に、キリスト教的学問の創設、キリスト教的政治、経済、・・・と主張したが、残念ながら、あまりにも哲学的な回答しか与えることができず、結局、聖書にその回答を求めることができなかった。

 ヴァン・ティルとドーイウェールトという二人の巨人においても、結局、確固とした結論はでませんでした。

 それで、次世代のキリスト教のリーダーからその回答を与える人が登場した。

 それがR・J ラッシュドゥーニーであり、グレッグ・バーンセン(バーンセンはまだ若いですが、もう亡くなりました)でした。

 「聖書律法こそ、解決である。」

 この至極あたり前のことが長い間人類の脳裏から消えていたのでした。

 律法は、旧約聖書の時代の遺物である、との考えが長い間キリスト教を支配してきました。もちろん、十戒をはじめとする律法を強調する伝統は、カルヴァン主義にはありますが、しかし、社会制度まで律法を適用することにまでは思いが至らなかった(アメリカ・ピューリタンの一部にはそれがありましたが)。

20世紀に至る世俗の社会体制を支配してきたヒューマニズムが崩壊する過程において、真の代替物をクリスチャンは提示できないものかという要請が、このような新しいキリスト教の動きを生み出したということは言えると思います。もし、ソ連や中国の失敗がなければ、聖書的な経済学などの必要性は生まれなかったでしょう。「ノンクリスチャンに任せても大丈夫だ。」と考えていたことでしょう。しかし、ノンクリスチャンは、やはり、サタンの支配を受けており、闇の中を歩んでいる人なのです。だから、光の中を歩む私たちが彼らを導かねばならない。「世の光」ですから。

 

 

 




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